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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

たとえパパが平凡な茄子に見えても好きなんだからそれでいい―東宏治『トーベ・ヤンソンとムーミンの世界』

読書日記

私はムーミンパパのことが大好きだ。

何故かといえば、自分の好きな人に「似ている」と言われたからだ。どうやら、傍から見ていると、私とムーミンパパは似ているらしい(体型は全然似ていないと主張しておきたい笑)。そう言われてみてから、ムーミン物語を読み返したり、キャラクターグッズをじっと眺めたりしてみて、はじめて気がつくことがいろいろあった。

ムーミン物語に登場するあのタイルストーブの形をした家の中には、意外と本というものがあるらしい。コミックスに登場するエピソードも含めるけれど、ムーミンたちは何か事あるごとに本を開いたりしている。それに、あの世界では本のほかにも記録として「ノートをつける」ことも習慣としてあるらしい。たとえばスノーク、フレドリクソン、ムーミンも何かを書こうとしているし、ムーミンママは「おばあさんの手帖」に残された記録を日常的に使っているようだ。

中でも「物書き」の属性を与えられたムーミンパパが何かを積極的に書いている姿というのは印象的だ。『ムーミンパパの思い出』という小説は、ムーミンパパが自らの半生を自伝的な「思い出の記」として書くという体裁で作品として成立している(でも、パパが書く文章はちょっとクサい。繰り返し語られるエピソードは繰り返される度に変形するし、そのおかげで矛盾を孕んだ記述が登場したりもする。ムーミンパパは語り手としては信用ならんやつなのである笑)。また「海の長編大作」を書こうとして挫折し、結果として「居心地のよいベランダがなつかしい」という心安らぐ小品を書くことにしたというエピソード(ムーミンコミックス第一巻に収録されている「ムーミンパパの灯台守」より)まである。小説版では、『ムーミンパパ、海へ行く』でせっせとノートをつけているパパの姿があった。

 

さて、前置きがだいぶ長くなってしまったが今回紹介する本は、おそらくムーミンシリーズが大好きな著者が、トーベ・ヤンソンムーミンシリーズ以外の作品(『彫刻家の娘』『ソフィアの夏』)も交えつつ、ヤンソンの姿勢やムーミンの魅力を語った書籍である。

 

東宏治『トーベ・ヤンソンムーミンの世界 ムーミンパパの「手帖」』(鳥影社、1991年)

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ムーミンの秘密の扉を初めて開ける

いま、ムーミンを読んでいる子供や若い人たちに

かつて、ムーミンを読んだパパやママたちに

そして、一度もムーミンを読んだことのない人々にムーミンの思いがけない面白さをそっと教えます。(帯文より)

 

スナフキンが何故こんなにも魅力的なのか、ムーミンママが何故こんなにも優しくしかも頼もしくさえ思えるのか、ちびのミイの皮肉や辛辣さがどうしてユーモラスに見えるのか? またフィリフヨンカや何人か登場するヘムレンさんたちのこと、「ちいさな」存在と大自然という世界観の中で展開する動物とのつきあい方、アニミズムとその昇華などトーベ・ヤンソンが深く感じていたと思われる事柄について、著者独特の切り口で紹介されている。

ちなみにこの本の著者によるとムーミンパパの個性は、少女ヤンソンやソフィア(ヤンソンの自伝的作品である小説『ソフィアの夏』に登場する)が好感を持つ大人の男性像、その魅力をどれも備えてはいるけれど、どれひとつ格好よく演じることができないという。

 

「これが、ムーミンパパのユニークさと平凡さの由来であると思う。つまり彼は、存在としてはユニークなのだが、能力としては平凡なのである。」(前掲書、165頁より引用)

 

日常を大切に生きようと思った時に、この平凡さが私をほっとさせるのかもしれない。そしてこの平凡さを自分の中に受け入れようと思った時にますますムーミンパパに親近感を抱くのかもしれない。それでどんどん好きになる。

 

気になる人もいるかもしれないから一応スナフキンについても書いておきたいと思う。

このキャラクターは本当にマイペースに生きている。ひとりで旅をして、テントで暮らし、毎年春になるとなんとなくムーミン谷に戻って来るけれど、秋にはさっさと旅に出てしまう。物事にこだわりがない。大切な持ち物は自分のハーモニカくらい。すごく優しいというわけじゃないけれど、穏やかな性格をしていて、さりげなく他人の気持ちに配慮することができる存在……。そんな穏やかな存在である彼が唯一感情を荒げるのが「看板」であり、スナフキンはどうしても許せない存在である「看板」(~すべからず、という禁止の看板)とは戦わなければいけなかったりする。……というのが私の「スナフキン観」であるが、この本の著者はこんな風に書いていた。

 

スナフキンが看板を嫌悪する理由を、ひとの自由を束縛することへの憤りだと、ぼくは前に説明したが、別の見方もできるのである。「立入禁止」とか「境界」を設ける看板や囲いなどは、ひとの自由の束縛であるとともに、看板を立てる側の人間の個人的な私有や独り占めをも意味しており、およそものの所有を嫌うスナフキンにとって許せないことなのである。

(前掲書、58-59頁より引用)

 

ムーミン作品を自分なりに何度も読んでいると、いつの間にか自分の中に独自の「ムーミン観」が根を下ろし始めていることに気がつく(そういう「押しつけがましい」ムーミン観をズバッと指摘してくれる『ムーミン谷の十一月』という小説は面白かった)。そうすると、自分以外の他の人の「ムーミン観」も気になりはじめて、時にはこういった書籍に手を伸ばしたくなる。そこで今まで気づいていなかったキャラクターの魅力に出会うこともあれば、真っ向から対立したくなることもあるのだ。

 

最近、ムーミンパパの丸っこい鼻の曲線と、シルクハットの黒さをじっとみていると、だんだんパパの顔の輪郭線が「茄子」に見えてくるんだよなあ……(ぼやき)。

 

 

ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界

ムーミンパパの「手帖」―トーベ・ヤンソンとムーミンの世界

 

 ↑

1991年鳥影社版の増補復刊。こちらのほうが入手しやすいと思います。

島暮らしに必要な「冒険」への愛情―トーベ・ヤンソン『島暮らしの記録』

読書日記 外国文学

日本ではムーミン物語の作者としてすっかり有名なトーベ・ヤンソンにとって、「島暮らし」というのは幼い頃からの習慣であり、人生にとって欠かすことのできない期間であったらしい。訳者の解説によると、母親の腕に抱かれた赤ん坊の頃に滞在したブリデー島の別荘に始まり、自分で小屋を建てたクルーヴ島に別れを告げるまで八十年近く、毎年のように島で夏を過ごしてきたのだそうだ。

今回紹介するトーベ・ヤンソン『島暮らしの記録』という本を読んで、なるほど、と思った。ムーミン一家がよくボートに乗ってピクニックに行くことや、嵐の風力を数字で表現することや(この数字、ビューフォート風力階級表というのに基づいているらしい)、『ムーミンパパ、海へ行く』の舞台となる岩だらけの島が、作者の記憶や意識に深く根付いていたものだったらしいことがわかった。 

 

トーベ・ヤンソン著、トゥーリッキ・ピエティラ画、冨原眞弓訳『島暮らしの記録』(筑摩書房、1999年)

島暮らしの記録

島暮らしの記録

 

 

島。

小島(ホルメ)、岩礁(シェール)、島(ハル)、岩島(コッベ)、絶壁島(クラック)

この本に登場する「島」という表現がこれほど豊かなのは、それだけトーベ・ヤンソンにとって(あるいは北欧で暮らす人々にとって)島というものが身近であったことの表れだろう。

 

わたしは石を愛する。海にまっすぐなだれこむ断崖、登れそうにない岩山、ポケットの中の小石。いくつもの石を地中から剝ぎとってはえいやと放りなげ、大きすぎる丸石は岩場を転がし、海にまっすぐ落とす。石が轟音とともに消えたあとに、硫黄の酸っぱい臭いが漂う。

 築くための石、またはたんに美しい石を探す。モザイク細工、砦、テラス、支柱、煙突、もっぱら構築するのが目的の壮大かつ非実用的な構築物のために。秋には海がさらってしまう桟橋を築く。それならといっそう工夫を凝らして築いた桟橋も、やはり海は根こそぎさらっていく。

(前掲書、冒頭7頁より引用)

 

1964年秋、トーベ・ヤンソンはクルーヴ島(ハル)で小屋の建設を始める。この島は面積、六、七千平方メートル、縁を岩山で囲まれ、中央に溜り水をたたえる環礁だ。もちろん、たったひとりで大工作業をしたわけではなく、シェーブルムやブルンストレムという人が主に協力してくれたらしい。それから一緒に島暮らしをするトゥーティという人、母親のハム、猫のプシプシーナのことも書かれている。

 

島暮らしというのは、一見ロマンチックだ。都会暮らしに疲れた人々に自然を売りにした観光ツアーが好評なくらいなのだから。だけれど実際、自然はままならないことのほうが多い。だから、あまり書かれてはいないけれど、トーベ・ヤンソンの島暮らしは決して楽なものではないはずだ。何を築こうが、ある日突然、全く予測のできない海や風によって根こそぎ奪われてしまうなんてことも珍しくはない。私はこの「ままならなさ」にとても親近感を感じた。昔、東京や大阪などの大都市に出掛けた際、電車が10分程度おくれただけで人々は苛立ち、電光掲示板に繰り返し「お詫び」が表示されていたのを思い出す。田舎暮らしの自分にとって何でも思い通りになると信じている人々が恐ろしく見えた。こちとらバスが40分程度遅れることなどよくある(しかも40分待った上に実は天候上の理由で運休になっていた、ということもある)。苛立つ人もいるけれど、「仕方ない」と諦める人のほうが多いような気がする。というか、「ままならない」ことが普通だ。インターネットが当たり前になって、どんなに最新の「情報」が入って来ても、肝心の映画作品は地元には来ないし(上映されないし)、雑誌も発売日に店頭に並ばない。

島暮らしについて回る危険や、不便がとても近しく感じられる。

 

 わたしたちはかつて野原を中庭に、低灌木を公園に変え、橋やらなにやらで浜辺を手なずけようとした。もちろん、失策(へま)だらけだったとしても。

 まあ、人間には失策がつきものだ。だから、なんだというのか。

 ときには報われぬ恋をしている時のように感じ、万事がむやみに誇張される。度はずれに甘やかされ下手くそな扱いをされたこの島は生ける存在で、わたしたちを嫌っているか憐れんでいるかのどちらかである、と想像することもできよう。こちらの不作法のせいなのか、たんなる成りゆきなのかはいざ知らず。

(前掲書、101頁より引用)

 

生きていくということは、常に何かに干渉し続けることだと思う。その結果がどうなるのかは誰にもわからないし、わかることもないのかもしれない。ほんのちょっとしたことがきっかけで、ふいに驚くような光景が目の前に広がること、それが島暮らしに必要な「冒険」への愛情だろう。「ままならなさ」を引き受けることではじめて得られる静けさがこの本から感じられる。諦観とも違う、この静けさは心地良い。

 

 はしゃぐのに飽きてしまい、腰をおろして感覚を研ぎすます。海は右も左も見渡すかぎり真っ白だ。そのときはじめて完璧な静寂に気づいたのである。

 自分たちが声を低めて喋っていることにも。

(前掲書、59頁より引用)

 

この本を読みながら、以前読んだアン・モロウ・リンドバーグの『海からの贈物』という本を思い出した。

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この本は私にはあまりに綺麗すぎる印象があったのだが、トーベ・ヤンソンの提示する海や島の暮らしには、時に理不尽な荒々しさがあり、そのことがとても私を安心させるのだった。

丸っこい滑稽さ―ムーミン・コミックスを読んだはなし

読書日記

ある時はカバに間違われて動物園の檻に収容されそうになったり(ムーミン・コミックス第3巻「ジャングルになったムーミン谷」)、

また別の時には動物愛護の名目で「かわいそうな」サーカスの動物たちを脱走させ、ムーミン屋敷で世話をするはめになったり、

さらに別の時、思い切りよく「冬眠」の伝統を打ち破ってみったり。

コミック版ムーミンでは、小説版のムーミンにはない「丸っこい滑稽さ」を存分に楽しむことができる。

 

以前このブログにムーミンの原作小説を読んだ感想を書いたが、今回はコミックスについてメモ程度に書いておきたいと思う。ムーミンは小説、コミック、絵本、アニメ、そしてたくさんのグッズが販売されていて色々な楽しみ方ができて良いなと思う。

 

 

私がたまたま手にしたムーミン・コミックスは以下の6冊だ。著者はトーベ・ヤンソンと弟のラルス・ヤンソン、訳者は冨原眞弓さんで、筑摩書房から2000年~2001年に出たものである。

 

ムーミン・コミックス第1巻 黄金のしっぽ』……「黄金のしっぽ」「ムーミンパパの灯台守」収録。

ムーミン・コミックス第2巻 あこがれの遠い土地』……「ムーミン谷のきままな暮らし」「タイムマシンでワイルドウエスト」「あこがれの遠い土地」「ムーミンママの小さなひみつ」収録。

ムーミン・コミックス第3巻 ムーミン、海へいく』……「ムーミン、海へいく」「ジャングルになったムーミン谷」「スニフ、心をいれかえる」収録。

ムーミン・コミックス第7巻 まいごの火星人』……「まいごの火星人」「ムーミンママのノスタルジー」「わがままな人魚」収録。

ムーミン・コミックス第8巻 ムーミンパパとひみつ団』……「やっかいな冬」「ムーミンパパとひみつ団」「ムーミン谷の小さな公園」収録。

ムーミン・コミックス第9巻 彗星がふってくる日』……「彗星がふってくる日」「サーカスがやってきた」「大おばさんの遺言」収録。

 

黄金のしっぽ ― ムーミン・コミックス1巻

黄金のしっぽ ― ムーミン・コミックス1巻

 

 

ムーミン・コミックス(全14巻セット)

ムーミン・コミックス(全14巻セット)

 

 

こう列挙してみてパッと、「あ、これ小説版で知っているエピソードだ!」と思えるものもいくつかある。灯台守や彗星という言葉にピンとくる人も多いはずだ。だけれど、単に小説の内容を同じように漫画にしたわけではなく、漫画表現の良さや面白さを際立たせるようなアレンジが加えられている。小説版には登場しないキャラクター(スティンキーやウィムジー、火星人などなど)も多数登場している。

漫画であることの面白さを存分に発揮していると思うのは、物語の始まりの1コマ目は私が見た限りではすべて「ムーミントロールの丸っこいお尻(しっぽ付き)」から描き出されている。すごくかわいい。読者に向かって「どうしよう」というようなことを語りかけてくるコマもあった。コマ割りの線が場面にあった植物になっているなど、コミックスでないとできない表現も楽しい見どころ。ひとつひとつ見ていくと本当に面白いのだ。

多くのムーミングッズのデザインがコミックスの1コマであったりするから、見たことのあるカットを見つけると嬉しくなる。ちなみに私が気に入っているムーミン関連グッズに、『ムーミン100冊読書ノート』(講談社、2016年)というのがあるのだけれど、この表紙絵は「ムーミン谷のきままな暮らし」(コミックス第2巻)の1コマだった。

 

ムーミン100冊読書ノート (講談社文庫)
 

 

 

スナフキン「なんだ そのしゃべりかたは?」

ムーミン「あのね この本によるとこれが……」

 (「ムーミン谷のきままな暮らし」コミックス第2巻より引用)

 

という台詞がついている。ムーミントロールが手にしている本のタイトルは『磁石のようにひきつける個性を得る方法』(?)らしい。ハウツー本的なものを片手に「男同士の気のおけない接しかた」だかを修得しようとしているムーミン。実はこの回、ムーミンたちみんながちょっとおかしいことになっている。ありのままの生活、よりも無理やりでっちあげた「義務」というものを果たそうと躍起になっているのだ。

 

はじめてコミックスを読んだ時にはその辛辣さに少し驚いた。小説版では作者トーベ・ヤンソンの語りが中和していたかもしれないキャラクターの辛辣さ。スニフの金の亡者ぶりはすごいし、権威や名声というものを風刺する作品群にはシニカルな笑いがある(私はそういうシニカルな笑いを理解するのにだいぶ時間がかかってしまうのだが)。

 

最後に印象に残ったフレーズをひとつ。

 

ムーミンママ「ねえ パパ 失われた青春は見つかったの?」

ムーミンパパ「ああ…じつをいうと一度も失ったことなどなかったかもな…」

ムーミン・コミックス8巻「ムーミンパパとひみつ団」より引用)

 

ひとまずここで暮らそうと思ったらまず家を建てるマイホームパパ的なムーミンパパ、しかし彼の中にはいつも新しい冒険を探す心があって、時々バクハツしてしまうのだ。その結果、ムーミン谷に様々なゴタゴタが発生するけれど、なんとなく丸くおさまる。おさまった時に振りかえってみると案外、年と共に失ったと思っていた好奇心や冒険心、青春時代に固有のわくわくした感じはあの頃と変わらず自分の中に残っていたのかもしれないと思える。このブログの管理人、年齢的に「ムーミンムーミン!」と騒ぐほど若くはない。だが、やはり、ムーミンは、かわいいのである。

ムーミンムーミン!!←笑

 

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風景の生まれる瞬間―磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』

読書日記 日本文学

さて、どういうわけなのか、2月は磯﨑憲一郎強化月間(?)になっており、ブログの更新もこの著者の作品についてばかりになってしまっているのだが、今回も懲りずに書いてみようと思う笑。今回は、磯﨑憲一郎のデビュー作(文藝賞受賞作)である「肝心の子供」を取り上げてみたい。なお今回読んだのは文庫版で、引用のページ番号などはすべて文庫版に拠っている。

 

磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』(河出文庫、2011年)

本書は2007年11月に刊行された『肝心の子供』と、2008年8月に刊行された『眼と太陽』を合本とし、文庫化したものです。

初出「肝心の子供」……『文藝』2007年冬号

  「眼と太陽」……『文藝』2008年夏号

  「特別対談」……『文藝』2008年春号

肝心の子供/眼と太陽 (河出文庫)

肝心の子供/眼と太陽 (河出文庫)

 

 

 

川岸近くの葦のなかに、一羽の白いサギがいた。馬が立ち止まって見ているので、ブッダも気になって、しばらくの間ふたりでそちらを見ていた。動かない静かなそれは、冬枯れの色のない背景に同化して、固まってしまったようにも見えたが、すると一瞬、するどく首を回して、くちばしを百八十度まで開いた、桃色の口腔の奥まで見せつけるというひとつながりの動作だけで、焦点とそのまわりの背景を反転させてしまった。もちろんありえないことなのだが、一羽の鳥の口の中に、冬の朝の渓谷というこの空間ぜんたいが入り込んでしまったかのような、そんな馬鹿げた印象をブッダに与えた。

(前掲書、10頁-11頁より引用)

 

この、何の変哲もない冬の朝に一瞬立ち現われる印象。たぶん、こういう一瞬は言葉にして捉えることができないだけで、実は日常のいたるところに転がっているのかもしれない。そしてそれら一瞬一瞬というのは、どういうわけか後々かけがえのない瞬間として想起されるのかもしれないし、特に思い出されることもなく、ただ人生全体の時間のほんの一部ということになるだけかもしれない(と、こう書いてみて前回「世紀の発見」について書いた時も似たようなことを書いたかもしれない。特に子供時代、ひとは誰もが名状しがたい一瞬を経験している、というような)。

この小説の概要を簡単に記しておく。

ブッダ、束縛という名の息子ラーフラ、孫のティッサ・メッテイヤ――人間ブッダから始まる三世代を描いた衝撃のデビュー作」(文庫本裏表紙より引用)

ブッダを題材にしているため、歴史小説のように感じる人がいるかもしれないので一応補足しておくが、これは歴史小説では全然なくて、むしろ現代的な感覚を描いた作品であると思う。ブッダにまつわる史実もいくらか含まれているらしいが、ほとんどが作者の創作である。だけれど、何故か説得力があって、ブッダは本当に描かれた風景を目にしたのではないか? と思えてくる。たぶん、精緻な描写が読者にそんな印象を抱かせるのだろう。

たとえばこんな描写もある。結婚記念に銀食器をもらったブッダがそれを見ている場面。

 

銀という金属の実物を、ブッダはそのとき生まれて初めて見た。磨き上げられたその輝きは、自然界にほんの一瞬だけ姿を現す非自然的な色彩、ハチドリが目の前をかすめて飛び去るときにちらと見せる羽の裏側や、砂漠を走り抜けるトカゲの陽を浴びた背中、真夏の満月のした沼面から飛び上がった雷魚の鱗、そういった色彩を切り取ったかのようだった。

(前掲書、15頁より引用)

 

先ほど引用したサギの桃色の口腔の奥もそうだが、この部分の描写も素晴らしい瞬間が切り取られている。銀という金属の輝きを描くのに持ち出される自然の一瞬の表情、まるで時間が停止したかのようにクローズアップして書かれる輝き。実際に眼で捉えることができない(少なくとも私にはできないし、たぶん誰も現在形で、ここまで精緻に自然を見ることはないと思う。)瞬間を読者の前に存在させてしまう力、そこが小説の面白さだとも思う。

この作品を一言で語るなら「個人の生のある瞬間の連なりが、大きな時間の流れをつくっているということ」という具合になるだろうか。ブッダラーフラ、ティッサ・メッテイヤという三世代や、鉄の歴史、虫の卵で生を繋ぐという発想、ヤショダラが大切にしている「生活」ということ、これら大きな流れで連続した時間(物語)を駆動させていくのだけど、しかしこうした大局の中にあっても、どうしても捨て去ることのできない個別的、具体的なものが個々の実感として確かに存在しているという手触りもまた、時間(物語)である。「個人の生のある瞬間の連なりが、大きな時間の流れをつくっているということ」は、時に「大きな時間の流れの中に、個人の生のある瞬間がかわすことができないほど強固に存在すること」というように反転する。焦点をどこにあてるかによって、この小説の見え方は変わって行く。「焦点とそのまわりの背景を反転」させてしまう。

「個人の生のある瞬間」と先ほどから書いているわけだが、それは具体的にどういうものかというと、たとえば「風景」なのだ。それは自然であったり、人間が作りだしたもの(特にブッダの居城の描写が私は好きだ)だったり、自分の子供が風景のように見えてしまうことだったり、子供に対してもステレオタイプ的な赤ん坊像を明確に否定し、あくまでブッダは(あるいはラーフラには)こう見えたんだ、ということを書いていく。この個別性、具体性がとても重要なのだと思う。ちなみにラーフラ(束縛の名をもつブッダの息子)にはこういう個々の出来事を忘却することができない、という設定が付される。

 

未来へ進めば進むほど、その分だけ大きくなった過去へと退行し、ずるずると底なしに引き込まれて行く、彼の人生は反する二方向への股裂きのような感があった。

(前掲書、50頁より引用)

 

忘れられないということは、それだけ過去が圧し掛かってくるということでそういうものに「束縛」されながら生きていくということなのだ。

 

登場人物が一瞬見たらしい風景の描写、その微細なひとつひとつの言葉に捕まってしまうかのように、この小説は読者によってゆっくりと読まれていくものだと思う。言葉のひとつひとつに「束縛」されながら、それでも時間は進んでいく。具体が時間を押し進める、この本を読んだ時に不思議な時間感覚を味わったのだけれど、それは言葉や風景に捕まったままでそれでも何処かへ進んでいくという、その不思議さだったのかもしれない。

 

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キャプション以前の―磯﨑憲一郎『世紀の発見』

読書日記 日本文学

この小説は私にとって、どういうわけだかひどく思い出深いものなのだ。本当に大好きな本であるにも関わらず長い間所有することはなく、そうであるにも関わらず何故か何度も読み返しており、どこで読み返したのかと考えていると実にいろいろな町の図書館の閲覧室で読んでいたことに思い至る。そうして開くたびに、「意味付けなどいっさい拒否するただそれが起こったままにしか語れない不思議な出来事」に遭遇してきた。確かに、こういう感覚ってあるよな、などと思いつつ。
今回は2012年に出た河出文庫版をようやく買って手に取っている。単行本は2009年6月に河出書房新社より刊行されていた。「世紀の発見」(初出「文藝」2008年冬季号)と「絵画」(「群像」2009年5月号)という二つの作品がおさめられている。

 

磯﨑憲一郎『世紀の発見』(河出文庫、2012年)

 

世紀の発見 (河出文庫)

世紀の発見 (河出文庫)

 

 


今回ブログでは私が礒﨑作品で特に好きな「世紀の発見」について書いていきたい。

 

 

子供の頃、誰もが「世紀の発見」と言っても過言ではないような事柄に遭遇しているはずで、それは夏の夕方土手で普段見慣れている在来線とは違う、どこか風景から浮いた異質さを感じる黒くて巨大な機関車を見たことだったり、池でマグロのような大きさのコイをみたことだったりする。近所のよく知っている森(それも冬)にラフレシアが隠されていると信じることや、ふと立ち止まった場所に名状しがたい光景を見てしまったり、一緒にいたはずの友人Aが消えてしまったり。そういうこと――大人になってしまえば「不思議だったなぁ」という一言でくくれてしまうような出来事――が当たり前のように毎日おきていた。大人になってから思えば「奇妙な連続」と言いたくなるような毎日が子供時代だったのかもしれない。そういう時間の流れにおいて説明なんて一切が無意味なのだった。
「お母さん、今日こんなことがあったんだ」と報告したいと思うと同時に、しかしこの発見は誰にも言ってはならないものなのだという気もするし、そういえばこんなことがあったな、と大人になってから出来事に意味付けをして想起する自分もいる。しかし、その大人になった自分よりももっと先に、母だけが何もかもすべてを、「奇妙な連続」としか思えない子供時代の出来事すべてを知っていたのではないか? いや、もっと言えばすべて母が仕組んでいたのではないか? 主人公は自分の母親についてこんなことを思っている。

 

「強いていうならば、ずっと先の時間からいま現在を見下ろしているような、有無をいわせぬ、妙に抗しがたい力なのだ。」(前掲書、31頁ー32頁より引用)

 

報告したいことはすべて、すでに母が知っていることではないのか? あの子供の自分がした大発見も何もかも、母はすべてもっと先の時間から見下ろすようにすべて知っていたのではないだろうか?
そうなると唯一あるものが「母の報告」だけではないかと思い至った主人公は最後に仕立屋をしていた母が毎日レジの隅で書き留めていたメモを確認しようとするのだが、タクシーはどういうわけか仕立屋に辿り着くことができない。結局途中で車をおろされた場所が、かつて友人が消えたあたりで今は「古墳公園」として整備されている場所だった。そして、その古墳の説明の看板(キャプション)でこの小説は閉じられている。キャプションが説明、ということならば、この作品は説明として書かれる以前の、なんの意味付けもない出来事の連続を描いている。本来、出来事の連続には何の意味もない、しかしそこに何らかの意味与えたくなるのが人間のひとつのありようかもしれない。

私が今回この小説を読んで感じたことを率直に書いてみるとこうなる。ブログに書いてみることで一体だれに報告しているのだろうか、あるいは報告したいのだろうか。これが小説である以上、書いた人間(作者)がいるわけで、仮に作者に報告したとしても作者ははじめからみんな知っているのかもしれない……なんて考えていたら読んだり書いたりする行為というのはつくづく不思議なものだなと思えてきた(とかいうことを実ははじめから考えてこの文章を始めたわけではなかったから不思議だ)。あと何回、この作品を読むのかわからない、あと何回、この作品について語るのかわからない。だけれども、たぶんまたいろんな風景の中で過去にも未来にも、この本を開いている自分が見えるような気がする。この作品にはそういう魅力があると思う。

最後にひとつだけ引用。

 

「つまり俺は、誰のものでもある、不特定多数の人生を生きているということだな」しかしそれは自嘲などと呼ぶには程遠い、じつは奇妙な達成感だった。そう感じることによって、彼は長い回り道をしたあとでようやく人生の軌道に戻ってきたような安堵感に浸っていた。
(前掲書、91頁より引用)

 

パースペクティヴ――磯﨑憲一郎『往古来今』

読書日記 日本文学

今回ご紹介する本はこちら。

磯﨑憲一郎『往古来今』(文春文庫、2015年)

 

往古来今 (文春文庫 い 94-1)

往古来今 (文春文庫 い 94-1)

 

 

この本をはじめて目にした時、なにかが違うような違和感を抱いた。往古来今? 古今往来ではなく? この違和感は単に自分の語彙力の無さに起因するらしいことが文庫の解説を読んでわかった。参考までに書いておくと、往古来今という言葉は前漢に編纂された思想書『淮南子』斉俗訓「往古来今、之を宙と謂い、四方上下、之を宇と謂う」とあるそうだ(金井美恵子さんによる文庫の解説によると「新明解四字熟語辞典」(三省堂)に載っているとのこと)。往古来今、時間と空間の限りない広がりを表すこの言葉ほど、この短篇集を的確に表現したタイトルはないのではないだろうか金井美恵子は解説でこの小説を「物語の広がりを連想させつつ、小説を読むという甘美で贅沢な幸福(と言ってもいいかもしれない)の時間を読者に与えてくれる、小説と呼ぶにふさわしい小説である。」(前掲書、199頁より引用)と称している。

金井さんの解説“『往古来今』を読む”より少し引用しておきたい。

 

 小説を読むということは(あるいは書くということは)、私たちの持っている様々な記憶の中の、言葉で書かれた本や、映画や、町や公園や川や山といった空間で出来た世界の、無数の輝いてざらついていて、しかも平板な断片が、今読んでいる小説と、何枚もの布地(テクスチュアー)としてところどころで縫いあわされ、混じりあいつながっていることを(それは、裏返しだったり、重なり具合がずれて、幾重ものヒダになっていたりもする)確認することだ。(前掲書、199頁より引用)

 

私たちの記憶が、世界と自己の接する時に軋みながらたてる音や響き(世界と君との闘いでは世界を支援せよ、とカフカは書く)、光や風、声や色、形、匂い、味、手ざわり、皮膚に伝わるなまなましい感触といったものとの邂逅によって、ほとんど不意に立ちあらわれるものである以上、記憶も、そしてなにより小説も、いつだって水のようにあふれる(川や流水や海の波、地下水)他者の侵食に接している。

(前掲書、200頁より引用)

 

これ以上の言葉で、私は礒﨑憲一郎『往古来今』の魅力を伝えることができないように思う。この小説は実際に自分で文字を追っていかないことにはなにも立ち現われない。よくある特定の作品に対して(多くはカフカなのだけれど)あらすじや、ストーリー、解釈を求めてこのブログを訪れる人がいるのだけど、それは小説を読むたのしみのほんの表層でしかないと思う。読むことでしか見ることのできない世界というものは確かに存在するのだな、と『往古来今』を読んで改めて思ったのだった。

 

じっさいにはこの連絡を書いている最中はただ、段差や転調を作者の意図として書かずにいかに前に進めるか、どこまで小説に忠実でいられるか、だけを考えていたように思う。

(前掲書、著者あとがき196頁より引用)

 

そうは言ってもこれからこの本を手に取ろうか迷っている人のためにざっくり概要を書いて紹介しておきたいと思う。

この本には5つの短篇小説が掲載されている。

「過去の話」「アメリカ」「見張りの男」「脱走」「恩寵」それに著者のあとがきと解説だ。

5つの作品はそれぞれが繋がりあっているような、繋がり合っていないような絶妙な距離感を保ちつつ、それでも一応作品としては個々に独立している。新しい短篇を読み始めたはずなのに、何故か前の作品で見たような風景に再会し、さらにそれが往き過ぎてしまうことになんの焦りも感じない。ストーリーを追う、ということではなくて単に車窓から後方に往き過ぎる風景をながめているような旅のそんな感覚に似た作品である。行き過ぎてゆくものすべてを旅行者は写真におさめることはできないし、おさめたいとも思わない。車窓の風景は車窓の風景として、漠然と記憶に残ったり残らなかったりする。

 

ここからは私が特に気に入った作品である「見張りの男」についての素描になると思う。

「私」が生まれ育った町の風景、大きな川があり、けっして交わることのない二本の線路があり、「私」の祖父が架けたらしい赤く塗られた鉄骨のトラス橋がある。この赤い橋を渡ると道は山に向かい、その山頂近くに百足胎児で有名な俵藤太の末裔が城を築いたという話がある。城が築かれてから百年が過ぎ、源平合戦の頃、城主は四代目の時代を迎えている。その領主が見おろしたのと同じ山頂、同じ角度から「私」は城下町を見下ろしている。

 

夜、山頂から見下ろすと、平地には青白く照らされた粗末な小さい家々と水田があった、黒い水面には満月がその細長く歪んだ姿を晒していたが、空のどこを探しても月そのものを見つけることはできなかった。その先には河原を寝床にしている源氏の軍営が見えた、暗闇の中ときおりうっすらと浮かび上がる人や馬、牛車の影は米粒よりも小さいというのに、点々と灯された篝火だけは見つめているとこちらに迫ってきて、まるで目の前で燃えさかる炎のように近くにあった。領主が見下ろしたのと同じ山頂、同じ角度から、私は城下町を見下ろしている、源氏軍が待機していた川原には鉄橋が二本平行に走っている、その先には私の祖父が架けた赤い橋がある。

(前掲書「見張りの男」101頁より引用)

 

私はこの部分が特に大好きだ。はるか昔の風景、火、それが大きく迫ってくる炎のようにみえるという距離の変化、そして気がつけば現在の風景が連続して描かれている。ここを読んだ時に「見張り」というタイトルの言葉にニヤリとしたし、時空間の広がりに感激した。

この後、実はこの領主の顛末は『吾妻鏡』に書かれていることが語られる。この町には領主に関する伝説が二つあり、そのうちのひとつが長い間信じられてきたために領主をまつる神社がある。神社の裏手の雑木林、そこで板切れと段ボールを使って秘密基地をつくった子供時代の思い出、そこにいた友人のうちただ一人はっきり思い出せる「彼」の逸話。彼は元相撲取りで今は郵便配達人である。ある日ふと、誰かにじっと見つめられているような気がしてこう思う。「俺は俺自身を見張っている……まったく馬鹿げていると自らを嗤いながらも、口にしてみたその言葉には妙に腑に落ちるところがあった」(前掲書、119頁)

「彼」の逸話から急に「私」の視点に戻ってくる。「私」も「彼」のように生きた可能性だってあったのではないか、と。しかしそんな無責任な発言をして咎められるのは誰なのか?

「理解者は往々にして遠くにいる。」(126頁)

最後は「百年前のプラハに生きた一人の人物」(別の作品の叙述から勝手にカフカが連想させられる)について描かれ「彼ほど徹底して自らを見張り続けた人生を生きた人間は現れていない、彼こそが唯一の生存者であり勝利者だったが、彼と共に暮らした人びとの中でそのことに気づいた者は誰もいなかった。」(127頁)と小説は閉じられる。

 

遠くにいる「理解者」とは誰なのだろう。それは時代を超えたところの存在する他者かもしれないし(『吾妻鏡』を読みその伝説を享受する我々や、カフカの作品を享受する我々)、昔の出来事を回想する自分自身かもしれない。あるいは他者の人生についてあれやこれやと想像し、それがある選択によっては自分自身の人生であったかもしれないなどと考える自分の思考かもしれない。

遠くから自分を見張る自分というのは記憶の領域では可能である。この「遠く」という言葉を使って表現される記憶の遠近感もこの小説の魅力であると私は思う。

あこがれのまなざし、そのゆくえ―津島佑子『狩りの時代』

読書日記 日本文学

「差別ってよくない」「差別をやめよう」

なんていう言葉はもう何十年も(いや、もしかしたら自分の人生を超えているから実感が沸かないだけで実はもう何百年も)言われているのかもしれない。

しかし、何が差別で何が差別ではないのか? あまり考えられることもなく、私達は「常識」という既成の世界観の中でつい安穏としてしまう。誰もが差別を乗り越えなくてはならないと感じ続けている、けれどこの「差別」というのはやっかいな感情で、自覚していないことのほうが多いのかもしれない。「人種差別」「性差別」と言葉が与えられ、カテゴライズされているものは自覚しやすい。というか、私達はそういう差別の解消を叫びながら、別の差別できっと誰かを傷つけている。

まだ言葉を、たった一言で簡潔に言い切れるわかりやすい言葉を与えられていない感情や感覚を、津島佑子『狩りの時代』は小説という表現で私達読者にそっと残していってくれたのかもしれないヘイトスピーチの加速と、誰もがインターネットを介して簡単に発言できてしまう環境にどのくらいの関係性があるのか(それともないのか)私にはわからないままだ。

 

今回紹介する本は、津島佑子『狩りの時代』(文藝春秋、2016年)。

 

狩りの時代

狩りの時代

 

 

この小説は著者の死後パソコンからデータとして見つかったものだそうで、津島佑子最後の単行本になった作品だ。生前担当編集者に「ほとんど完成」しているとメールで書き送っていたものらしいのだが、書きかけの作品をこの世に残して旅立たなければならなかった著者の心境を想像すると、他人のくせについ、苦しくなる。

単行本の巻末に著者のご長女である津島香以さんの<「狩りの時代」の発見の経緯>、という文章が掲載されているのだが、それによると著者は2015年の暮れにこの小説について話していたらしい。

「差別の話になったわ」

と。

 

あのことばだけは消え去らない。その痛みだけは忘れられなかった。

ダウン症だった兄との思い出。ヒトラー・ユーゲントの来日。老核物理学者の見果てぬ夢……。この国の未来を照射する物語。

(帯文より引用)

 

読み始める前、「ダウン症」という言葉と「ヒトラー」という人物名がほんの少し結びついたくらいで、これらの事柄が作品内でどのように結びつくのか全く想像できなかった。

あらすじを簡単に書いておくと以下のようになる。

物語の大半は絵美子という人物に焦点が合わせられている。彼女がまだ子供だった頃のエピソードから大学、そして社会人になってゆく時間の流れが語られていく一方で、彼女をとりまく身内のエピソードが絡み合ってひとつの作品を折り上げていく。視点や時空間が自由奔放に揺れ動き、バラバラに見えていた個々のエピソードが絵美子とその母カズミを中心に据えた一族の歴史になっている。時間の扱い方も一定方向があるわけではなく、進んだり戻ったりするが、だいたい太平洋戦争開始直前~現代までが描かれている。

親戚の多い家らしくたくさんの登場人物が描かれるが、その誰もが「差別」に近接する経験を持っている。たとえば、絵美子の兄、耕一郎(こうちゃん)はダウン症だった。十五歳で他界してしまう兄との思い出を懐かしむ絵美子は、兄がいない母や自分を想像することさえできないと思っている。兄の存命中に「障害者差別」という言葉に触れることがなかった絵美子の思い出は美しい。しかしその一方で耕一郎についてこそこそ話す人間もいる。耕一郎と絵美子の母カズミは、子供たちには絶対に聞かせたくない言葉に晒されて生きてきたという側面もある。また、絵美子は母方のいとこから言われた「フテキカクシャ」という言葉についてずっと問いたださなければならないと感じながら生きていた。

物語はさらに複雑で、カズミの弟や妹が子供だった頃、日独伊同盟の使節団として日本にやってきたヒトラー・ユーゲントの少年たちを目撃したというエピソードが語られる。少年少女たちのこの経験、「美しい」アーリア人の少年たちを目撃した、そしてその「美しい」少年たちと自分たちの圧倒的な差を目の当たりにした少年少女の痛み(自分たちがどうしても劣っているように感じてしまう)と、ドイツへのあこがれというアンビバレントな感情がページを捲るたびに深く、読者の心に突き刺さってくる。同時に、じろじろと不躾な、好奇の眼差しを向けられ続けるヒトラー・ユーゲントの少年たちのことを考える描写ある。誰が悪い、というわけではない。ただ眼差しを向けるというだけで暴力になり得るというあやうさがそこにはある。

外国へのあこがれ。

世代が変わればあこがれる国も変わる。そのことが物語としてさりげなく提示されているように思えた。はじめはドイツ、その後物質的に圧倒的に裕福だったアメリカ、そのアメリカで生まれ育った世代があこがれるのはフランスのパリだ。

「あこがれ」という感情は物事の一面しかとらえてはいない。「差別」もそうかもしれない。どちらもある人物や集団、物事の一側面だけを取り出して誇張したところに生まれる感情かもしれない(単に「あこがれ」が直接「差別」に結びつくとか、そういうことを書きたいのではない。ただこのふたつの感情の対象への眼差しが似ているように思えてならないのは私だけだろうか。)早くに亡くなったカズミの夫の兄である永一郎は核物理学者であり、アメリカで成功している。しかし、若い頃には単なる「あこがれ」の的であった無限増殖する核エネルギーというものについて、実は人間とは共存できないのではないかと考えはじめる。

ヒトラー・ユーゲントをめぐる記憶、耳元で囁かれた「フテキカクシャ」という言葉をめぐる葛藤、そして様々な対象への「あこがれ」。これらが物語として提示されることで、私たちが自覚できないでいる「差別」の感情の存在を丁寧に浮かび上がらせていくように思える。

 

最後にひとつだけ引用して終わりにしたい。

 

ダウンジャケットに毛糸の帽子をかぶった子どもたちは、まだ朝の時間だということもあり、ピンクの頬がかがやくようで、いかにもかわいらしい。寛子は思わず、キスをしたくなる。美しいものがきらいだというひとはいるのだろうか。美しいものには、ひとはすぐにだまされる。寛子は自分の子どもたちを見て、ため息をもらす。美しくて、かわいらしい子どもがいれば、天使のようだ、とひとはいう。天使は醜い顔をしていてはいけないのだ。けれど、なにが醜くて、なにが美しいというのだろうか。ひとによって感じるものはちがうんじゃなかったの、と言いたくなる。それとも美とは人間の生命にとって、なによりも普遍的な価値なのだろうか。

(前掲書、23頁-24頁より引用)

 

 

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