言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

時間を引きずっている―エドワード・W・サイード『晩年のスタイル』

いつか自分も、自分の中にあるもので充足して同時に自分の作り上げた作品にも満足できる日というのが来るのだろうか、たとえば……晩年、とかに。でも、それがいつなのかということは主体が生きている間、明確に意識されることはきっとなくて、と、いうことはやはり一生足掻き続けることになるような気もする。巷で語られる「完成」した人生の嘘くささ。こういう「完成した人生の物語」のようなものはどうして作られるのだろうと考えた時、「あこがれ」ということが脳裏をよぎる。「完成」することに、「満たされる」ことに私はあこがれる。うっかり小説なんかを書くという人生を選んでしまったがために、引きずらなければならない思いを反芻するようにこの本を読んだ。

 

エドワード・W・サイード 著、大橋洋一 訳『晩年のスタイル』(岩波書店、2007年)

晩年のスタイル

晩年のスタイル

 

 

私にはどこかで書くというこの戦いを終わらせたいと、決着をつけたいと、そしてその先にある安穏とした時を過ごしたいという願いがある。この願いが「晩年」または老境の円熟という幻想を生み出すのかもしれない。しかし、本当に波風のたたないベタ凪の晩年なんかはどこにもなくて、きっと一生、いつ終わるのかわからない(けれども必ず終わりが来る)時に挑み続けなければならないのかもしれない。

 

エドワード・W・サイードという人はこの『晩年のスタイル』という本を完成させる前に亡くなってしまったそうだ。まえがきや序文によると、この書物は、死後残された論文やエッセイの原稿をまとめたものだとのことである。サイード存命中に完成をみなかった、ということ自体が何故と言われても明確な言葉にできないけれど、なんとも不思議な気がしてしまう。サイードもまた彼なりの「晩年性」を体現したのかもしれないなどと思うのはロマンチックに偏り過ぎだろうか。

本書の主題は晩年性(lateness)である。マイケル・ウッドによる序文によると「late」という語は微妙に推移する意味をもつという。それは約束を守れなかったという意味(「遅刻」)から自然環境の一時期という意味(「遅い」「後期」「晩期」)を経て、消滅した生命という意味(「亡き」「故」)まで多岐にわたる。

 

「lateなるものは、時間との単純な関係を名指しているのではない。それはいつも時間を引きずっている。それは時間を想起する方法である――時からずれていようが、時に適っていようが、過ぎ去っていようが。」

(本書、マイケル・ウッドによる序文、8頁より引用)

 

「晩年のスタイル」という用語はもともとアドルノによるようだが、本書に収められた著作の中でサイードは様々な芸術家の作品から「晩年性」を読みとっていく。「晩年性」とは表現の「円熟」ではない。サイードにとって「晩年性」とは「故国喪失(エグザイル)の形式」である。そしてその特権的な形式は「時代錯誤性(アナクロニズム)と変則性」である。現在のなかにありながらも、どこか奇妙に現在から浮いているもの。それ故に一般大衆に理解されないものもある。しかし、現在を越えて生き延びるものなのだ。

イードが読み取った「晩年性」の一例を簡単に列記しておこう。たとえばベートーヴェんの晩年の作品の難解さに見られる非和解性(一般に容認されたものからの自己追放)、ジャン・ジュネの押し付けられたアイデンティティへの抵抗、貴族であったジュゼッペ・とマージ・ディ・ランペドゥーサが、「死を宣告するところの古き秩序そのものの代表である」作品でもって大衆社会と複雑なつながりを持つジャンルに取り組んだこと、グレン・グールドがバッハの作品をインヴェンションし再構築することで、彼のピアノ演奏に劇的な新たな次元を付け加えていったことなどが書かれている(私の知識の浅さから読みきれたとは到底思えないので、間違えた理解をして読んでしまったところも多々あるかもしれない。特にオペラに関して言及している部分が多いのだけれど、オペラに馴染みがないためによく分からないまま流してしまった部分も多くある、ごめんなさい)。

 

時代遅れであったり、時に適っていたり、時代を先取りしすぎていたりするもの、それらを漠然と感知しながら我々は生きている。こうして時間を引きずりながら日常を営むわけだが、ある特定の物(芸術作品なり日常雑貨なり)をピックアップしてその物にどういう「時」が付随しているのかをじっと考えてみると、ひとつひとつの物事すべてが分厚い意味をもって生活を侵してくる。なんであれ、私は物事に意味を見出したいと思いながら書きつづける、しかしその意味が「確定」することはないのかもしれない。「確定」させてしまうことは、嘘くさいうすっぺらな「晩年の円熟」という幻想を志向するということだ。

……などと、自分が今までも今現在もこれからも置かれ続けるだろう不安定な心境を思うとぞっとしてしまう。「完成」や「円熟」や「満足」はない、けれどもこの記事は一応のところ、ここで終わらせなければならない。

 

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