言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

描写のこと。―トルストイ「復活」

前回は二項対立ということを主軸にトルストイ「復活」について語った。おかげで気に入っている風景描写について語る余裕がなくなってしまったので、今回は後者を中心に記事を書くことにする。

前回と同じく、引用頁番号は藤沼貴 訳の『復活』(上下巻、岩波文庫 2014年)に依る。

 

復活(上) (岩波文庫)

復活(上) (岩波文庫)

 

 

なんと言っても冒頭部分が素晴らしい。

 

「人間が一つの小さな場所に何十万も寄り集まって自分たちがひしめき合っているその土地を、どんなに傷つけ損なおうと努めても、その地面に何ひとつ生えないようにどんなに石を敷きつめても、芽をふこうとしているありとあらゆる小さな草もきれいに摘み取り、どんなに石炭や石油の煙でいぶしても、どんなに木々の枝を切りちぢめ、動物や小鳥たちを残らず追い払おうとしても――春は都会の中でさえも春だった。」

(上巻 第1章11頁より引用)

 

前回語っていた二項対立「人工⇔自然」がはっきりと書かれているだけでなく、この「春」という麗らかな雰囲気が青春の淡い感情のようで、ネフリュードフとカチューシャの純粋な恋さえ匂わせている。また、「春」は冬で死んだように見えていた草木が再び芽を吹く季節、つまり「復活」の季節でもある。どんなに人間が都市を作って社会を文明化し、機械化しても、「春は春」なのだ。この小説はこのあと、どんどん暗い人間社会の理不尽なことや罪や、堕落といった暗いテーマを扱っていくわけだが、冒頭のこの描写にいくらか救われるように思える。「復活」を描くためにどうしても避けては通れない暗いテーマを冬とするならば、季節はめぐって必ず春はやってくる。

 

「百歩ほどへだてた家の正面にある崖の下にある川から、奇妙な音がしていた――それは氷の割れる音だった。」

(上巻 17章 129頁より引用)

 

この作品には上下巻を通して何度か「川」が出てくる。出てくる度に「川」は印象的な存在で、作者にとって何か特別の思いでもあるのか? と思いたくなるほどだ。上に引用したものは、カチューシャに対して肉欲的な愛を募らせたネフリュードフが、ある夜女中部屋にこっそり行く時の風景描写である。登場人物の周りに広がる風景と感情が結びついて立ち現われて世界観にはリアリティを感じる(これが19世紀的リアリズムというのだろうか……?←文学は専門外なのでよくわかりませんが……)

 

先の引用部分はこんな風に展開する。

 

「ネフリュードフは玄関の段々をおり、水たまりをまたぎながら、凍った雪を踏んで、女中部屋の窓の下に回った。心臓が胸の中で激しく打ち、その音が自分に聞こえるほどだった。呼吸は止まったかと思うと、重い吐息となってほとばしった。」(129頁)

 

「彼は立ちつくして彼女を見つめていた。そして、自分の胸の鼓動も、川から伝わってくる奇妙な音もひとりでにいっしょに聞いていた。その川の上の霧の中では、何かたゆみないゆっくりとした営みが進んでいた。そして、ときには何ものかが荒々しく息づいたり、はじけたり、くずれ落ちたり、薄い氷がガラスのように音を立てたりしていた。」

(129頁-130頁)

 

「外はさっきより明るくなっていた。崖下の川では、氷のはじける音、鳴る響き、荒い息づかいがいっそう強まっていた。そして、さっきまでの音に、さらさらと水の流れる音が加わっていた。霧は下のほうに淀みはじめ、そのとばりのかげから、欠けた月が何か黒いおそろしいものを陰気に照らしながら浮かび出た。」(134頁)

 

ものすごい緊張感のある文体だ。「薄氷踏むが如し」なんていう言葉があるけれど、まさにそんなギリギリの緊張感。ネフリュードフは軍隊生活によって自身の中に飼い太らせた「動物的自己」がもたらす人間的な堕落へと突き進んでいく。そして、数年後に裁判所で被告となったカチューシャに遭遇し、その時になって、この川と欠けた月の不気味な風景を思い出すことになる。

 

もう一か所、後半に出てくる「川」の描写を引用したい。

 

「ネフリュードフは広い、流れの速い川を見ながら、筏の端に立っていた。彼の脳裏には、かわるがわる二つの映像が浮かんできた――それは恨みをこめて死んでいくクルイリツォフの、車にガタガタ揺られて震えている顔と、シモンソンと並んで未知の端を元気に歩いているカチューシャの姿だった。一方の、死にかけていながら、死ぬ心構えのできていないクルイリツォフの印象は重苦しく、わびしかった。もう一つの、シモンソンのような男の愛を得て、今やしっかりした確かな善の道を歩き出した元気なカチューシャの印象は楽しいはずだったが、ネフリュードフには、それもやはり重苦しく、彼はその重苦しさに打ち勝つことができなかった。」(下巻第三編21章406-407頁)

 

懲役囚としてシベリアへ向かう途中の風景だ。筏で川を渡るのである。クルイリツォフ、シモンソンというのは、これまでカチューシャらと旅を共にしてきた政治犯たちである。(その流刑の旅にネフリュードフも随行しているのである。)

「川」は幾重にも物事を分かつもの、として描かれているように思う。

川の「こちら側」と「あちら側」(対岸)、ネフリュードフの脳裏で対比される二人の人物の対照的な姿。元気な姿のカチューシャは前向きで楽しそうに見えるが、しかしネフリュードフ自身とシモンソン(カチューシャを愛している男)という対比によって重苦しいものになってしまう。

 

しかも、川の流れは速い。もう後戻りはできないかのように、状況は過ぎ去っていく。ふたりの過去の感情は取り戻せないし、故郷に帰ることも(おそらく)ない。「川」という存在が、この作品の二項対立的なもの同士の間を流れているようにも見え、印象的なのかもしれない。この川は多くのものを分かつのと同時に、緊張感のある張りつめた雰囲気を一本に繋ぐ存在でもあるのだ。

 

前回の記事↓

 

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