Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

サイード 『知識人とは何か』を読んで考えたこと

 

いきなり私事で恐縮であるが、このブログは非営利である。アフィリエイトをやっているわけでも、広告収入で小遣い稼ぎをしようとしているわけでもない。どんなに頑張って記事を書いても、どんなにアクセス数がアップしてもギャラは永遠の0である(というか、この程度の文章でお金をもらおうと思うわけがない)。

つまるところ、ただの凡人の雑記ブログであるが、だからこそできることがある。それは「数字」を気にせず自分のやりたいことをやりたいようにできる(読みたい本を読みたいように読んで好きなように感想を書く)ということだ。どの記事がよく読まれ、どの記事がほとんど顧みられないのかはブログの管理画面を見れば実はわかる。が、ブログ管理人としては読まれない記事に価値がないとは思っていない。どれもこれも、それを書いた時の自分には動かし難く切実だったのだ。こういう姿勢はサイードのいうアマチュア主義(アマチュアリズム)に多少なりとも通じるものだと思う。

 

今回紹介する本はこちら↓↓

エドワード・W.サイード著、大橋洋一 訳『知識人とは何か』(平凡社、1995年)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

知識人とは何か (平凡社ライブラリー)

 

 

 現在は平凡社ライブラリーのほうで入手可能なようだが、今回は単行本のほうを用いた(引用頁番号などは単行本に依っている)。サイード(1935年-2003年)の著作といえば、人文系のたいていの学生にとって「必読の書」と言われることが多い。最も有名なものは『オリエンタリズム』(1978年、邦訳は平凡社1986年、1993年)だ。実は最近になって久しぶりにサイードの著作を再読をしていた。

 

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『知識人とは何か』という本は、1993年におこなわれた全6回のリース講演を収録したものだそうだ。

※リース講演=BBCイギリス放送協会)初代会長ジョン・リース卿に敬意を表して1948年にはじめられたラジオ・テレビ講演

 

全六章からなり、目次は以下のようになっている。

 はじめに

  1. 知識人の表象
  2. 国家と伝統から離れて
  3. 知的亡命――故国喪失者と周辺的存在
  4. 専門家とアマチュア
  5. 権力に対して真実を語る
  6. いつも失敗する神々

この本を思わず手に取ってみたくなるということは、その人は心のどこかで「知識人とは何か?」について考えているのだと思う。今の自分にとって必要なバランス感覚。世の中のことと自分の内面のこととの折り合いのつけ方や、理性的なふるまいと感情的なふるまい、公的な発言空間と私的な発言空間……私はこれらの事柄の線引きがどうも気になってならない。最近の日本の政治状況を見ているとどうにも「数の暴力」がまかり通っているとしか思えない。サイードは権力者が権力の側にとって都合の良い「知識人」を丸め込む、というようなことを言っているのだけれど、今の政治は「知識人」を徹底的に無視しているとしか思えない。インターネットを通じて、多くの人々が発言の機会を得た、が、その発言がどこまで政治に影響を与えて良いものなのかわからない。インターネットの「大きな声」でかつ「政治的に都合の良い意見」ばかりが取り沙汰されているのではないかと疑ってみる必要もあるかもしれない。理性と感情、公と私のそのバランス感覚こそが今、知識人に求められているのではないだろうか。

イードの知識人観は以下のようなものだ。

 

このような国家への忠誠の圧力、そこからどうしたら相対的に自律できるかを模索すること、これこそ、私見によれば、知識人の主たる責務である。この責務を念頭において、わたし独自の知識人観がうまれた――知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。

(前掲書、「はじめに」12頁より引用)

 

「言葉の使い手である」ということについて、サイード「代表=表象(レプリゼント)」するという言葉を使う。知識人というのは表象する存在である。小さな声(少数派の意見)や社会の主流から見落とされがちな物の見方(物事の違った側面について)を公的な場で社会に突き付ける。こうしたことを知識人は「普遍性の原則」にのっとって行う。

 

ここでいう普遍性の原則とは、以下のことをいう。あらゆる人間は、自由に公正に関して世俗権力や国家から適正なふるまいを要求できる権利をもつこと。そして意図的にであれ不注意であれ、こうしたふるまいの基準が無視されるならば、そのような侵犯行為に断固抗議し、勇気をもって闘わねばならないということである。

(前掲書、「第一章 知識人の表象」33頁より引用)

 

また知識人が「亡命者にして周辺的存在」であるというのは、「中間的状態」に位置づけられることを意味している。言われてみれば当たり前なのだが、何かを考える際、「熱狂」ほど危険なものはないと思う。「熱狂」は「盲信」に繋がるのではないかと常々思っている。たとえば二つの主張があるとして、知識人はこの二つのどちらが正しいと決めつけをすることなく、両方を対置し、両者を新たな、思いもよらない角度からながめる(そうして独自の物の見方を言葉にして語ることによって政治なり社会なりに影響を与えていく)。

 

知識人の独創性と意志とを脅かす四つの圧力というものについてサイードは言及する。簡単にまとめると、だいたいこんな感じだ。

  1. 専門分化(スペシアライゼーション)
  2. エキスパート制度、資格をもつエキスパート崇拝(資格をもつ、ということはつまりそれ相応の権威筋を通らなければいけない、ということ)
  3. 専門家を政府権力や権威に近いところにおことうしたり、政府側の要請に応じさせる代りに特権を与えたり、さらには政府側に直接雇用しようとする圧力
  4. 自由市場のシステム、市場獲得競争(売れればいい、とにかく数字を出せればいい、という考え方)

これらの圧力にゆさぶりをかけることができるもの、それが「マチュア主義(アマチュアリズム)」である。サイードによるとアマチュアリズムとは「専門家のように利益や褒章によって動かされるのではなく、愛好精神と抑えがたい興味によって衝き動かされ、より大きな俯瞰図を手に入れたり、境界や障害を乗り越えてさまざまなつながりをつけたり、また、特定の専門分野にしばられずに専門職という制限から自由になって観念や価値を追求するということ」(120頁)をいう。

 

しかし、とサイードは語る。端的に言って、アマチュア主義では生活していけない。「程度こそちがえ、同じこと(政府や大企業の誘惑に屈しモラル感覚を一先ず脇へよけておくこと)をわたしたち全員がおこなっている。誰も完全に独立独歩ではやってゆけない。このことは自由の精神の持ち主のなかで、どんなに偉大な人間にもあてはまる」(135頁)。

 

知識人というものは「バランス感覚」が試されるのではないかと私は思う。正しいとはどういうことなのか、揺れ動く社会に対して常に柔軟な姿勢で向かいながら、必要とあらば「権威」であれぶち壊しにかかる。そういう自由な議論の場は最低限、常に確保されていなければならないはずなのだが……さてこの国は一体どこへいくのか。このままいけば、「共謀罪」は知識人を脅かす五つ目の圧力になってしまう。

インターネット上ではテレビや新聞の報道以上に様々な意見が飛び交っているが、それに賛成であれ反対であれ、こういう思考する場そのものを奪いかねないのが「共謀罪」の制定であることを忘れてはいけない。

 

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