言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

「世界はトレーンとなるだろう。」―ボルヘス『伝奇集』

J.L.ボルヘス『伝奇集』を読んだ。今回からしばらくこの本の中から私が好きな短編作品を取り上げていきたいと思う(一体何作分書くのやら)。

 

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

  

今回は『伝奇集』に入っている短編小説「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」について。ボルヘスの作品には「架空の書物についての書評」みたいなものがあるけれど、この作品もその系統に属している。『百科事典』という分厚い権威を取り入れたボルヘスのこの短編小説には、単なる書評という形式を超えた怖さがあった。フィクションが権威に憑依して現実に染み込んでくる感じだ。

「熱狂」とはなんであろうか。人に憑依し、不可能と思えるようなことも現実にしてしまうこのエネルギーとは……。読み終わったあとにそんなことを考えてしまう一作だ。

 

「わたしのウクバール発見は、一枚のと一冊の百科事典の結びつきのおかげである。」(前掲書13頁、作品冒頭)こんな風に書き出されるこの短編小説は、語り手「わたし」の体験と、「とレーン」や「ウクバール」についての概要を書いた論文のような部分から成る。

 

ある夜、「わたし」は友人と議論をしていた。議論の途中で友人は「鏡と交合は人間の数を増殖するがゆえにいまわしい」といったウクバールの異端の教祖の一人の言葉を思い出す。出所を尋ねると『アングロ・アメリカ百科事典』に載っているという。しかしその後「わたし」がいくら探しても百科事典に「ウクバール」の項が見あたらない。友人のでっち上げだろうと思っていたが、その友人から電話があり、いまウクバールの項をみているという。

結局、百科事典のアルファベット順の総索引に「ウクバール」という項がないだけで、「ウクバール」という記述は存在していた。

百科事典には、曖昧ではあるが「ウクバール」の地理、歴史、言語と文学について書いてあった。それによるとウクバールの文学は幻想的であり、その叙事詩や伝説はまったく現実と関わりをもたない、二つの架空の地方「ムレイナス」「トレーン」にまつわるものであるらしい。

 

二年後「わたし」は偶然に「トレーン」にまつわる文書に遭遇する。「オルビス・テルティウス」という文字の入った青い楕円形のスタンプが押された「トレーンを扱った最初の百科事典第十一巻」に遭遇してしまうのだ。この書籍には「トレーン」について様々なことが書かれている。たとえば、そこに住む人々は唯心論者であるとか、トレーンの祖語には名詞は存在しないとか。こうして「わたし」の前に「トレーン」なる未知の天体が開示されていく。「トレーン」を支配する法則や、秩序の存在が見え始める。

 

しかし、話はここで終わらない。「わたし」の前に開かれた「トレーン」は、単なる百科事典の内容を越えて、「わたし」のいる側の現実に忍び寄ってくる。先に発見された「トレーンを扱った最初の百科事典第十一巻」の中に残されていた「手紙」によって(こういう所が複雑な入れ子構造になっている)、「トレーン」が人の手によって「作られた」存在であることが発覚する。

「トレーン」は17世紀初頭には準備されており、世紀を越え19世紀になってある人物が「ひとつの天体の創造を提案」したことに端を発している。この「創造」という欲望が架空の秩序で構成された未知の天体「トレーン」を生み出し、百科事典という形で書き残されたものだった。

 

さらに、「トレーン」は現実に侵入してくる。「トレーン」由来の物体が日常生活の中で発見されるようになり、1944年頃には『トレーン第一百科事典』四十巻が発見されたりする。国際的なジャーナリズムによって喧伝され、次々と関連書物が派生的に生み出され増殖して現実に広がっていく……。

トレーンという架空の(偽りの)秩序が世界に現れ、やがて世界を支配するようになった時、地上にあった多くの物が書き換えられてしまった。「歴史」でさえ書き換えられ、記憶が「虚構の過去」に置き換えられても、誰もそんなことには気がつかない。しかも、今から百年後には何者かが『トレーン第二次百科事典』の百巻を発見するという予想まで書かれている。こうして「世界はトレーンとなるだろう。」百科事典の中にあった出来事が、気がつくと人々の日常にとって代わっている。

 

ボルヘスの作品をいくつか読んでいて気がつくのは「」という語。これが何度も出てくる。「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」にも出てくる。「わたし」を「トレーン」へと導くきっかけになった友人の言葉に出てくる「鏡」は「人間の数を増殖するがゆえにいまわしい」ものとされている。この「増殖」もひとつのキーワードだろう。観念論に支配された「トレーン」に現れる「フレニール」(失われた物体の複製)、「発見」以後、現実世界に数多現れた「トレーンに関する文書の複製・増殖するテキスト」はどこか繋がっているように読める。

 

私達は普段「鏡」の向こう側を、現実と区別している。鏡の中は現実ではない、その中に秩序なり法則なりがあるとしても、どれもこれも人間が作った「まがいもの」に過ぎない。鏡の外側の人間の想像でしかない。だが、いざ鏡の中と現実の風景が何の前触れもなく入れ替わってしまっても誰も気がつかないだろう。

それと同じように、誰にも気が付かれないだけで、この世界はトレーンに成り代わり得る。

「トレーン発見」というビックニュース(ジャーナリズム)の煽りを受けた人々を覆う「トレーン熱」とでもいうべき状況、それに人々がハマっている間に、世界はトレーン化してしまうのだ。人々はどんどん偽の秩序に囲まれ、それに同化していく。なんて恐ろしいのだろう。世界なんて実はあやうい存在なのかもしれない。

「鏡」によって増殖されたように架空の秩序が書かれた書物が現実世界にあふれ出てくると、作中の「わたし」はトレーンに関するテキストに囲まれ、やがて世界自体がそれに飲みこまれるのを予感する。しかし「わたしは気にしない」のだ。

 

熱狂」ということについて考えてみる。案外それは「トレーン」のように世界を覆い、世界の秩序を歪め、そしてその歪みのまま私達を支配してしまうのかもしれない。フィクションから滲んではみ出した部分が、増殖して世界を飲みこむ。恐ろしくもあり、想像するのが楽しくもなる瞬間(今私が読んでいるものが「小説というフィクション」であることがわかっているからこそ楽しくなるのだが。)そろそろ『トレーン第二次百科事典』が発見されるかもしれない……。

 

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