言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

想像すること、夢をみること―ボルヘス『伝奇集』

前回に引き続き、今回もボルヘスの『伝奇集』から「アル・ムターシムを求めて」「円環の廃墟」という二つ短篇小説を紹介する。

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

 

■「アル・ムターシムを求めて」

 

ボンベイの弁護士であるミール・バハドゥール・アリ作の小説『アル・ムターシムを求めて』に対して、二人の批評家が「探偵小説的な結構と神秘主義的な底流(アンダーカレント)とを指摘している」。そのぎくしゃくした組み合わせはチェスタートンとの類似を想像させるかもしれないが、この作品では「その事実はないことを、これから証明することになる。」

……なんて書いてあるので、なにか書評のような気がするけれど、これが小説だというのだから驚きだ。この作品はたしかに『アル・ムターシムを求めて』と言う作品を検討していくのであるが、そもそも『アル・ムターシムを求めて』という小説自体が架空の存在である。よって読者はこの「証明」の妥当性を検討することができない。

この作品は、架空の書物に対する書評であり、これ自体がひとつの小説作品なのである。なんとも奇妙な発想で書かれていて、さすがラテンアメリカ文学だと思う。常々、小説は自由だなぁ、と思わせてくれるのが私にとってのラテンアメリカ文学だ。

 

さて、少し具体的に。

架空の書物とわかりきっているとは言え、ボルヘスは「書評」を書くにあたり、「アル・ムターシムを求めて」の輪郭を丁寧に浮かびがらせている(というか、そもそもこの作品には輪郭しかない笑。この感覚は非常に面白い)

『アル・ムターシムを求めて』の最初の版は1932年の暮れにボンベイで出たらしい。その後1934年版というのもあり、この二つを比較している記述が後半に出てくる。

架空の書物の物語は、主人公であるボンベイの法律学生が、陰暦の一月十日の夜も明けるころ、イスラム教徒とヒンズー教徒との争いに巻き込まれるところから始まる。そこでこの学生は乱闘の中で一人のヒンズー教徒を殺してしまい(あるいは殺してしまったと思い)、遠い郊外、奥に円塔がそびえる荒れた庭園へ逃走する。そこで一人のならず者に出会うところまでが『アル・ムターシムを求めて』の2章まで。

ここから先の物語(残り19章)はボルヘスによるととても記しきれないらしい。目まぐるしい登場人物の増殖と、逃亡学生の人探し譚が書かれているようだが。最後に逃亡学生が探すことになるのは「アル・ムターシムと名乗る男」。この人物の象徴性(≒神)、それを求める逃亡学生の巡歴は宗教的な昇華の過程にある魂の歩み……。アル・ムターシムとは「救いを求める者」を意味するようで、そう考えるとこの架空の小説の主人公(登場段階では父祖伝来のイスラム教を信じてさえいない)が宗教的に高められていくような筋も見える。また、神でさえもより高次の存在を追い求めるといった無限への志向。

そうまとめることもできるが、ここで1932年の初版と1934年版との比較検討が行われる。初版では確かに「アル・ムターシムと名乗る男」には象徴的な意味合いがあったが、しかし気質的な個人的特性を欠いてはいなかった。ところが、改訂版ではその個人的な特性が「奇妙な神学」(おそらく魂の宗教的昇華)にとって代わられているという。

この作品は「ボルヘスの読者」には確かめようもないことを平然と提示してくる(なんて作品だ……)。ただ、ここで想像力を逞しくしてみよう。小説というものの面白さとは一体なんであるか?私は「個別性」にあるのではないか? と考えた。つまり『アル・ムターシムを求めて』に関していうならば「気質的な個人的特性を欠いていない」初版のほうが人間臭い面白さがあり、「単なるアレゴリーに堕している」改訂版は美しい物語ではあるが、どこか人間の血の通っていないというか、人間らしさを欠いているというか……とにかく無機質になってしまっているのではないか? などと考えてみた。勿論、結論が出ることはない。なにせ『アル・ムターシムを求めて』という作品は存在しないのだから(でもこういう不毛な想像は楽しいものである)。

ここでボルヘス自身がこの作品について書いている文章を引用しておこう。

 

「一人の人間が多くの人間でありうるという発想は、文学的にむしろ陳腐なものだ。これは通常、倫理の面から(ジキルとハイド、ウィリアム・ウィルソンなど)、あるいは遺伝の面から(ホーソーン、ゾラ)考えられている。『アル・ムターシムを求めて』においては、その概念にある修正が施されている。ここでわたしが考えているのは、人は彼が話しかける一人一人の人間によって、そしておそらくは彼が読む一冊一冊の本によって、絶えず変えられているということである。」

(J.L.ボルヘス牛島信明 訳『ボルヘスとわたし―自撰短篇集―』新潮社1974、217頁より引用)

 

 

■「円環の廃墟」

 

小説を書いているような人間なら、この作品に思うことが多いだろうと思う。実は私もその一人で、小説を書いている時、書き手は自分とは別の存在を作り上げてしまうことができるのだ、といことに改めて驚いたのだ。人間はその目的が何であれ「他人の人生を書いてしまうことができる」のである。思わずふるえてしまうような、事実に直面した。

などという私の個人的な雑感はさておき、この作品が大好きな人は多いらしい。

この作品では一人の男が夢をみることで、別の一人の人間を生み出そうとする。

 

「彼をここへ引きずってきた目的は、たしかに超自然的ではあったが、不可能なものではなかった。彼の望みは、一人の人間を夢みることだった。つまり、細部まで完全な形で夢みて、現実へと押しだすことだった。彼の心は、この神秘的な計画ですっかり占められていた。」(『伝奇集』72頁より引用)

 

しかしこの試みは大変困難なことで、最初の試みは失敗に終わってしまう。何せ不眠になったら作業が中断されてしまうし、作りかけのものが永遠に失なわれてしまったりするのだから。

ある夢に「心臓」が現れる。男はこれを大切に育てあげる。心臓から、頭蓋、瞼、無数の頭髪……男は完全な人間を、一人の若者を夢の中で作り上げることに成功した。でもまだ完全ではない。作られた若者は目をあけることも知らない。男は眠っている若者を夢見るのだった。

ある日の夕方、男がいた円形の神殿に残っていた石像が夢に現れる。石像は夢の中で生きていて、馬であり虎であり同時に闘牛、バラ、嵐などでもあった。この多様な神は地上で「」と呼ばれている。この「火」の存在によって、男が夢見ていた一人の若者は生命を吹き込まれたのだった(まるで神がアダムを作りだしたように)。そしてこの「作られた存在」は、「火」そのものと夢見た者をのぞいてあらゆる者に、これが血肉の備わった人間だと思わせることができるらしい。

 

「夢みていた男の夢のなかで、夢みられた人間が目覚めた。」

(『伝奇集』77頁より引用)

 

はっとするような響きのある一文。印象的な目覚め。

男はやがて作り上げた存在を「息子」と呼ぶようになる。しかし、「息子」とはやがて別離の時がくる。彼は夢から旅立つのだ。「わけ入りがたい密林と湿地が何マイルも続いた下流にある、白っぽい廃墟が残されているべつの神殿」へ。そう、男がいる「円環の廃墟」とは別の「円環の廃墟」へと旅立っていく。ここでこの作品の冒頭を思い出すと、そういえばこの「夢をみる男」もある日突然、理由も経歴も説明されることなく「円環の廃墟」へやってくるところから作品が始まっている。

あとは一気に畳み掛けるように、作品の秘密があかされる。炎に包まれた神殿で男は自分の存在自体も誰か別の存在によって夢にみられた存在であることに気がつくのだ。

 

「彼ははためく炎に向って進んだ。炎はその肉を噛むどころか、それを愛撫した。熱も燃焼も生ずることなく彼をつつんだ。安らぎと屈辱と恐怖を感じながら彼は、おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれを夢みているのだと悟った。」

(『伝奇集』80頁より引用)

 

彼が夢見た「息子」がどうなったかは語られない。ただ、神殿という円形の空間だけではなく、時間さえも円をなし、無限に回り続けているとしたら……? きっと「夢をみる」「夢にみられる」ということは際限なく連なっていくのだろう。

最後にボルヘス自身の言葉を。

 

「1940年に『円環の廃墟』を書いた時、この仕事はかつて経験したことのないほど(それ以後も経験してないが)激しく、わたしの魂をゆさぶった。この物語全体が夢に関することなので、これを書き下ろしている最中は、わたしの日常時――市立図書館での仕事、映画を見に行くこと、友人と夕食を共にすること――がまるで夢のように思われた。その一週間というもの、わたしにとって唯一の現実はその物語だったのである。」

(J.L.ボルヘス牛島信明 訳『ボルヘスとわたし―自撰短篇集―』新潮社1974 Ⅲ著者注解『円環と廃墟』、220頁より引用)

 

 

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