言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

フライデーあるいは太平洋の冥界と円環するサーズデー

デフォーの「ロビンソン・クルーソー」(第一部)を読み終わりました。その感想を書く前に、今年の始めくらい(?)にFacebookの方にあげておいた文章をこちらにも載せておこうと思います。 

デフォーの「ロビンソン・クルーソー」とはだいぶ違います。時間の流れ方も違います。どちらも設定上無人島暮らし28年間のはずなのですが……。

デフォー(18世紀)の時点ではキリスト教的に己の境遇を納得している感じですが、現代作家トゥルニエはそこから一歩進めた感じです。進めた、というか深化した、ですかね。

 

トゥルニエの「フライデーあるいは太平洋の冥界」の書評です。↓↓

 

 

 ゆれる舷灯は「天井と四十五度の角度を作った」。嵐の夜の海の上をのろのろと通り抜けている間にやがて「舷灯が鎖の先で激しく九十度の弧を描いて船室の天井にぶつかって粉々になり」ロビンソン・クルーソーは無人島に投げ出された。彼の無人島暮らしの時間を考えれば一瞬の直線的時間であったヴァージニア号の最期の中で、船長が繰り広げていたタロットカードの物語。ロビンソンの物語はよくも悪くもこの不気味で直線的な時間に先取りされているかにみえる……。しかし無人島の中で時々ロビンソンと読者は永遠を垣間見る。その永遠の余韻の中で物語は幕を閉じる。
 作中を流れる時間は、ロビンソンの時間感覚である。時間というものは主観的に捉えれば伸縮自在なものだ。漂流してまもなく、ロビンソンの時間は停止した。無人島から逃げ出すために「脱出号」なる船を建造している間ははっきり言って時間が流れていない。それ故、彼は酔狂な建設作業を続けられた。
 しかし「脱出号」は失敗に終わる。

「〈スペランザ〉には、一切の潜在性を奪われたわたしの観点しかない。」(44頁)

こうしてロビンソン・クルーソーの哲学(時間、自他、性、実存の問題、現象etc...)は始まった。
 果たしてこういった哲学的思考を小説的思考の文脈でやって面白いか? と問われると疑問であるが小説をこういった方向性で書くことの強みは、たぶんロビンソンの思考とスペランザ島の風景が一致した瞬間にぞっとする感覚を味わえることだろう。
植物の営みを観察したロビンソンは花に女性的なものを見、そして豊かな夢想に沈んでいく。

 

「残酷にも離れ離れにさせられている植物の夫婦によって発明された、この遠隔授精の仕組みが、彼には、感動的で最高に優雅なものに見え、スペランザ島総督の精液を身体に塗って、ヨークまでとんで行き、寄るべなき彼の妻を受胎させる何か幻の鳥を一心になって夢想した。」(96ー97)

 

 脱出号の失敗以降、ロビンソンはスペランザ島に秩序(人間社会の模倣)を打ち立てようと奮闘する。彼はこの偽りの中で管理者であり、総督であり、立法者であり、将軍である。遭難した後停止していた時間を彼は意識的に刻み始めた。「水時計」を制作し、刻々と流れる時間を生きるロビンソン。しかし所詮は作りもの、偽の世界はそれ故に脆い面もあり、しばしば彼は水時計を停止させたりもする。

 

「わたしの島で一人ぼっちであるわたしは、何も建設しないことによってーーこれはわたしがやはり真先にしたことであるがーー動物の水準まで落ちることもできたし、逆に、社会がわたしのためにそうしてくれなければそれだけますます建設にはげむことによって超人のようにもなることもできた。従って、わたしは建設したのであり、今も建設し続けているのだが、しかし実のところ、仕事は互いに異なる二つの面の上で互いに反対の方向に向かって続けられている。なぜなら、もし、島の表面で、わたしが人間社会を模倣した、従って言わば過去に遡った文明的な仕事ーー耕作、牧畜、建築、管理、法律などーーをし続けていると、わたしは自分がいっそう根本的な進化の舞台に立っているような気がし、この根本的な進化は、孤独が多かれ少なかれ一時的で手探りのようなものではあるが、そのもともとの出所である人間の模倣にはますます似ていない、さまざまなオリジナルな解決法によってわたしの内に創造した廃墟にとって代るのである。」(94頁)

 

 ロビンソンの創造は、他者の模倣であるが、無人島に人間社会を再現しようとすればするほどに廃墟が増えていくようなうすら寒い、硬直した時間が表れてくる。「水時計」の存在が世界を硬化するのだ。
 その硬化した世界の中でロビンソンは幾度も孤独をつきつけられ、言い換えれば他者の存在を考えてしまうという事態に陥る。
 偽の秩序の中の道化師めいた孤独。
 しかしある日唐突にこの偽の秩序は木っ端微塵に爆破させられることになる。フライデーの登場と、彼によるちょっとした爆発事故が、ロビンソンの作り出した硬化した冥界を破壊するのだ。

 

「あの男に名前をつけてやらねばならなかった。〈中略〉結局、彼を救った日の曜日の名、つまり〈金曜日〉(フライデー)という名を彼にあたえることによって、このディレンマをかなり手際よく解決したと思っている。これは人名でもなく、普通名詞でもない。この二つの中間物、一時的で、偶然で、エピソードのような彼の性格が強調されている、半ば生きていて、半ば抽象的な実体を表す名前である。」(119頁ー120頁)

 

 フライデーによって引き起こされた秩序の崩壊は、ロビンソンによっても密かに熱望されていたものだった。人間は自分自身をあらゆる秩序で縛り上げることで安心感を得る一方、常にその堅苦しい呪縛から解放されたいという得体のしれない衝動をもっているものだ。私だってそうだ。いや、若い分特にそうかもしれない。人間は安定と不安定を絶えずゆれつづける舷灯のような精神活動の中に生きているのかもしれない。だからこそ、冒頭部分で突きつけられる光景に不気味な怖さを感じてしまう、普通に生きていくのに知る必要のない人間の精神性など誰も考えたくないのだ。
フライデーによって秩序が破壊された後、作中に流れる時間は「アイオロス琴的な時間」である。

 

「アイオロス琴。常に現在の瞬間の中に閉じこめられ、次々に部品を配置しながら行う我慢強い制作に激しく逆らったフライデーは、絶対にあやまらない直感によって、彼の本性に応える唯一の楽器を発見した。なぜならアイオロス琴はただ四方の風を歌わせる本質的な楽器であるだけではない。奏でる音楽が、時間の中に広がる代りに、瞬間の中にそっくり刻まれる唯一の楽器でもある。こうして、風が楽器に挑むとたんに、いちばん低い音からいちばん高い音まで出して爆発する〈瞬間の交響楽〉が作曲されるのだ。」(182頁)
「スペランザ島は、過去も未来もなく、永続的な現在の中でふるえていた。」(197頁)

「これから、わたしにとっては、時間の環は縮まり、瞬間と混同されるほどである。循環運動はもはや不動と区別がつかないくらい速くなってきている。その結果、わたしの毎日が直立した。それは垂直に立っていて、その本質的な価値の中で誇らしげに自己を主張する。そして、それはもはや実現中の意図の一つ一つの段階によって分化されていないから、それぞれの毎日は互いに似ていて、わたしの記憶の中で正確に重なり合わず、わたしにはたえず同じ一日をやり直しているように思われるくらいである。爆発で暦のマストが破壊されて以来、わたしは自分の時間を考慮する必要を感じなかった。」

 

 ロビンソン・クルーソーが無人島に漂流してから外の時間でいうところの28年間で作り上げた彼の世界には神話のような輝きがある。それは無邪気な子供の世界のようでもあり、同時に誰もたどり着くことのできなかった場所でもあり、冥界という言葉の持つほの暗い、もう二度と戻ることのできない境地ですらある。また同じ瞬間の連続を生き続けるという事態から硬直した世界は導かれえない。あくまでも環のように果てしなく続いていく連続性がロビンソンの感覚世界にはある。
 この境地に達して一度だけ、ロビンソンの冥界は危機に瀕した。それは「ホワイトバード号」という外の世界からの来訪者の存在と「フライデーの失踪」によってである。
「時間と永遠との私生児である永劫回帰は一つの狂気にすぎなかった。」(197頁)という不安が頭をもたげる。
しかし、その不安はホワイトバード号から脱走して島で暮らす決心をした少年によって消滅する。その少年を「サーズデー」と命名し物語は幕を閉じる。
 フライデーはヴィーナスの誕生の日であり、またキリストの死の日である。生から死へ、という直線的な時間感覚を想起させる存在であったフライデーは、島を引き上げるホワイトバード号という文明とともに去っていった。代わりに残さた〈サーズデー〉(木曜日)。
 さて木曜日の後には必ず金曜日がくるわけで、ここに暗示的な時間の円環を感じずにはいられない。瞬間は果てしなく円環するのだ。