言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

今でも読み継がれる「ロビンソン・クルーソー」

今年のはじめの方に、トゥルニエロビンソン・クルーソー……というか「フライデーあるいは太平洋の冥界」を呼んだことは以前の記事に書いた通り。

(参照記事↓↓)

 

mihiromer.hatenablog.com

 


今回は、トゥルニエが「フライデーあるいは太平洋の冥界」を書くにあたって下敷きにした18世紀の小説、デフォーの「ロビンソン・クルーソー」(第一部)について書いていこうと思う。
以下引用はすべて平井正穂訳『ロビンソン・クルーソー』(岩波文庫 1967初版)からであることをはじめに明記しておきたい。

 

デフォーよりロビンソン

さて、この18世紀の英国の長編小説はいわゆる架空旅行記(空想旅行記)に分類できるもので、あたかもロビンソン・クルーソー本人が読者に向けて語りかけてくる印象が強い。日本においては作者デフォーよりもロビンソンの名のほうが有名であることもその証左となろう。この手の語り口の作品としては、同時代の「ガリバー旅行記」も有名である。
その語りの手法故に「出来事ありきで進む時間」という印象が前面にでており、出来事一つ一つの詳細な説明の合間にロビンソンの内面(主に宗教観)が書かれる。整理されていなくて読みにくい印象すらあるが、これが作者デフォーの影を潜める結果となり、リアリティを増すという効果をあげている(何せ、ロビンソン・クルーソーは一介の船乗りであり、作家ではない)。

 

 

 

まさかの断舎利精神?

文体についてはこのくらいにして、やはり今でもこの物語が語り継がれているのはその内容の面白さにあるだろう。自分では絶対に陥りたくないが、ロビンソンの置かれた状況へ想像を飛翔させるというのは読書という営みの楽しさの一つと言っていいと思う。
よくちょっとした会話の中で
「もし無人島に漂流するとして、何か持っていくことができるなら、何がいい?」
などという話題があるが、この質問には「何を持っていくか?」という選択の余地がある。こういう余地は実際に漂流してしまった場合にはあり得ないものだが、やはり空想するには楽しい。
ロビンソン・クルーソーの場合も、選択の余地などなかった。

溺れかけながら、なんとか無人島に漂着したからだ。ロビンソンは何も持ってはいなかった。しかし、幸運にも座礁した船がしばらくの間完全に沈没せず、そこから何日かに分けて物資を運び込むことができたのである。そこでもやはり物資に関して選択の余地はない。座礁した船と無人島をまで往復する筏に乗せられるものしか運べないし、船に積んでいた物資すべてが無事だったというわけでもない(水に浸かってダメになった火薬や食料もあった)。
とにかく、今のところ何に役立つのかもわからないものまで、運べるものは運べるだけ、潮の干満を利用して無人島へ運び込むというのがロビンソン・クルーソーに課せられた最初の仕事であった。
そんな彼はやがて、無人島の探索を経て風雨や直射日光、外敵を避ける住居が完成し、穀物の栽培に成功したり、野生の山羊を飼い慣らしたりすることに成功する。さら後チーズやバター、パンなど加工品の生産にも成功し、島で生き延びるために困ることがなくなっていく。必要な物資に恵まれた彼はこう思う。

 

「要するに、すべてこの世の良きものが良いとされるのはそれが自分の役にたつかぎりにおいてであって、ありあまって他人に分けてやるほどなにを山とつんでも、有難いと思うのは自分で使える限度内のことで、それ以上ではないはずである。これがいろいろの体験をへ、事物の性質をじっくり考えたあげく私のたっした結論であった。」
(230頁)

 

 

 

この言葉と対をなしているように見えるのが、無人島を脱出し、英国に戻った後のロビンソン・クルーソーの心中である。

 

「さて、こんどはどちらのほうへ針路をとったらよいのか、神があててくれた財産をどうしたらよいのか、私はひと思案しなければならなかった。もっているものだけで充分満足し、必要なものだけもつことができた、あの島でのひっそりした生活に比べると、こんどはなにやかや心配しなければなあない財産がおびただしく、どうやってそれを確保してゆくか、それが私の仕事となってきた。お金を隠す洞穴ももはやなかったし、誰かがかまうまで黴だらけ錆だらけになるままに、鍵もかけずにお金をほうりっぱなしでおける場所もどこにもなかた。」
(497頁)

 

なんとなく、現代日本の断舎利ブームに通じる考え方に見えてしまう。物がありすぎると、それをどうしたらいいのか、今度はその物の管理が仕事として重くのしかかるのだ。

 

時代背景

この作品が刊行された18世紀という時代はヨーロッパの植民地獲得競争の時代でもあった。「ロビンソン・クルーソー」はそういう時代背景を色濃く反映している作品であると思う。そもそもロビンソン・クルーソーが無人島へ漂着するきっかけになった航海の目的が「ブラジルで経営する農園のために黒人奴隷を買いに行く」というものだった(こういうのは児童生徒向け抄訳からはカットされてますよね・苦笑)。
また、カリブ海の島々におそらく住んでいるだろう現地の住民を「食人種」とみて恐れていたり、その現地の「カリブの土人」をキリスト教化することを希求したりするのだ。18世紀の西洋キリスト教国のエゴイズムの縮図がかいまみえる作品だった。

とは言っても、「植民地」「キリスト教」などなどは人間が社会生活を営む上での表面的にみえるものであるにすぎない。この物語が語り継がれているのはやはり、作品の中に何か変わらないものとしての「人間の本質」があるに違いない。

 

ちなみに、第一部のメインはなんと言っても無人島でのロビンソン・クルーソーの奮闘であるが、無人島に漂着するまで岩波文庫版で80頁程度、無人島から脱出してから50頁程度物語が存在する。最後のほうのエピソードは雪山で狼と死闘を繰り広げている。意外な終わり方をした上巻であった。

そのほかにもロビンソンの内面の変化(キリスト教化)や、当時の海洋事情などおもしろいことはたくさんあるが、それらはいずれまたお話しする機会もあろうかと思うしだいである。

 

(本日図書館で岩波文庫版『ロビンソン・クルーソー』下巻を借りてきました。

ロビンソン・クルーソー」の第二部「さらなる冒険」が収録されている巻です。何故か読み始めたロビンソン……もうしばらく「ロビンソン更新」は続きそうです(汗)