Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

琵琶の花、咲かせる。語りの鎮魂―古川日出男訳『平家物語』

今更、なんて言わないでもらいたい。

2018年の私の読書は『平家物語』で幕を開けた。2016年の十二月に、新しい現代語訳が出ていたのである。

 

古川日出男 現代語訳『平家物語池澤夏樹=個人編集 日本文学全集09 / 河出書房新社、2016年

 

 

平家物語』というと、「祇園精舎の鐘声~」で始まる栄枯盛衰のフレーズを子供の頃に暗記させられたというひとも多いのではないだろうか? 私もそうだった。それから学生の頃に文庫で出ていた古典バージョンを読んで、好きな作品になっていた。だから「現代語訳なんて!」と思っていた。

だけれど。

この現代語訳はとても面白かった。今更、なんて言わないでもらいたい。そもそも13世紀頃(諸説あり)に成立したと考えられているこの物語、かれこれ700年以上、人間の声、声、声、によって語り伝えられてきたのである。それから、撥、琵琶。

 

撥は鳴らしておりますぞ。琵琶を。一面の琵琶のその絃を。しかし、ああしかし。

平家の陣地からはなんの音もしないのです。

人をやって調べさせますと、なんと、「みんな逃げてしまっております」と申すではありませんか。

(前掲書「五の巻」343頁より引用)

 

訳者は語る。「私は、平家が語り物だったという一点に賭けた。」(前掲書、前語り)『平家物語』の現代語訳に取り掛かってたしかに、このテキストが複数の人々の手によるものだ、「今、違う人間が加筆した」とふいに書き手が交代したことがはっきりと感知されたのだという。文章に真摯に向き合っていればおのずと見えてくる、あるいは聞こえてくる語りの呼吸とでもいうものだろうか。その息遣いを新しい「聴衆」とも言える現代の読者に伝えるため、訳者は大胆な加筆をほどこした。様々な資料やうわさ話、思い出話を継ぎ合わせる形で作られたと考えられている『平家物語』に、現代の文学作品の水準にひけをとらない「構成」を与えたのだという。つまり、琵琶の音、琵琶法師の語りを。

 

一つ鳴れ。鳴らせ。よ!

また一つ鳴れ。二つめの撥、鳴らせ。た!

いま一つ鳴れ。三つ目の撥、鳴らせ。は!

それから控えよ。この三面、撥三つ。琵琶と琵琶と琵琶、三分の天下の寿永の三年。いよいよ戦さにつぐ戦さに次ぐ戦さの年は来る。合戦の年は、来る。いや、もう来た。しかしまずは静けさがある。寂しさがある。そこからだ。

寿永三年正月一日。

(前掲書「九の巻」冒頭、529頁より引用)

 

古川訳のあちらこちらの見られる「琵琶」への言及は古典版には存在しない。「語り」を重視した現代語訳のために訳者によって付け加えられたものである。この付け足しと古典にもともとあった部分が切れ目なく連なり、しかも古典を読む時にありがちな註釈の類が一切ないため、この本を紐解く者は寸断されることなく「語り」に耳を傾けることができるのだ。まずはこのことに驚きながら読み始め、気がつけばのめり込むように読んでいた。上質なエンターテイメントである。頭の中で声が響き続けた。

さらに言えば、琵琶法師が聴衆に向かってかつて語って聞かせた『平家物語』の言葉は、もともと身分や男女など関係なしに世の中のあれこれに対して(たとえば合戦の武勇譚、または哀れ)溢れ出した不特定多数の人々の言葉であった。池澤夏樹は解説で「昔々の歴史は人の行いを記すものだった。」(895頁)と書いているが、まさにそう思えるような、人の肖像が(しかも「物語」の同情人物ですらない人の肖像までもが)浮かび上がってくる素晴らしい現代語訳なのである。

 

そう、この悲しみを語るにはそれに相応しい声があります。私のこの声ではございません。よって、私の声はここにて消えましょう。懇ろに懇ろにと努めます古式ゆかしくもあったこの声は。しかし、まだまだ、大地震とともにいずこかより決壊してあふれた無数の、無数の、声々。零れ出た声、声、声。そして音も。そして歌も。たとえば女の哭(おら)び、音。たとえば女の歎き、

歌。

撥。

琵琶。

鳴れ――。

(前掲書「十二の巻」816頁-817頁より引用)

 

ふいに遭遇する語り手の交代、それに物語の背後に息づく無数の存在への暗示。

この十二の巻は平家が亡んだ年に発生した大地震についての語りから始まる。日本の古典文学を読んでいてよく見かけるのが「怨霊」「祟り」の存在である。その繁栄ぶりが怪物めいてさえいた平家が亡んだ、その後で起きた大地震を当時の人々は平家の祟りだと思ったかもしれない。『平家物語』作中にも、そういう挿話がいくつかある。不遇のうちに死んだ人の怨霊が現世に影響を与える、それはとても恐ろしい。だから祟りを鎮めなければならないと、死者を慰めなければならないと人々は思う。源平合戦でもたくさんの人が死んだだろう、その後の大地震でもたくさんの人が死んだだろう。するとたくさんの亡霊が現われる、現われて、物語りしてもおかしくはない。亡霊のように、様々なひとが語り手として立ち現われても不思議ではない。亡霊は語ることで慰められるかもしれない、聞くこともまた鎮魂になるのかもしれない。琵琶の音に乗って響いた琵琶法師の声、それを借りて語られた物語。それは魂を鎮める、鎮魂の役割を担っていたのかもしれないと思った。琵琶の花咲かせる(琵琶を鳴り響かせる)というのは、語りの鎮魂なのだ。

 

一つの夢がある。琵琶が咲いている。あちらにも、こちらにも咲いている。何面の琵琶があるのか。それらはあたかも極楽浄土に蓮華が咲くように咲く。時にはぽんと鳴って蕾を開く。ぽんと。ぽんと。それから張りつめた絃が、びんと。びいんと。咲いている。蓮華は浄土に咲き、しかし、罪に穢れたこの娑婆世界にもある。この穢土にも。すると琵琶は、当然ながら江戸にもある。あちらにも、こちらにも、あって、いずれ咲く。いずれであるのならば今ではない。すると夢は覚める。

覚めれば寿永三年。

(前掲書「十の巻」619頁より引用)

 

幻想的だ。琵琶が咲く、という夢のような表現から思わず、琵琶に似た形をした甘い実をつけるという枇杷を想像せずにはいられない。これは一読者の勝手な想像でしかないけれど、こういう連想がまた「語り」に甘い香りさえ添える。

紙ヒコーキは投げ放たれた―チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』

最近、私のまわりでふつふつと、韓国文学が話題になり始めている。好きな小説家のひとりである小山田浩子さんの『穴』が昨年9月に韓成禮(ハン・ソンレ)さんの翻訳によって韓国で出版されたり、注目していた「小さな文芸誌」である『吟醸掌篇』vol.2の読書人コラムに「どこどこ文学/朝鮮・韓国文学篇」が掲載されたりと「韓国文学」を意識する機会が多くなっていた。地理的にはこんなにも近いのに、何故かラテンアメリカ文学よりも馴染みのない韓国文学に足を踏み入れる準備が2017年一年を通してゆっくりと進んでいたらしい。韓国の文化や政治状況、歴史など予備知識がほとんどないままに、私は今回ご紹介するこの本を手にとった。

 

チョ・セヒ 著、斎藤真理子 訳『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社、2016年)

 

こびとが打ち上げた小さなボール

こびとが打ち上げた小さなボール

 

 

※この作品は『吟醸掌篇』vol.2で、『韓国文学を楽しむ会』運営のともよんださんによっても紹介されています。

 

1978年に韓国で出版されるやいなや大きな反響を呼び、純文学としては異例のベストセラーとなった。「現実参与と純粋文学の双方を見事に結実」させたこの作品は、十二年も途絶えていた文学賞「東仁(トンイン)文学賞」の久々の受賞作にもなったという(以上、訳者あとがきより)

 

「撤去民の問題や労働運動という深刻なテーマを正面から扱い、しかもそれを幻想をまじえた独特の物語世界に仕上げたこと。貧民層・中間層・富裕層それぞれの声が連なるポリフォニックな構成。そして書類やアンケート調査の結果を挿入したノンフィクション風の手法など、すべてが斬新だった。」

(前掲書、訳者あとがき350頁より引用)

 

12篇からなる連作短篇集で、読み始めた当初「連作」であることに気がつかなかったのだが、読み進めるうちにそれぞれの作品が語りの視点を変えつつゆるやかに繋がっていることに気がつき、読み通して振り返ってみると1冊の本になっていることの尊さに思い至った。物語は1970年代の韓国を舞台にした貧しい「こびと」の一家を巡る受難と、それを取り巻く富裕層、中間層の生活の描写によって成り立っている。しかしそれだけにとどまらずこの作品には幻想的とも言える描写がいくつも登場する。理想を重ねられた「月の世界」、五十億光年という時間と永遠と死についての、登場人物の思考のつらなり。

 

死について考えるとき、いつも思い浮かぶひとつの情景がある。それは砂漠に続く地平線だ。日暮れどき、砂まじりの風が吹いている。一本の線になった地平のはてに私が裸で立っている。足を少し開き、腕を胸に引き寄せて。半分うつむいているので、髪の毛が胸を覆う。目を閉じて十数えると、私の姿は消えて、ない。灰色の地平線だけが残り、そこに風が吹いている。これが私の考える死だ。こういう死が永遠と関係のないわけがない。

(前掲書126-127頁より引用)

 

長くなりすぎるので引用することはできないが、エピローグのひとつ手前の章「トゲウオが僕の網にやってくる」で富裕層の青年が見た「オオトゲウオの悪夢」というのが描かれる。そこからの目覚めと美しい夕焼け、死んだ祖父の老いぼれ犬、使用人の女の子の所作から思い出されるこびとの妻の仕草……おそらく夢の中で青年を脅かす「やせおとろえ、骨と棘ばかりの体に二つの目と胸びれだけがついたオオトゲウオの群れ」は、「こびと」の一家に代表される下層労働者たちの姿の変形だろうと思うが、そこから覚めてから夕焼けや光の微粒子という美しい光景を経て「死んだ祖父の老いぼれ犬」「こびとの妻の仕草」とイメージが回帰する。この描写の流れが複数の社会階層や様々な状況(経済的困難、精神的困難)を横断的に表現しているのではないだろうか。

 

一読目は暴力描写の強烈さばかりが目についてしまっていたが、冷静に再読してみると、現在時にいきなり割り込んでくる断片的過去と現在の結節がとても良いことに気がつく。終始「どちらに属しているのか?」「正しいのはどちらか?」という疑問を喚起させつつ、結局のところ作品一冊丸ごと「メビウスの帯(輪)」になっていることに驚く。どちらとも言えない、きっかり分けることのできない混沌とした70年代韓国の、矛盾を含んだ社会が描かれている。「メビウスの帯」「クラインのびん」、どちらも内側と外側が判然としないものであり、理論としては「ある」(考えられる)が、現実の存在としては「ない」(捕えがたい)ものということができないだろうか? その点で「僕」が夢見た愛による理想社会もメビウスの帯やクラインのびんに重なりあう。愛による理想社会の実現をときながらも「父さん」が「こびと」だと嘲笑されれば相手に対して「憎悪」を抱く。

 

「こびとだ」とみんなが言った。父さんが車道を渡るとき、車の中の人たちはわざとクラクションを鳴らした。彼らは父さんを見て笑った。ヨンホは、地雷を作って彼らが通る道の地下に埋めてやると言っていた。「大きい兄ちゃん」ヨンヒが言った。「お父ちゃんをこびとなんて言った悪者は、殺してしまえばいいのよ」。心に秘めた大きな憎悪のために、薄い唇が震えていた。ヨンホが埋めた地雷が爆発する音を、僕はよく夢の中で聞いたものだ。彼らの乗用車は炎に包まれ、その中で彼らが泣き叫んだ。

(前掲書225頁より引用)

 

 ※実は本文中、この部分は一文字分下がった過去の回想パート。このすぐ後にアルミニウム電極製造工場の熱処理タンクの爆発事故が語られる。「夢で聞いたのと同じ泣き声を僕はウンガンに来て聞いた」。過去からの印象、「爆発」や「炎」による暴力のイメージが語りの現在時に引き継がれている。

 

理想としてはいくらでも語れる「愛の聖人」なんか、実際にはいないのだ。同様に、冒頭で教師が生徒たちに向かって話す煙突掃除のエピソードも思い出される。二人が同じ煙突を掃除したのに、ひとりの顔が汚れていてもうひとりの顔が汚れていないということは「ありえない」というあのエピソードだ。

 

「生理的リズムの攪乱」という暴力による人間疎外が鋭く描かれている。

 

シネは、人工照明に照らされた養鶏場の鶏たちのことを考えた。卵の生産量を増やすために飼育者が養鶏場に人工照明装置をとりつけている写真を、どこかで見たことがある。養鶏場の鶏たちが味わうおぞましい試練を、こびとも私も一緒に味わっている。鶏と違うのは、卵を産まない私たちは、生理的リズムを攪乱されてどこまで適応できるか、どの程度で病気になるかという実験に使われている点だけだ。

(前掲書、51頁より引用)

 

この本の別の個所で、深夜も働かされる工場労働者の姿が描かれており、その労働者たちは睡魔に負けそうになると現場監督者にピンで刺される。煌々と明かりの灯った深夜の工場と養鶏場は重ねられ「生理的リズムの攪乱」による暴力を描いている。このあたりはすぐに気がつくのだが、さらに攪乱の暴力を挙げることができる。

 

向かいと裏の家のテレビは夜がふけたことも知らないようだった。

(前掲書、53頁より引用)

 

これは中産階級の生活圏を描いた部分だ。一見すると技術の発展や生活の向上を象徴するように思われる「テレビ」であるが、「生理的リズムの攪乱」という点では一種の暴力装置と言えそうである。「夜がふけたことも知らない」のだから。こういう暴力による人間疎外のイメージが深く印象に残る作品だった。同時に様々な階層の人々を描いているのだが、どの階層であれ「家族」という呪縛を抱えているのではないかとも思う。「養う」「養われる」という、深く考えなければどこにでもある生活の現象が時に暴力装置として機能することもありうるのだ。貧困や自らの思想による苦しみからの脱却はできるのだろうか。もしも世界が「メビウスの帯」であるならば、だれひとり、どこにも行けないことになるのだが。

 

僕は土手に行って、まっすぐに空を見上げた。れんが工場の高い煙突が目の前に迫ってくる。そのいちばんてっぺんに、父さんが立っていた。父さんのほんの一歩ぐらい先のところに月が浮かんでいる。父さんは避雷針をつかむと足を一歩踏み出し、その姿勢で、紙ヒコーキを投げ放った。

(前掲書、102-103頁より引用)

 

 

吟醸掌篇 vol.2

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穴 (新潮文庫)

穴 (新潮文庫)

 

 ↑

この作品が韓国で翻訳されたらしい。どんなふうに読まれているのだろう?

日韓の文学交流は今後知りたいところではある。

 

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今、この手触りからふいに―ポール・オースター『内面からの報告書』

今回紹介する一冊、ポール・オースター『内面からの報告書』は『冬の日誌』に引き続き、私にとって二冊目のポール・オースター作品となった。

妙なこともあるもので、年齢も国も違うポール・オースターという大作家と自分が似たような記憶を共有していることを知る。幼少期に抱いた強烈な印象というものは、必ずしもいつも有効な記憶ではないけれど、時々意外なところで意外な物事と結びつき、ぱっと浮かび上がってくるらしい。……ピーターラビットのおとうさんが、肉のパイにされてしまった!!幼少期のそんな読書体験を、皿やカップに描かれたピーターラビットの絵を見て反芻した日々。その日々をさらにこの本を読むことで反芻することになるとは。

 

ポール・オースター 著、柴田元幸 訳『内面からの報告書』(新潮社、2017年)

 

内面からの報告書

内面からの報告書

 

 

 

「内面からの報告書」「脳天に二発」「タイムカプセル」「アルバム」という4つのパートあらなる一冊で著者のポール・オースターがかつて経験した色々なことを思い出したり感じ直したりするノンフィクション作品だ。

 

……大きな世界の中の小さな世界。でも大きな世界はまだ見えていなかったから、小さな世界はそのころ君にとって全世界だった。

(前掲書、10頁より引用)

 

子供の頃、自分の回りには「謎」ばかりがあった(その謎の多くは大人になってもそのまま残されていたりするけれど)。それなのにどうして今現在「大人」であるつもりの自分ほど不安を感じてはいなかったのだろう。それは世界に対して納得していたからではないだろうか。子供には子供なりのロジックがあった。子供時代とはその範囲の中だけで生きれば良かった時代(とは言ってもその範囲内が常に安全だとは限らない)なのだと思う。

そういう感覚を、大人になってからもう一度探って行くのは楽しそうだ。この本は著者にとってそういう一冊なのだろう。訳者はあとがきで「内面に――内面と呼ぶに相応しいものが誕生する以前までさかのぼって――何が起きていたかを思い出し、生きなおそうとしている」と書いていた。

 

「脳天に二発」は著者が子供の頃に見て印象に残った映画2本(『縮みゆく人間』『仮面の米国』)について書かれている。その映画について今どう思っているか、ではなくて「あの頃どう思ったか?」を映画のあらすじと書きながら探っていく手つきが本当に面白い。「タイムカプセル」という章ではかつての妻に書き送った手紙を抜粋しつつ若い頃の自身へと手を伸ばそうとしている。最後の「アルバム」という章はそれ以前の本文の抜粋に写真をつけたもので、ここまで読み通してきてからページを捲っていくとまさに「アルバム」を見返すような楽しさを味わうことができた。

「内面からの報告書」は12歳までの記憶、その頃の自分は何者だったのか? どうして今の自分のように考える自分になっていったのか、その考えは自分をどんな場所へ連れて行ったのかが印象に残っているエピソードをもとに掘り下げられていく。たとえば六歳のある土曜の朝、突然「君」(本書の中で作者はかつての自分をこう呼ぶ)をおそった説明不能な「幸福感」。「人種」という問題にぶつかる以前に感じていた貧富の差について「君」はこう思っていた、「人生はある人間に対しては優しくある人間に対しては残酷だった。君の心はそれゆえに痛んだ。」(9頁)。社会や政治を語る必要などないほど世界を単純にとらえていた「君」の心は、それでもすでに様々な不条理にあふれていた。貧しい黒人たち、朝鮮半島で起きた戦争に行った人々の「黒ずんだ、切断された足指」。人々が当たり前のものとして何も感じなくなってしまっているもの、または見たくないために黙殺しているものに「君」の心はストレートに動いた。「同じ現実に対する二つの相容れぬイメージ」(54頁)のどちらが「正しい」などと判断することなしに、併存させることができた素朴さ。大人が怖いというものが必ずしも怖いものではなく、良いというものが必ずしも良いと思えるようなものではなかったという感覚。二項対立とも違う、対立以前の奇妙に混淆した感情は私にも経験があるように思える。

 

子供の頃の私にとって「外国」とはアメリカとソ連のことだった。外国イコール、で対立するふたつの国家を結びつけ想像することができてしまっていた(あの頃世界は日本とアメリカとソ連しかなかった。なんて小さな世界だろうと思う)。

こんな私のつまらない感慨はさておき、子供だった「君」にとってとてつもなく繊細な問題だった数々の事柄(たとえば寝小便のことと、ピーターラビットのことと、死ぬということや、ユダヤ人であることと帰属意識の問題など)が書かれた一冊だった。

 

君のもっとも初期の思考。小さな男の子として、どのように自分の中に棲んだか、その残滓。思い出せるのはその一部でしかない。孤立した断片、つかのまの認識の閃きが、ランダムに、予期せず湧き上がってくる――大人の日々のいま、ここにある何かの匂い、何かに触った感触、光が何かに降り注ぐさまに刺激されて。少なくとも自分では思い出せるつもり、覚えている気でいるが、もしかしたら全然、思い出しているのではないかもしれない。もしかしたら、いまやほとんど失われた遠い時間に自分が考えたとおもうことをあとになって思い出したのを思い出しているだけかもしれない。

(前掲書、7頁-8頁より引用)

 

ここ数年、「大人の童話」という言葉をよく耳にするようになった。しかし、そもそも「童話」とは「こどものために作った物語」(広辞苑)をさす言葉だったわけだから「大人の童話」という言葉は大きな矛盾を含んでいる。それなのにどうして「大人の童話」という言葉がこれほど一般的に使われるようになったのだろう? と考えてみると、案外おおくのひとが、子供時代の得体の知れない奇妙に混淆した感情に気がつき始めていて、そしてそういうものは「大人」になってみないとどうにも語れないのだということを実感しつつあるからだと思える。子供のころ受容していたもの(出来事や物語や感情など)にわざわざ「大人の」とつけて咀嚼し直したいという欲望は身近なものなのかもしれない。生きれば生きた分だけ、辿り直すことができる。生きなおそうとするって、そういうことなのかな? と考えてしまった。人生のどこかでこの本を読んだという瞬間が、あとからどんなふうに辿り直されることやら。あるいはどんなに辿っても行き当たらない瞬間になるのかもしれないけれど。

 

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世界との接触、たとえば朝起きてちいさないきものを撫でるとか―ポール・オースター『冬の日誌』

生きるということがどんなことであるのか、ひと言で表現するのは難しいけれど、毎日なにがしかの文章を書きながら考えていること、それは生きるということが世界との絶えざる接触であるということだ。私は午前四時前に起きる、その時まずある感覚は全身のこわばりと痛み、それからなんとかベッドを抜け出して飼っている小動物の世話。撫でる、抱く、頭の上から耳の付け根のあたりを揉んでみる。朝食を整えたりする。朝食は「食べる」ために、毎日同じようなものでもきちんと用意する。もろもろの家事(洗濯と風呂掃除が最も腰にとって過酷)を終えてから仕事に行く。移動は車。自分の右足で間違いなく踏むアクセルとブレーキ、右足への絶大な信頼を持ってだいたい時速60キロメートルで動く。一日の大半は職場で過す。毎日だいたい1万5千歩ほど歩く。帰宅してから眠るまでの様々な事柄、たとえば読書と目のかすみ、書き物と頭痛、シャワーと水圧のこそばゆさ、小動物との遊びとくしゃみ。植物に水をやり、いらない葉や終わった花を落とす、ハサミを持つ右手の不器用さ、再びこわばり、そして就寝、ぼろぼろになって糸くずがたくさん出ているタオルケットに包まれる安堵。簡単にしか書けないが、これが自分の暮らしであり、自分の体が世界から受けとっている感触である。大袈裟なことなど何もない。ただいわゆる日常と呼ばれるものがある。そしてその「日常」の中の多くの感触は「体」が受け取るものであり、感覚も含めた総体が暮らしなのではないだろうか。

 

長々と書いてしまったが、今回ご紹介する本はこちら。

ポール・オースター柴田元幸 訳『冬の日誌』(新潮社、2017年)

 

冬の日誌

冬の日誌

 

 

 

実はこの大作家の著作を一冊も読んだことがなく、作者よりはむしろ訳者のほうを知っていた(私は柴田元幸さんを『MONKEY』の編集者として知っていたし、ナサニエル・ウエストの翻訳を今年に入ってから読んだはずだ)。今回この本に手を伸ばした理由は表紙に惹かれたから。こんな贅沢な本との出会いは久しぶりな気がする(もちろんブログに記事を書くくらいだから、内容もとても良かった)。

この本の内容を簡単にまとめれば帯にある通り、「人生の冬」を迎えた作家の、肉体と感覚をめぐる回想録だ。64歳になった著者の自伝であるが、思い出される自分のことを「君」という二人称で表現していたり、語られる人生上のエピソードが単に時系列で並べられているわけではないという面白さ。「体」にまつわる小さなトピックからより普遍的な人生の感慨に持っていくような書き方がとても印象的だ。たとえば顔についた傷跡を巡って。

 

君の傷跡一覧。特に顔の傷跡。毎朝、ひげを剃ったり髪を梳かしたりしようとバスルームの鏡と向きあうたびにそれらの傷が目に入る。それらについて考えることはめったにないが、考えるときにはいつも、それらが生のしるしであることを君は理解する。顔の皮膚に彫り込まれたもろもろのギザギザは、君という物語を語る秘密のアルファベッドだ。なぜなら傷跡一つひとつが治った怪我の名残であって、怪我一つひとつは世界との思いがけない衝突によって生じたのだから――つまり事故(アクシデント)によって起きる必要のなかったことによって。アクシデントとは取りも直さず、起きなくてもよいはずのことなのだ。それは必然性ある事実ではなく、偶発的な事実である。けさ鏡を見ていて訪れた、人生はすべて偶発的なのだという認識――ただひとつ必然なのは、遅かれ早かれ終わりが来るとういこと。

(前掲書、7頁より引用)

 

傷跡にはそれぞれ、その傷を負った時のエピソードがある。しかし、覚えのない傷もある。そういう「起源」のわからない傷跡に対して「君」は妙な話だと思う。「君の体が、歴史から抹消された出来事の起きた場であるなんて」(9頁)

起源と言えば、「君」という人物がどこから来たのか、という存在についての問題がある。この結局はよくわからない問題に「君」が出した結論は自分の一個の肉体の中には無数の文明が(わかりようのない先祖たちの移動と混淆)あって、それぞれが自分の肉体の上で相対立している、肉体はそういう「るつぼ」なのだというもの。

「手」に関する記述も面白かった。もしかしたら「手」というものが世界との無意識の接触をいちばんやっているのではないか。作者はジェームズ・ジョイスをめぐる逸話を紹介する。一人の女性が『ユリシーズ』を掻いた手と握手させてもらえませんかと頼んで来たことに対してジョイスはこう答えたという。「マダム、忘れてはいけまん、この手はほかにもたくさんのことをやってきたのです」(151頁) 

 

いかなる詳細も語られないのに、卑猥と婉曲の何たる傑作。すべてを相手の想像力に委ねるがゆえに効果はいっそう増している。彼女が何を見ることをジョイスは望んだのか? 《中略》いかように空白を埋めようとも、ポイントはとにかくひどく醜悪と思える行為、とうこと。君の手もむろん同じようにそうやって君に仕えてきた。誰の手だってこういうことをやってきたのだ。だがたいていの場合、手たちは思考をほとんど必要としない営みの遂行に忙しい。

(前掲書、151頁より引用)

 

思考を介さない手の動き、それが実のところいわゆる「日常」の暮らしの主な担い手なのかもしれない。このブログ記事を書いている手は今朝、小動物の糞を拾い、料理をし、尻を拭き、自動車のハンドルを握り、パソコンのキーボードを叩き、ひとにささやかな贈物をし、粘着テープと苦闘した。その時、その一瞬一瞬が世界との接触なのだ。考えていないだけど結構な大事である。無意識な手は暮らしを、そして人生を、もっと大きく言えば歴史を作ってかたちづくる。だが手は――手に限らず体のいたる部分は――いちいちそんなことなど考えていられないほど忙しいのだ。

 

世界との接触から人生をとらえるなら、当然「体」のことを書かねばならない。「体」があって、それが世界の感触を受け取ったり、世界に対して何らかの干渉をする。そして何らかの感情を引き起こすきっかけを作り出す。この本に私は「生きていること」「暮らすこと」の実感や肯定を強く感じたのだった。

 

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糸玉の中心、ほどけどもほどけども―谷崎由依『囚われの島』

私はこの作品をすぐれた幻想小説として読んだ。

谷崎由依『囚われの島』(河出書房新社、2017年)

初出『文藝』2016年冬号 

囚われの島

囚われの島

 

 ※当ブログでの引用は初出『文藝』掲載時のものであることを予めお断りしておく。

 

 

全体が三章構成になっており、第一章と第三章は現在の日本社会を舞台に、真ん中の二章がかつて養蚕で栄えた村の勃興と零落を描いている。小説世界の現在(第一章と第三章)において、この村は廃村とされている。

簡単に小説のあらすじを書いてみる。主人公は静元由良という新聞記者の女性だ。困難を抱えた家庭に育ち、父はおらず、母は兄ばかりを偏愛していた。由良は会社の上司である伊佐田(妻子のある男)とかつて父を奪った女と同じことをしている自分に気がつきつつも、不倫関係を持ってしまっている。由良は繰り返し見続ける気がかりな夢を抱えていた。それは小舟に乗って水上を渡り、島に近づいて行くというものだ。ある日、盲目の調律師である徳田俊に出会ったことにより、この「夢」が核心に近づいて行く。そしてその核心こそ「終わり」なのだ。徳田俊もまた、島の夢を見続けていた。彼の場合はずっと島にいる夢で何年も何かを待っている、というものだった。誰かが小舟で近づいてくる、だけれど船が着いたことはまだ一度もない。毛糸玉を解いていくように、ふたりは対話を重ねて夢を解いていく。だけれど、毛糸玉を解いてしまえば結局解いた先に何もない。

徳田は部屋で蚕を飼っていた。蚕糸研究所を訪ねて養蚕について知っていくうちに蚕という生き物が人工的な存在で交尾をせず、みずからのうちに刻まれた遺伝情報を恒久的に保ち続けることを知る。このことから「父」の不在、海辺の蚕都が由良の中に浮かびあがる。徳田と自分の不可解な一致が夢を解く鍵になるように感じはじめ、由良は徳田を助けたいと思うのだった。蚕の糸をたぐるように、またギリシャ神話で英雄テセウスアリアドネの赤い糸玉を頼りにミノタウロスの迷宮を脱出するようにして、由良は夢を解いていく。それが徳田を救うことになると信じているかのように。

 

この手のなかの糸の先にあるものは何だろう。深入りしてはいけない、と警告する。けれどもう無理だ、と何かが言う。

 その通りだった。無理なことだった。糸玉は疾うに転がりだしてしまったのだ。

(『文藝』2016年冬号、94頁より引用)

 

私がこの作品に強く幻想性を感じるのは、主人公が営む社会生活と、かつての蚕都、盲目の調律師の存在がギリシャ神話(クレタ島の物語、赤い糸)と、蚕にまつわる伝承を素材に繋がっていくためだ。作品内にはオルターエゴ(いまここにいる自分ではない、もうひとりの自分)という言葉で説明されているけれど、この言葉で定義されている以上に風景の描写によってそれぞれの物語が深い所で繋がっているように思えた。

描写で特に印象的なのは「月」で、これもこの小説を幻想的にしていると思う。

 

 

しらじらとまるい球体が、夜空にあいた穴のようにはっきりとあった。高いところにある月を、左右にならぶビルの硝子が囲んで映し出している。幾つもの像のまんなかで、天蓋に浮かぶそれは似姿たちよりいっそ朧で、掴みがたく、それゆえに唯一の月だった。

(前掲書、79頁-80頁)

 

いま空は、目をあけつつあるんだ。新月は、閉ざされていた瞼そのものだった。どこにも見あたらなかったひかり。かつてひらかれたことのなかったその目が、今夜、ここで、あいていく。

(前掲書、104頁より引用)

 

「月を、探してたの」由良は夜の街をジョギングしながらビルの硝子に映る月を追っている場面がある(79頁)。硝子に映る月の、無数の輝きが眩しく、けれどもそのどれもが偽物なのだ。夜の街はまるで万華鏡の中だ。とても綺麗な場面で印象に残っている。月が万華鏡に入れられた色紙の切片、またはビーズのようにばらばらに砕けてきらめくイメージが浮かぶ。破片の光はしかし偽物で、天頂には満月がひとつ。その満月がまるで「目」のように描かれている。空高くから地上を見下ろすこの「目」は一体だれのものだろうか。この小説世界の地上すべてを見下ろすまなざしは人間の視点を越えていて、まるで「ふへんの神さま」のまなざしのようだ。この視点が小説全体を幻想的にしていると思う。

目をあけつつある空、夜空にあいた穴などと表現される月の存在は、目の見えない薄明の世界を生きることと対になっていて、とても面白く読んだ。

 

最後に、この作品に引用されている万葉の東歌について。

 

たまがわにさらすてづくりさらさらに なにそこの子のここだかなしき

 

「かなし」という言葉は「哀しい」とも「愛しい」とも通じる。どうしてこの子はこんなにもいとしいのだろう。いとしく、かなしいという感覚に何故か共感してしまい、この万葉の歌が忘れられなくなってしまった。人と人との関係性、いやそれだけでなくて、もっと広く人と何かの何らかの関係性にはこの「かなし」がぴったりとはまってしまうことがあるのではないだろうか。

この歌を、古来、蚕を飼うのは女性の仕事であったことと重ね合わせて読んでしまえば、まるで女性の「庇護欲」の表出が小説作品全体に流れているように思える。上司、伊佐田への由良のまなざしや、徳田を助けたいという思いなど、母親の庇護を十分に受けることのできなかった由良の庇護することへの強い欲望を感じてしまう。そんな由良のまなざしは第二章で蚕を育てるすずちゃんという登場人物のまなざし、または、すずちゃんをはじめ蚕飼に追われる女たちの子供の面倒をみる二章の語り手のまなざしにうっすらと重なる。

 

「迷宮はね、いつも抜け殻なんですよ。人間がその入り口を通って、ふたたび出口から抜けられたということは、それはもう、迷路ではないんです。すでに解かれてしまったあとだから。中心に居座っていた謎は、そのときには消えてしまっている」

――糸玉と、おなじですよ、毛糸の玉を幾らほどいてみても、なかからは何も出てこない。糸の道が繰りたたねてあるばかりです。

(前掲書、158頁より引用)

 

中心があると思って糸を手繰る。けれどもすべて手繰ってしまえば、もうそこにはなにもない。空洞ではなかったはずなのに、解いてみればなにもない。

天空と海洋のはざまで夢をみる―ル・クレジオ『黄金探索者』

 

 

この小説は天空と海洋の、途方もなく広い世界へとひらかれた物語である。

 

ル・クレジオ 著、中地義和 訳『黄金探索者』(新潮社、1993年)

のち『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅱ-09』(河出書房新社、2009年)所収。

※当ブログ内の引用ページ番号は『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅱ-09』に依る。 

 

 

あらすじを一言で言ってしまえば、小説の語り手「ぼく」(アレクシ)が、父の残した地図を頼りにかつての「海賊」の財宝を探すという、宝探しの物語である。

 

その間ぼくは机のそばに突っ立ってじっと動かず、星図と並んで壁に鋲で留められたロドリゲス島の地図をちらちらと眺めている。これ以後に起こったいっさいのこと、あの冒険、あの探索が、現実の大地の上ではなしに空の国々で起こったことのように思え、ぼくが旅を始めた船がアルゴ船であったような気がするのは、きっとそのせいだ。

(前掲書、251頁引用)

 

アレクシはこの「宝探し」によって、すべてを取り戻そうとする。というのも、彼の父が事業に失敗して破産し、幼少期に世界のすべてだと思っていたブーカンの谷の家までも失ってしまっているのである。この小説は失われた過去の時間をなつかしみ、いつくしむような「ぼく」の語りに支えられている。「思い出すかぎり遠い昔から、ぼくは海の音を聞いてきた。」(209頁)アレクシが思い出す時間にはいつも海が近くにある。ブーカンの谷をおわれた一家が移り住んだフォレスト・サイドという所での灰色の暮らし(この頃、アレクシの父は亡くなる)には一見海は出てこないのだが、かつての海賊の伝説を夢想する語り、またボロボロの家がたびたび「船」にたとえられることによって、読者は常に海を想起する。アレクシは港でゼータ号というスクーナー船と遭遇し、ロドリゲス島へと旅立っていくことになる。

それから「星空」。これも忘れてはいけない。アレクシはたびたび夜空を見上げる。それは失われた幼少時代に父に教えられながら「星の小道」を歩いて星座を覚えたころからはじまる。ゼータ号という名前の船に乗って宝探しの航海に出た時もその甲板上で、またロドリゲス島の谷で孤独な探索を続けている間にも、たとえ第一次世界大戦に身を投じている間でさえ、アレクシは星空を見上げてしまう。特にたびたび言及される「アルゴ船」、この星座は残念ながら日本から全体を見ることのできない南の星座のひとつだ(この小説の舞台は南半球のモーリシャス島と、その近海、島である)。アレクシは自分の冒険をたびたびアルゴ船一行の冒険(ギリシア神話)に重ねている。

 

何もかも静まり返り、止まってしまった。地上の時間は宇宙の時間だ。ヴァコアの絨毯のうえに横になり、ウーマといっしょに軍隊の毛布にくるまって、ぼくは星を眺めている。

(前掲書、474頁より引用)

 

これが、「宝探し」の結末と言っても過言ではない。地上と宇宙が重なり合うということを知る、その過程がひたすら「黄金探索」として描かれているように思える。「宝探し」は終始、目線が下ばかり向いてしまう行為だ。谷を測量し、図面と比べ、その図面に新たに見出した地形の「意味」を刻み付けていく。つるはしを打込み、穴を掘る。

もしも、こういった作業を夜空に対して行うとすれば……?

それが「星座」ではないか? と私は思う。子供の頃、「星座」というものがよくわからなかった。プラネタリウムで見る夜空には何故「絵」が浮かんでいるのか? 実際の空にはどこを探したって絵なんか見つからない。それなのに、夜空を見上げるとついつい「星座」を探してしまう。

この目でとらえることのできない神話的な絵の数々は、古の昔に生きた人々が天空に対して刻み付けた意味であり、生の痕跡であると言えないか。そしてそれは「黄金探索者」が地上に対して行ったことと同じではないだろうか。点と点を結び、浮かび上がる図形になんらかの意味を与えていく。また「星」には動きがあるからその法則性を見出して我々人間が感じている「時間」の中に落とし込んでいく……。

 

アレクシがまだブーカンの谷の家で暮らしていた頃の思い出のひとつに、姉のロールと過ごした屋根裏部屋の時間がある。そこでふたりは古新聞や古雑誌に掲載されている広告を見ながらお互いに贈り物をしあう、という空想の遊びに耽る。この時ふたりにとって重要だったのは実際の「物」ではなくて、おそらく「贈物をしあう」という行為のほうだったのだろう。この感覚はアレクシが見出すことになる「黄金」が物質的な「財宝」ではないことを予感させる。ル・クレジオの作品はいつも光が美しい、とりわけ、夕べの描写が素晴らしい。金色の夕日がその時々の語り手の感慨とともに語られていく。

旅の方向はいつも「回帰」だ。しかしそれは単なる原点回帰というだけでない。ラストはまだ見ぬ旅(もうないかもしれない旅)への美しい幻視である。読者の想像は果てしなく広いところまでひらかれているのだ。

 

私はもう何度もこの小説を読んでいる。本当に好きな作品なのだ。今回は語り手が自身をかつての「海賊」と重ねあわせ、同一化をはかっていくところに面白さを見出したりもした。語り手の「ぼく」はふいに戦争に身を投じていくことになるが今までこれがどうしてなのかよくわからなかった。今回読み返してみて、「ぼく」の戦争経験はかつての「海賊」が略奪と殺戮の日々を生きたこと、そしてその成果して「黄金」を得たことと重なり合うように思えた(「ぼく」は戦争によって報奨金を手に入れており、実は物語の後半ではお金に困っていない)。そして「自由」のために、得たものもすべて手放してしまったのだろうかつての「海賊」と自身を重ねあわせ、「ぼく」もまたすべてを手放してただ未来というまだ見ぬ時間への憧れを抱くのだろう。

 

『黄金探索者』刊行直後のインタビューで著者のル・クレジオがこんなことを語ったという。孫引きになってしまい申し訳ないのだが、本書の訳者あとがきより引用メモを残してこの記事を終えたい。

 

「私の興味を引いたのは、祖父がその生涯を夢のなかで過ごしたということです。私も祖父と一緒に少しばかりその夢を見たかった。この小説はその夢の結果です。[……] 私は自分のものではない過去とともに成長しました。しかしその過去は、強い喚起力によって私のなかに深く根づいていました[……] 祖父がひとつの妄想のなかにすべてをなげうったのに対し、私は、夢見ることですべてを取り戻そうと試みています。」

(前掲書、505頁より引用)

 

※「黄金探索者」は作者の祖父の思い出をもとにして書かれた作品です。

 

 

黄金探索者 (新潮・現代世界の文学)

黄金探索者 (新潮・現代世界の文学)

 

 

ポラリスまで―ル・クレジオ『氷山へ』

雑然とした日常生活の中で、ふいに、すてきな詩に巡り会った時のよろこびって確かにあると思いませんか? 詩に限らないけれど、なんか、こうすてきな表現。その時、雑然としていたはずの日常から一瞬だけ抜け出したような気持ちになってどこかほっとしている自分に気がつく。「言葉」の美しさが日常に滲みだしてくることで、社会生活に溺れずに済んでいる。そのことへの安堵だろうか。

今回ご紹介する本は、まさにその言語によるよろこびそのものを、詩的な散文作品に仕立てた1冊。

 

ル・クレジオ 著、中村隆之 訳『氷山へ』(水声社、2015年)

blog 水声社 » Blog Archive » 2月の新刊:氷山へ《批評の小径》

 

「ぼくはアンリ・ミショーの詩を旅するように読みたい。」(12頁)

ル・クレジオのこの言葉が本書を一言で言いきっていると思う。「旅するように」。

 

この著作の原著「Vers les icebergs(Essai sur Henri Michaux)」は1978年に発表されたものだそうだ。今回私が手にとった日本語訳の書籍(2015年発刊)にはアンリ・ミショーの詩「氷山」「イニジ」を巡るル・クレジオのエッセイ(とても詩的)の他に、今福龍太「ことばの氷海への至上の誘い」、訳者あとがきが含まれる。もちろん、アンリ・ミショーの「氷山」「イニジ」も収められているのでミショーの詩を読んだことがないひとでも手にとって楽しむことができると思う。実際、私も今回はじめてアンリ・ミショーの詩を読んだ。ふだん、あまり詩を読むことがないので「詩の読み方」のようなことはわからないのだが、ル・クレジオが書いているように「詩」は「詩」そのものとして、つまり理論武装をして分析的に読むという読み方とは異なる楽しみ方があるのだと思う。詩の少ない、硬質な言葉のひとつひとつを時に取り上げて転がし、時につらなりとして流れるように読む。詩の言葉にもぐることも、詩の言葉を飛ぶことも許される。読むことそのものが至福と感じられるこの世界はル・クレジオの作品全般にも言えることだ。

 

〈氷山〉よ、手すりもなく、ベルトもなく、仕留められた老いた海鵜の群れと死んだばかりの水夫たちの魂が極北の幻惑的な夜々に肘をつきに来るその場所よ。

(アンリ・ミショー「氷山」(1934年)抜粋、『氷山へ』に掲載されています。)

 

アンリ・ミショーの「氷山」「イニジ」という作品の言葉による詩的経験を、ル・クレジオは旅するような言葉によって辿ってみせた。『物質的恍惚』に見られる透徹した言語の極地の美しさを楽しめる1冊だ。特に「氷山へ」という文章の、都市とそこを離れて行こうとする想像力の飛翔《旅》の二重うつしが素晴らしい。

 

最後の家並みは、その壁とその囲いで、ぼくたちを引きとどめる。電信線はぼくたちに巻き付いている。自由になるには、そのケーブル、そのコードを一太刀で断ち切らねばならない。出て行こう! ぼくたちが好むのは、広大なデッキだ、遠方の、無限の海だ! ぼくたちは前に進み、境界を踏み越える。おそらく運動はいまやぼくたちのうちにある。穏やかで力強い、緩やかな運動、長い間、はき出される息だ。そしてぼくたちはこの口から現われる風に乗って旅している。

(前掲書、23頁より引用)

 

「口から現われる風」、詩の言葉、それに乗って都市をから抜け出し海へ、そして氷山へと至る。アンリ・ミショーの詩の言葉によってル・クレジオの文章は「北」を目指す。都市の雑多さの中で思いがけず美しい詩に出会ってしまって生じた想像という運動が、ル・クレジオの詩的言語で表現されている。

 

併録されている今福龍太「ことばの氷海への至上の誘い」によると、ル・クレジオ文学は「北」と「南」がいつも豊かに触れ合っているという。南はル・クレジオにとって「心」。心の深奥部を求めるように書かれたモーリシャス、ロドリゲス、ナイジェリアパナマメキシコメラネシアのヴァヌアツの島々を素材に書かれたものが「南」にあたる。

対して「北」は「もっとも厳格な物質言語の極北」。『物質的恍惚』という著作に通じる言葉に対する美意識。

 

「世俗的な文明社会の呪縛に決別し、南への憧憬とともに心の側に離脱するのではなく、むしろ究極の物質性がもたらす陶酔の側に向けて逃れていこうとするときに浮上する、白い、透明な大気の土地だ。もっとも厳格な物質言語の極北。もっとも純粋で透徹した言葉の種子が、裸のままに生まれでる大地。」

(前掲書、98-99頁より引用、今福龍太「ことばの氷海への至上の誘い」)

 

ル・クレジオの作品は初期からメキシコ体験を経て変化していったことがよく言われるけれど、「北」と「南」という方位による分析ははじめて読んだ。また、ミショーの詩「氷山」(Iceberge)の、icebergというフランス語の不思議さについても書かれていて興味深かった。Icebergというフランス語は、英語由来の明白な外来語・借用語なのだ。「ル・クレジオにとって、フランス語の海のなかで孤独に自己を凝視する英語由来の“iceberg”の一語は、まさに彼の作家としての存在そのものの写し絵のように思えたのだろう。」(103頁)、「そう考えれば、“iceberg”という異形の語との遭遇は、まさに自分の分身のような存在との不思議な言語的邂逅でもあったことになる。」(104頁)とも分析されていた。

書くことで「旅」ができるなら、読むことでもまた「旅」ができる。馴染のない言葉によって組上げられた世界の中を視線によって旅をする。そうしているうちに、読者の側(現実)に少しずつ、異質な世界が滲みだしてくる。

 

北極星 POLARIS

夜、ぼくはもはやこの星のほかには眺めないし、そのほかはもう目に入らない。

星はその冷たい光線を拡大し、その後、四角い家々を押しのけ、格子を取り払い、扉と窓の掛け金を開け、邪魔なものを一層する。星は大西洋の上でただひとつ輝く。漂流する巨大な建物ははるか後ろにとどまったままだ。どこまで行くのか。しかし星から生じる言葉は忘れられがたい。その言葉はただひとつであり、それはそのまなざしのうちで樹氷色に輝く。(前掲書、38-39頁より引用)

 

ぼくたちは、空を見上げながら寝そべるひとたちのように、この言葉を絶えず聞きたい。ぼくたいは、知らないうちに、その言葉の国に、北の領域に到着したのだ。

(前掲書、39頁より引用)

 

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