言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

小説は自由だ―コルタサル『悪魔の涎・追い求める男』

今回で一連の(?)コルタサル更新は終わりにしたいと思います。1年に1作は面白いラテンアメリカ文学に出会えている気がするここ数年……幸せなことです。

さて今回は、『コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男 他八篇』(木村榮一訳 岩波文庫 1992)より、「南部高速道路」「正午の島」「すべての火は火」を紹介します。 コルタサル作品を読んで改めて思うことは、小説を書くということは本当に自由なことなんだなぁ……ということでした。

何をどう書いてもいい、勿論、売れる売れないという資本主義経済的な制約はあろう、だが、それと小説の完成度とは別物だ。さまざまな形式や文体が現代小説の既存の枠組みとしてあるけれど、どれを使って書いてもいい。ただしその形式なり文体なりが自分の表現として獲得されていなければならない(ここらへんは物書きの独り言)。

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)

 

 

「南部高速道路」

 

「八月のうだるような暑さで路面が焼けついているというのに、渋滞が続き、車はほとんど動かなかった。そのせいで誰もが苛々しはじめていた。」
(前掲書178頁より引用)

 

はじめは単なる交通渋滞だった。ほんの少し動いてはすぐにブレーキを踏むことになる苛立ち。渋滞の道路の先にある目的地パリでの生活が日常というのなら、この渋滞はそんなささやかな日常から人々を遠ざける忌まわしい存在だったろう。しかし、やがて様子が変わってくる。

 

「本来走るべく作られた機械がまるで密林のようにびっしりと路面を覆い、その密林が人間を閉じこめているのだから、考えてみればばかげた話だった。」
(178ー179頁より引用)

「あたりを見回してみると、メルセデスベンツ、ID,4R、ランチア、スコダ、モーリス・マイナーなど、全車種を収録した総合カタログでも見るように色も形も違うさまざまな車が並んでいた。左側の対向車線にも、ルノー、アングリア、プジョー、ポルシェ、ボルボなどの車が鬱蒼と生い茂る森のようにびっしりと並んでいた。」
(180頁ー181頁より引用)

 

渋滞の影響で道路にびっしりと並ぶ自動車を「密林」「鬱蒼と生い茂る森」にたとえているのが面白いが、表面的なたとえで終わらないのがコルタサルだ。
それぞれの自動車の中にいる人々は、まるで密林の中、手探りで生き延びていく原始社会を思わせる共同体を作り上げるのだ。そう、渋滞の中で、いくつもの小グループができ、規則ができ、人々の連帯が生まれた。
コルタサルは夢と現実をひっくり返すのが得意だが、この作品では日常と非日常がひっくり返っている。やがて季節が変わり、雪が降り、時には死人が出たり、子供ができたりする終わりのみえない渋滞の中で作り上げた秩序こそが、そこにいる人々にとっての日常になっていくのだ。
しかし、この一時日常と信じられていたものは、渋滞のふいの解消によってあっさりと壊れてしまう。

 

「これまでの生活が一瞬のうちに崩壊するなんて考えられない。」(215頁より引用)

「車はいま時速八十キロで、少しずつ明るさを増していく光に向かってひた走っている。なぜこんなに飛ばさなければならないのか、なぜこんな夜ふけに他人のことにまったく無関心な、見知らぬ車に取り囲まれて走らなければならないのか、その理由は誰にも分からなかったが、人々は前方を、ひたすら前方を見つめて走り続けた。」
(215頁より引用)

 

異常事態(終わらない渋滞)の解消が、なぜか寂しく思われてくるという妙な読後感が残る。生活を築き上げる、ということはそれが引き裂かれたときに初めて実感されるものなのかもしれない。

 


「正午の島」

「週に三回、正午にキーロス島の上を飛ぶというのは、正午にキーロス島の上を飛ぶ夢を、週に三回見るのと変わるところがなかった。一切がくり返し現れる空しい映像でしかなく、しょせんは幻だった。ただ、その映像をくり返し見たいという気持ちや正午になると腕時計にちらっと目をやる癖、黒に近い群青色の海の端でまぶしくきらめいている白い帯を目にした時の、一瞬訪れる胸を刺すような感覚、漁師たちが顔を上げて空を飛んでいる非現実的な乗り物をみようともせずに忙しく立ち働いている姿といったもの、あれはおそらく幻影ではなかったのだろう。」
(221頁より引用)

 

飛行機の客室乗務員である男、マリーニがどうしようもなくひきつけられてしまう島へ移住する、という話。
その島は飛行機の窓から正午になると見える。遠くから俯瞰しているだけの島がどんどん現実味を帯びてくる一方で、都会的なふつうの生活をしているマリーニの目の前の現実は徐々にぼやけくる。

 

「べつに誰が誰ということもなく、みんなと気楽で親密なつきあいをして、フライト前後の時間をやり過ごしていたが、何もかもがぼやけているような感じがした。フライト中もやはり何もかもがぼやけ、気楽ではあったが、何となくばかばかしい感じもした。」
(225頁より引用)

 

キーロス島に行った彼はそこで新たな生活を見いだすが同時に「古い自分を殺すことはそう簡単なことではなかった。」(229頁)と思う。
そんな時、おそらく正午頃、島の上空を通過する飛行機のエンジン音が聞こえてくる。そして、なんとその飛行機は海に墜落してしまい、マリーニは一人の男の死を目撃することになるのだが、あるいはこの男の死はマリーニの過去の生活の終わり、古い自分の死のメタファーなのかもしれない。

 


「すべての火は火」

 

古代ローマ円形闘技場とそこで繰り広げられる戦いを見物する男女の三角関係、現代の電話ごしにうかがえる男女の三角関係、そしておそらく電話が混線しているのだろう、受話器の中から聞こえてくるただひたすら数字を読み上げている声。
おおまかにこの3つの情景描写からなる短篇小説だ。文体が独特で、その大胆さがたまらなく良い。
男女の社会的にタブー視される不倫という愛が、火によって終焉するという話だ。

 

 

「一方、ジャンヌは同じ言葉を二度も三度もくり返し、そのたびに強調する箇所を変える。彼女のほうはしゃべり、くり返していればいい。すると彼は、分別のある手短な言葉を用意しておいて、取り乱しているあわれな彼女の気持ちを静めるというわけだ。攻撃すると見せて横ざまに飛ぶと、彼は身体を起こして大きく息を吸う。この次からあのヌビア人は攻撃法を変えてくるだろう。」
(272頁より引用)

 

上の引用は途中までは確かに現代の男女の話、途中から闘技場で死闘を繰り広げている剣闘士の描写に以降している。なんて大胆な転移。
全く時空間の異なった風景が改行なしに書かれていく。現代的な風景と、古代ローマの風景を読者は行ったり来たりすることになる。それに加えて、何の脈絡もなく、ただひたすら数字を読み上げる声が聞こえてくる……。

 

「来ないで」とジャンヌはきっぱり言う。その言葉が数字とまざって聞こえてくるのはなんとなく愉快だ。来、八百、ないで、八十八。「二度と来ないで、ローラン!」
(274頁より引用)

 

作品全体を統一するのは不純な愛(恋?)と、それを焼きつくす火。
コルタサルの短篇では「夜、あおむけにされて」も二つの異なった時空間を行きつ戻りつするが、あの作品でも有効に用いられていた語の配置とそれによる喚起力を、フルに用いた作品だ。

 

この作品の特異な文体とその魅力は、作品を読まなければ伝わらないだろう。この作品について何か書こうと思った時、本当に小説の魅力を伝えるのは難しいなぁ、と痛感しました。