言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

幽玄の中へ認識を押し広げるという言葉の可能性―泉鏡花「高野聖」を読んで

(まあ、女がこんなお転婆をいたしまして、川へ落こちたらどうしましょう、川下へ流れ出でましたら、村里の者が何といって見ましょうね。)

(白桃の花だと思います。)とふと心付いて何の気もなしにいうと、顔が合うた。

 すると、さも嬉しそうに莞爾(にっこり)してその時だけは初々しゅう年紀(とし)も七ツ八ツ若やぐばかり、処女(きむすめ)の羞を含んで下を向いた。

(「高野聖」より引用、川で水浴びをする女と旅僧の会話)

  

高野聖

高野聖

 

 

こういう表現の美しさ故に単なる怪奇譚と読む事のできない作品が「高野聖」なのだと思う。あまりにも有名な小説なので、あらすじは割愛するが、上に引用した部分は深山に住む女と、旅の途中、その女のもとへ辿り着いた旅僧との会話である。この女、旅をしていた男どもを次々に蟇、蝙蝠、猿、馬といった畜生の姿に変えてしまう存在として語られるわけだが、どうも単なる化け物として片付けるにはもったないほど艶やかで、それ故に旅僧も読者も捨て置けずにはいられない存在である。「白桃の花」というみずみずしいイメージはいつまでも脳裏に残り、別の個所を読んでいると自然に想起させられるから不思議だ。

小説の語りの構造は、語り手である「私」が、旅僧の物語る「飛騨の山越をやった時の話」を聴いている、というもの。作品の大半は旅僧の語りによって構成される。旅僧が物語るのを「私」(小説の語り手)が聴き、さらに小説読者に物語るといったような構造をしているため、物語るという行為につきまとう問題(どこまでが事実で、どこまでが作り話なのか?といった主観と客観の問題)をはらんでいる、という見方もできる。

 

ただ、私はフィクションにドボンと飛びこんでどっぷり浸かる読み方が好きなので、そういう風に書かれたままに読んでしまう。そうやって読んでいくと、この物語にとって重要なのは語られることが事実なのか作り話なのか、語りの信憑性がどうのということではなくて、男と女のしょうもない業、それ故の人間らしさなのかもしれないと思ってしまう。物語る旅僧も「註して教を与えはしなかった」とあるから、やはり何が正しくて何が間違いなのか(何が事実で、何が作り話なのか)、というのはどうでもいいことなのかもしれない。ただ物語られるままに、かつて13年前に洪水があって、その時に生き延びた医者の娘である不思議な女が、今現在深山で旅人を畜生の姿に変えてしまう、旅僧もあやうく女によって人ならざる者に変えられてしまう所だった、という風に読みたい。こういう読み方をすると、一番目に着くモチーフはやはり「変身」だ。女によって蟇、蝙蝠、猿、馬などに姿を変えられてしまった者達の描写がとても面白い。しかも、姿を変えられた者の数はとても多いように思え、この深山にひしめいているのではないか、と思わせられる。

「人→人外」という流れが逆になっている部分が一か所ある。

それは「女夫滝」というものについて語られる部分で、その滝の名前を知ったのは後になってからだと旅僧は言うが、かつてそこを通った時にも旅僧は滝に深山にいるあの艶やかな女の姿さえ重ねあわせたという(このあたりは「物語る」という行為の性格をよく表していると思う。つまり、旅僧はあとで知った「女夫滝」という名称によって記憶を整理し、自らの飛騨の山越え体験を物語として仕立て直している可能性を感じる)。

女夫滝というのは、大巌によって流れがふたつに割かれた水の流れによって構成され、片方を男滝、もう片方を女滝なんていうのだけれど、その描写がこんな感じだ。

 

「ただ一筋でも巌を越して男滝に縋りつこうとする形、それでも中を隔てられて末までは雫も通わぬので、揉まれ、揺られて具さに辛苦を嘗めるという風情、この方は姿も窶(やつ)れ容(かたち)も細って、流るる音さえ別様に、泣くか、怨むかとも思われるが、あわれにも優しい女滝じゃ。」

 

女のもとを去った旅僧が、この滝を見て女を思い出している場面。女滝に女を重ねて溶け合わせるような描写、そしてその中に読者を飛びこませる力すらある。

 

「ましてこの水上は、昨日孤家の婦人(おんな)と水を浴びた処と思うと、気のせいかその女滝の中に絵のようなかの婦人の姿が歴々(ありあり)、浮いて出ると巻き込まれて、沈んだと思うとまた浮いて、千筋(ちすじ)に乱るる水とともにその膚(はだえ)が粉に砕けて、花片を散込むような。あなやと思うと更に、もとの顔も、胸も、乳も、手足も全き姿となって、浮いつ沈みつ、ぱッと刻まれ、あッと見る間にまたあらわれる。私(わし)は耐らず真逆に滝の中へ飛び込んで、女滝をしかと抱いたとまで思った。」

 

「花片」という言葉が冒頭に引用した言葉を想起させ、艶やかさを倍加させているように思う。そうして旅僧がこんなふうに滝に女を重ねあわせている姿からは人間らしい欲望を感じてしまう。結局無事に旅を続けた旅僧であったが、女を振り捨てがたい思いにとらわれてしまったということ。そのどうしようもない感情は、幽玄といってもいいのではないかと思うほど美しい作品に仕立て上げられている。

 

「物語る」という自由な営為において、いろいろなものが化ける。あるものが別のものに見えたり、別のものを想起させたりすることは暮らしの中でたびたび起こることだろう。分かりやすい所では先に書いた変身について、または滝に女を思い浮かべる心の動き(心の動きを心の動きとして直接書かず、風景や行為に仮託するのはすごい)。

表現のレベルで読者にいろいろな錯覚(なのか、本当にそうなのかはよくわからないが)を余韻として残してくれる「高野聖」という作品は、いろいろなものが「化ける」ということを語ることで、現実の認識を押し広げていくような幅がある。この余韻が泉鏡花の作品を読んで感じる幽玄の正体なのかもしれない、と私は思っている。

小説の最後に「私」と別れた高野聖の姿は、何か人ではないものに化けているような気がする。たぶん「雲に駕して」という言葉が私の中で竜のイメージを呼び起こしたり(「竜の雲を得る如し」とか「雲蒸龍変」「飛竜乗雲」なんていう言葉がある)、仏教絵画表現的に考えれば、雲に乗っているのはたいてい仏(主に阿弥陀来迎)だったなぁなんて思い出してしまったりする。言葉のイメージの広がりにはただただ不思議な気持ちになる。もちろん、私の主観でそう思えるだけで、その読み方は決して正しくはないのかもしれないが、正誤なんて関係なく、そう思ってしまったということを書いてこの記事を終わりにしたい。

 

高野聖はこのことについて、あえて別に註して教を与えはしなかったが、翌朝袂を分って、雪中山越にかかるのを、名残惜しく見送ると、ちらちらと雪の降るなかを次第に高く坂道を上る聖の姿、あたかも雲に駕して行くように見えたのである。」

(「高野聖」最後の部分より引用)