言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

僕たちが立つ場所―いしいしんじ『海と山のピアノ』

今回はいしいしんじ『海と山のピアノ』(新潮社、2016年)という本について書いていこうと思う。発売された時、表紙が可愛いということで話題になっていたのは記憶に新しい。書店へ行ったところ、新刊本コーナーにあったこの本の可愛さには抗えず……買ってしまった(笑)

 

命をはぐくみ、あるいは奪う、水の静けさ、こわさ、あたたかさ。響きあう九つの物語。

山で人が溺れた日から半年、グランドピアノとともに町に流れ着いた一人の少女。子守唄、海の歌、重なってゆくピアノと人びとの歌声、そして訪れる奇跡――。全篇をとおして音楽が鳴り響く「海と山のピアノ」。四国という土地がたっぷりと抱き込んだ命の泉に浸されるような「ふるさと」など、豊かな物語性にみちた水にまつわる短篇集。

新潮社HPより引用

 

 

海と山のピアノ

海と山のピアノ

 

 

短編集で9作品収められていて、実は新潮掲載分はすべて雑誌発売時に既読。今回「野島沖」(初出『東と西2』小学館刊、2010年)以外はすべて再読という感じに。

「ふるさと」という作品が雑誌掲載時からとても好きだったので、今回単行本になって嬉しかったし、こう一冊にまとめてもらえると一つ一つの作品と再会できるだけでなく、以前読んだ時とはまた違った読み方でもう一度楽しめるらしい。

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収録作品をメモ程度に書いておく。

「あたらしい熊」「ルル」「海賊のうた」「野島沖」「海と山のピアノ」「秘宝館」「川の棺」「ふるさと」「浅瀬にて」

 

私は特に「ルル」「野島沖」「ふるさと」「浅瀬にて」が気に入っている。

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この作品たちは、固定観念にがんじがらめになっていたら読めないと思う。

自分が当たり前だと思っている世界観(物の考え方など)を一旦手放してみること、その面白さとこわさがすべての作品から感じられた。それぞれの作品に提示されている物語の前提がまずピンとこない。私達がふだん暮らしている場所には絶対にない習慣や風景が当たり前のように描かれている。そこに「物語」としての必然性がない、という批評は成り立ちそうだが、そう言って切り捨ててしまうのはあまりにもったいない。いっけんすると「やさしい物語」にみえるこの本のいしいしんじ作品は、実はストーリーを読むというよりは、「読者が自分の立ち位置に敏感になる」ように仕向けられていると思う。

ストーリーのぶっ飛び感はラテンアメリカ文学を読んでいれば結構普通に受け入れられてしまう。そこに新しさはない。「野島沖」という作品では登場人物たちがいつの間にかクロマグロになっている(笑)さらっと一行程度で。そこに魔法も理由も何もない、ただなんかクロマグロになっている(笑)この登場人物たちというのは、そもそもクロマグロを獲る漁師たち。そんな彼らがクロマグロになって、延縄を引く。そしてその重さに自分たちは「海を引いている」のだと思い同時に「海に引っ張られている」とも思うのだ。

「海賊のうた」に登場する「ボール」も面白い。以下に「ボール」に関する文章を引用してみる。

 

上半身裸の「ボール」は、鉈一本で流木をベンチ風に削っては、つぎつぎと、なだらかな砂浜に転がしていく。(前掲書、65頁より引用)

 

おんなは酒を注いでは配り、コックはプラスティックの皿に魚スープを盛りつけ、ボールはベンチに流木を叩きつけ、野放図なドラムの演奏をはじめた。」(前掲書、70頁より引用)

 

運転は、奇跡、コック、俺、のちにはおんながハンドルを握ることもあった。ボールはどこにいっちまうかわからないから危なかった。(71頁より引用)

 

幅広の手こぎボートを、ボールがバランスよく支え、浜の真ん中まで軽々と運んでくる。

(85頁より引用)

 

ウアー!奇声を発し、ボールが跳ねる。砂を散らし、弧をえがいて、ひとが飛べるとは信じられない高さまで跳ねあがる。おばさんも俺たちも、驚きなしにその跳躍を見守る。(中略)ボールのかたちが膨らんでは縮み、勢いをつけてバウンドしては首が痛くなるほどの高さまではずむ。(94頁より引用)

 

水平線が黄金色のナイフとなって、宇宙を真一文字に切り裂く。海にぽっかりあいた傷口から、五十億年燃え続ける炎のボールが、じりじりと上がってくる。(95頁より引用)

 

おわかりいただけるだろうか? 「ボール」という作中の言葉が人物の固有名詞なのか、私たちが普段目にする球体のボールなのか、はたまた太陽なのか。たった一言「ボール」という言葉にこれほど多様なイメージを与えて一つの作品内で変奏してみせてくれるなんて……!(ちなみに上に引用したボールがすべて同一のボールなのかはどこにも書かれていないのでわからない。)物語の力を駆使して、言葉のイメージを膨張させ読者に豊かなイメージを与えてくれる作品。無駄に思える(というかどうしてこの言葉がここで使われているのかよくわからない)単語が、別の個所に出てくる単語と響き合い、新イメージを提示してくるこの感じはいしいしんじに固有のかなり独特な手法だと思う。

言葉、という誰もが当たり前に使っているものに敏感になればなるほど、それは当たり前のものじゃなくなってくる。私が「言葉」と書いた時の「言葉」の意味は、あなたが今思い浮かべている意味とは違うかもしれない。言葉というものは、しょっちゅう人と人の間で誤解や面倒事を生むけれど、敢えて前向きに捉えればその幅の広さこそがひとつの「可能性」なのかもしれない。そう思わせてくれる作品なのだ。

 

話が少し逸れてしまったが、「読者が自分の立ち位置に敏感になる」ように仕向けられているということについて、もう少しだけ書きたい。

「浅瀬にて」という作品が最もダイレクトに人の立ち位置について書いているように思えた。一読した時は何か時間や空間についてすごいことを言っているのではないだろうか?と思ったのだが、その感覚はある意味では間違っていなかった。

私達が「時間や空間」について語る時の「時間や空間」は固定観念にがんじがらめにされた一般的な感覚である。「浅瀬にて」には「土地の起源(僕たちの祖先の男女は砂漠を歩いていて出会ったというもの)」と、「今現在海原に囲まれて暮らしているのに習慣としてほとんどの人が海に入らない人々」が描かれている。海に入らない人々は祖先は砂漠を歩いて出会ったというのを当たり前のことだと思っているけれど、五軒に一人くらいの割合で存在するという海に入る子供のひとりである「僕」は、その神話に違和感を持っている。実は祖先は海底を歩いていたんじゃないか、そうして歩き続けて陸地に辿りついたのではないか? と子供ながらに考えている。

ある日、海や風の様子がおかしいということで、人々は「海の塔」というものを建てる。その塔には海浜の漂着物を貼りつけていくのだが、古い漂着物を下に、新しいものほど上にという一定のルールがある。陸から空に向かって聳える「海の塔」は陸から空に向かって時間が積み上がっているような構造になっている。海と陸、陸と空、それぞれの関係について私たちは一定の共通認識を持っているわけだが、いしいしんじの描写はそういう共通認識を崩していく。

 

「僕」の友人で海に入る「蟬」というあだ名の人物が海へ飛び込む描写がこんな具合だ。

 

「髪をなびかせ、磯の縁から蝉が飛びこむ。揺れる青空に、さかさに飛びあがっていくみたいに。」(250頁より引用)

 

物語の途中、海に潜った「僕」は海底のほうに「不定形の小児たち」という私たち人間の理解を越えた存在を見る。陸でも海底でもないところに「僕」がいる頃、「蟬」は海の塔に昇ることで陸でも空でもないところにいる。「不定形の小児たち」の側から見れば「僕」はきっと空に浮かんでいる存在に見えるだろう。ここではっと気がつくのは、「底」ってどこなんだろう? ということ。私達が安心して足をつけていられる「底」というのは実は相対的なもので絶対なんかないのではないか?ということに気がついてしまう。

 

不意に、自分の立っているこの地面が、この世の底のような気がした。頭上にひろがっているのは空でなく、ほんとうは海原で、僕たちは潮を吸い、潮を胸から吐き出して呼吸している。そう、塔が示すとおり僕たちは、いちばん古い海の底に立っている。

(259頁より引用)

 

「絶対的」だと思っていたものが呆気なく崩れることだってある。そんな時、我々は自分の立ち位置に敏感にならざるを得ない。敏感に、というか立ち位置について柔軟に捉えることを求められることだって、生きていれば普通にある。「あなた」と「わたし」の感覚の違い、そういうものにふと気がついた時、どちらが正しいかという思考抜きに私達は暮らしていることに気がつく。

今自分がいる地点というものは、自分にとっては陸地であっても、別の存在(人間にはわからない存在)には海の底に見えているかもしれないし、空に浮いているように見えるかもしれない。私達が生きている場を相対化した物語、そんな風にこの作品を楽しんだ。

 

 

僕たちは、光のとどく浅瀬にいる。そこで、ふくらんだり、ちぢんだり、つながったり、ところどころ、穴があいたり、そんな風に息づいている。

(278頁より引用)

 

「浅瀬」というのは海のようで陸のようで、どちらとも言えない曖昧さがある。潮の満ち引きによって状態も変わる、決して不変の場所ではない。「光のとどく浅瀬」だから、空の色を写していることだってあるだろう。そういうところに「僕たち」は暮らしている。

 

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