言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

「生涯学習」のふたつの側面、あるいはこれはエグイことかもしれない

今回は前回の記事の最後に予告した通り【「生涯学習」のふたつの側面、あるいはこれはエグイことかもしれない】ということについて考えたことを書いていきたい。だいたい『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という本を読みながら考えていたことだ。

↓↓前回記事 

mihiromer.hatenablog.com

 

この記事を読む皆さんは生涯学習」という言葉についてどういう印象を持っているだろうか。社会的にも推進されていることで、その施策としてあちらこちらにカルチャースクールがありたくさんの講座が開講されている。

私は「生涯学習」という言葉にマイナスのイメージを抱いたことはなかった。上に書いた通り、たくさんの講座が開講され、その気になれば何でも新しく学ぶことができる、というのは素晴らしいことのように思えていた。勿論、そういう側面では今でも「生涯学習」は望ましいことだし、推進されるべきことであると思う。

 

広辞苑で「生涯学習」を引くと次のようなことが書かれている。

自己啓発、生活の充実、職業的知識・技能の向上などのために生涯を通じて学習すること、およびそのための活動。1990年、生涯学習振興法制定。」

 

ん、「職業的」……?

ここにエグさを感じてしまった。「生涯学習」を平たく言うと「一生勉強」である。私が先ほどから繰り返している「生涯学習」の良さというのは、「学びたいものを学ぶことができる」という点であった。しかしこれに「職業的」ということが加わると……?

現在の日本で、本当に自分の好きな事を職業にできる人は少ない。となると、新しく学ばなければならにことの大半は自分の趣味には何の関係もない仕事上の技能だったりするのではないだろうか? はっきり言って社会の要請、押し付けで勉強するのは面白くない。しかも「職業的」に喜びを感じられる人も減ってきているように思える。 となると最早学びは苦行でしかなくなるのではないだろうか。

実際私が仕事で使うために覚えなければならないことは膨大である。非正規雇用で、これ一つで生活するのが苦しいほどの低賃金であるにも関わらず、家に帰ってまで勉強しないと訳が分からなくなる。一生勉強である、馬鹿な。

そんなことを考えていた矢先、『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』という本の中にこんな一節をみつけた。

 

技術の更新があまりに速いために、こちらも耐えがたい速度で思考習慣を再編しつづけていなければならないということは、たしかにありますね。二年に一回はコンピューターを買い替えなければならない、なぜなら、コンピューターというのはそういうふうにできているのです。一定の時間がたつと使用期限切れになって、修理すると買い替えるより高くつくようになっている。≪中略≫そして新しい技術が導入されると、新しい反射神経を獲得すべく、新たな努力を強いられるわけです。鶏は一世紀かけて道を横切らないことを学習しました。新しい交通規則にようやく適応したわけです。しかし私たちはそんなに時間をかけられません。

(『もうすぐ絶滅するという紙の書物について』阪急コミュニケーションズ 2010年、64頁、ウンベルト・エーコの言葉より引用)

 

物や技術の入れ替わりの速さには本当に眩暈を感じる。

パソコンや携帯電話は修理に出すよりも買い替えたほうが安くすむことが多いし、電子書籍専用端末であるKindleに至っては「修理」をどうすればいいのか全く不明である(笑)壊れて動かなくなったら、たぶん新しいモデルに買い替えるしかない。

新しいものに買い替えるたびに、我々は意識しなくても新しい機構に自分を合わせて順応している。これが無意識にできないのを感じた時ふと「生涯学習」ってエグイ!と思ってしまった。携帯電話の説明書なんて見なかった(見ずに済んでいた)頃には考えてもみなかった学びの連続が社会には満ち溢れている(年々分厚くなる家電の「取扱い説明書」を読むのは難しい。年齢と共に「多機能」は「無機能」になっていくのだ、使い方がわからないから。そしてこれが老いであるか!笑)。

 

変わっていくのは物だけではない。技術、社会システム(会社の規則だの運用規定だのと言われているものも含めて。)も気がつけば変わっている。自分が考えていたことはあっという間に「旧い常識」となり、現在に対して通用しなくなる。自分が修得した[技術]はあっという間に「刃こぼれ」をおこし、現実に歯が立たなくなってしまう。

子供の頃にあった瞬間、「自転車に乗れるようになった」。これは大人になってもしばらく使える技術であり、そう易々と無効にはならない。しかし実際に仕事をしていると「自転車」のようなものは驚くほど少ない。パソコンのソフトや会社のシステムはすぐに更新される。

いつの時代にも社会は常に学びの場であっただろうが、今ほどスピードに翻弄される時代はなかったのではないだろうか? 一世紀かけて変われたらどれほどのんびりできることか。

次から次へと覚え、次から次へと忘れる、これを「学び」と呼んでもいいものかと考えてしまう。

 

勿論私には、一生をかけて探求したいとおもっていることがあるし、それについての学びはいつもでも無効にはならないだろう。だが、この探求をするためには生き続けねばならないのであり、そのために猛烈に変わっていく社会に自らを合わせ続けていかなければならない。少なくとも自分が生活の糧(賃金)を得る分野においては悲しいことに「次々覚え、次々忘却し続ける」しかない。この「学び(モドキ?)」が私生活にまで入り込んでくる状態で「生涯学習」を讃美できるか、というとかなり微妙である。時間が足りないだけではない、いくら修得してもその知識なり技能はすぐに使えないものになってしまう。心には虚無感だけが残る。もしかしたらこの虚無感が「文学部(人文学部不要論」に結びついているのかもしれない。

 

 ↓過去記事(参考までに)

mihiromer.hatenablog.com

 

いろいろな「学び」があっても良いと思う。いわゆる「学問」に属する学びも、「生活」に直結する学びもどちらも重要なものである。だが、これはあくまで私見であるが、社会に上辺だけ自身を合わせていくだけの「学び」、上っ面の技能をその場しのぎで修得していく「学び」と、自分が人生をかけて真摯に学びたい事柄を一緒くたに「勉強」として括られても暗澹たる思いがするだけだ。

生涯学習」には大きく二つの側面があるように思えてならない。一つは社会生活上必要になる技能習得、もう一つは人生を長い目で見た時に必要になってくる感覚や想像力を培うもの。

この二つのバランスを崩してはいけない、そんな風に思ってしまう私の人生はもう秋かもしれない。