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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

なぜ文学部不要論なのか?―社会が抱える「敗北感」

以前にとある文芸誌に「文学部不要論を論破する」というような表題のついた特集が掲載されたことがあった。寄稿された原稿はどれも事の核心から遠く、期待したほど面白くはなかった。そもそも本当に「文学」あるいは「人文学」を尊ぶ人は「論破」などという言葉を使いはしない。だいたい議論は相手を打ち負かすためにするものではないことを知っている。「はい、論破!」と言って相手の言論を封じることほど馬鹿らしいことはない。

 

この特集に関して、心に漠然としたもやもやを抱えていたのだけれど、ようやくそのもやもやを言葉にできそうな気がしてパソコンに向かった。考えるヒントというのは、一見そのテーマから離れて見えるようなところに落ちている。

 

  最近『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』(木村榮一訳、新潮社 2014年)という書籍を手に取った。

 

ぼくはスピーチをするために来たのではありません

ぼくはスピーチをするために来たのではありません

 

 

この本はラテンアメリカの小説家で大の講演嫌いで知られるガブリエル・ガルシア=マルケスが1944年から2007年までに行った講演の原稿をまとめたもので、22本の講演録がまとめられている。そのうちのひとつ「ジャーナリズム、世界でもっとも素晴らしい仕事」(アメリカ合衆国、ロサンゼルス、1996.10.7)という講演が今回ヒントになった。この講演はフロリダのマイアミに本部がある≪米州新聞団体≫の第52回会議の開会講演で、≪イベロアメリカの新しいジャーナリズム財団≫の理事長としてガルシア=マルケスが語ったものである。

  講演の要旨を簡単にまとめると、最も重要なことは「ジャーナリズムは実践の中で学ぶものである」ということだ。かつてジャーナリズムを教える学校など存在しなかったし、誰でも志せばジャーナリストになれた。それが今では、ジャーナル(日録)という言葉はアカデミズム色をつけた「情報科学学部」に取って代わり、ジャーナリズムを学ぶ学校が新設された。同時にジャーナリストの資格証明書も出現した。当然、大学側は組織運営のために大学の美点を宣伝しなければならない。その結果、理想化されたジャーナリスト像が語られ、そんなものは結局上っ面でしかなかった。大学に通う学生グループは≪大学教育には論理的な思考や抽象的な理論構築に対する無関心がはっきり感じ取れます≫、≪現在のような状況になったのは、テキストを無理やり押し付けたり、いろいろな本の章をやたらコピーして、断片的に切り取るだけで、自分の考えをはっきり表明しない教育者にも責任の一端があります。≫と発言している。また教師の側は≪学生たちは浅薄な思考しかできず、安易な方向に流れるきらいがあります≫と述べる。結局、多くの学生は入学時(まともな文章も書けない)と変わらないレベルで卒業していき、ジャーナリストを志しても大学で学んだ理論的知識は全く役に立たず、それとは別に、ほとんど一から現場で学び直すしかない。また「録音機」という記録はするけれど思考はしない機器の登場は情報伝達の速度と濃度を変えてしまった。「余さず記録された言葉は、誰かが対話者に生きた言葉に耳を傾け、自らの知性で評価し、自らのモラルにしたがって分類した読み取りほどには信頼が置けない」にも関わらず、録音機はジャーナリズムの現場に深く浸透し、やがてインタビューというものが重要視されるようになった。

 

 テクノロジーの発達は悦ばしいことではあるが、それを使いこなす術を修得するだけの時間も、勉学の途中で立ち止まって考える余裕も学生たちにはない。彼らはただテクノロジーに振り回されてしまい、結局「大学は役に立たなかった」という印象をもって仕事をすることになる

そんな風に私はこの講演録を読んだのであるが、読み終わった時に、まるでガルシア=マルケスは現代の日本について語っているのではないか? と驚いてしまった。 大学でするような学問に社会生活に直接役立つ即効性はない。いや、なくてもいい。それが学問の大前提だと私は考える。直接、すぐに役立つことばかりで良いのなら、この世界に存在する古典的書物の大半は不要だ。同時代のビジネスハウツー本さえあれば事足りる。しかし、それだけで世界は、人の心は豊かになるだろうか? そうは思えない。また、即効性こそないが、学問が社会に対して無力であるとは思わない。

 

  ところが日本の大学を巡る問題は、上記のガルシア=マルケスが語った「ジャーナリズムを学ぶ」という目的をもった学校創設の経緯と近似している。つまり、社会的に通用する実践知を机上で学ぼうとする魂胆が大学運営に見え隠れしているのだ。「すぐに使える」という市場価値を至上の価値とする風潮が現代の大学を支配している。考えられる理由は、大学側の学生の獲得競争だろうか。とにかく一言で表現できる「すぐに使える」「すぐに役立つ」という安易な宣伝文句が溢れている。企業の側、社会全体も手間暇かけることの価値を見失っている。インスタントラーメン、インスタントコーヒー……今では即席こそがひとつの価値に成り代わっている。

社会に出てから「大学で学んだことは何も役に立たなかった」と思ってしまう人間は大概この「すぐに使える」というキャッチフレーズに惹かれて入学し、それをそのまま信奉して学生時代を過ごしてしまったのではないか。社会に出てから実は「すぐに使えなかった」ことに気がついても後の祭りであり、そこに漂う敗北感こそが「文学部不要論」の温床になっているのでないか。

  テクノロジーの発達によって社会はどんどん加速し、その加速に合わせて人間が求められる能力も次から次へと変化し、増大する。今まで1時間で50頁読めていたのなら、技術革新の見せかけによって、今後は1時間で100頁は読めるようになるだろうと錯覚させられてしまう。社会はじっくりと沈思黙考することを許さない。SNSの発達による情報拡散の飛躍が我々を急かす。 急かされれば急かされるほど、「学生時代に学んだことは何の役にも立たなかった」という「敗北感」だけが大きくなっていく。

 

ジャーナリズムのような(勿論それに限らないが)現場で学ぶべき実践的なものが、机上の理論として、馬鹿の一つ覚えのように繰り返し再生される。テクノロジーの発達は際限なくスピードを追求するが、スピードの実現のために効率化が目指される。しかし、そういう目論見のもとで生まれた大学組織によって「効率的に」培われた知識は、社会に出ても通用しない。そのことに気がついてしまった時に個人の心に浮かび上がる「敗北感」が靄のように社会を覆っているのではないか。自分がやってきたことに意味はなかったという悔しさ。それを言葉にする間もなく、人々は速さに追いつめられ、自ら耳を傾けること、言葉を発すること、思考することを忘れる。手間暇かけることよりもインスタントであること、古典よりも同時代的ハウツー本を選ぶこと。これが社会的に「正しい」世渡りであるというのなら、私は断乎拒否をする。社会を覆う「敗北感」の靄に隠されてはならない。少なくともこの意識が、「文学部不要論」に少しでも抗うことのできる力となるように生きなければならない。それが人文学部出身者たる私の「ノブレス・オブリージュ」である。