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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

誰かの空虚を埋める言葉―仙田学「愛と愛と愛」

読書日記

仙田学が変態はじめしたの。TLのばたばたしてるときに、いつもはあたしが買わない文芸誌でうろうろしてるから、いいぞもっとやれって検索かけたら……。

(@MihiroMer twitterより抜粋)

 

今回は仙田学「愛と愛と愛」(160枚、文藝2016年秋号掲載)について書いていこうと思う。超絶技巧で有名な著者、仙田学が超絶技巧よりもメッセージ性を重視? 仙田学第二期が開幕? などなど色々と話題になっていたが、確かに今までの作品とはなんか違う。それで思いついた言葉が「変態」でノリと勢いだけで著者のデビュー作「中国の拷問」の印象的な冒頭をもじって遊んだものがこのブログの冒頭だ(「いつもはあたしが買わない文芸誌」とかはフィクションです、文藝さん結構お世話になってます笑)。

 

作者様のブログ↓↓

ameblo.jp

 

さて、簡単なあらすじや構成について、今回も「主観たっぷり」(笑)に書いておこう。まともな文章は批評家の先生方がなんとかしてくれるはずだ。

 

「愛と愛と愛」は、アルコール依存症の洋治がかつて講師をしていた塾の教え子である華と再会し、関わり合う中でそれぞれに抱える凄惨な過去を少しずつ「棚卸し」していく過程を描いた作品だ。読み始めたばかりだと、正体不明の「おれ」や「私」の語りがしばらく続き、一体どういう風につながってくるのかまったくわからなかった。ある日洋治の前に現れた華は「追われている」らしいが、一体何から追われているのか?どういう状況なのか読者にはピンとこない。

ところが読み進めていくと、どうやら冒頭の「おれ」は華の兄であり、その後に続く長い独白はアルコール依存症患者たちが治療の一環として行っている自助グループ内での「語り」(一方的な発話)であることがわかる。洋治のアルコール依存生活の描写や、虐待の被害者という過去持っていたり、「犯罪加害者の妹」というレッテルを社会的に貼られてしまっている華。二人はゴーゴリーの戯曲『結婚』の結末(花婿が結婚式当日に窓から逃げる)について、ことあるごとに話し合う。しかし「言葉」は万能ではないから、二人が完全にわかりあっているなどという幻想はない。わからないなりに、伝わらないなりに「棚卸し」していく小説なのだ。だから読者には少しずつ、小説の構造とともに、登場人物たちの過去や心境がみえてくるという仕組みになっている。そして果てしなく暗い小説でありながら、最後にはきちんと救済が用意されている。アルコール依存症患者の自助グループ内ではずっと「過去」が語られていた。それが物語の後半に登場する「しつけ教室」(育児支援の一環)では「未来」が語られるようになる。「過去」に対しても「未来」に対しても、とても丁寧に言葉にしてある作品だ。

 

「しつけって何だと思います?」

講師の問いかけに、受講生たちは順繰りに答え始める。口を挟む者は誰もいない。自助グループでの言いっ放し聴きっ放しのルールを洋治は思いだした。だがここでは過去を話す者はいなかった。まだ形も大きさも重さもない未来を、皆で寄ってたかって言葉にすることで、それぞれがどうにかこうにか実感しようともがいていた。

(仙田学「愛と愛と愛」文藝秋号掲載、141頁)

 

 

この作品には「二重の感覚」が多くみられるように思う。

 

ふたつの世界で生きている、と杏璃は何度も口にした。そのどちらも現実なのだと。おれと一緒にいるときも。一緒にいるときは、ではなく一緒にいるときも、という言い草に、どれほど長い間悩まされただろう。

(前掲書、100頁より引用、作品冒頭)

 

ただ時に至れば道は分かれ、一般的なアルコール依存症患者からはかけ離れた結末に行き着くはずだという確信だけがあった。そこから振り返れば、洋治の過去のすべては、意味のあるものに書き換えられるだろう。自助グループで毎日のように過去の生活を言葉にしながら、いまが未来の一部であるという点において、洋治はずっと二重生活をし続けているようなものだった。

(前掲書、109頁より引用)

 

これだけではない、学習塾の講師としての建前と本音、華の兄が手にしたナイフと指輪、そもそも作品の主題として「罪と罰」が挙げられ、これに深く切り込んでいった作品の構造自体が「ふたつのもの」を軸に描かれている。しかし、何もかもが簡単に「ふたつのもの」として分割することができない。そこに「空虚」が立ち現われる。

 

学習塾で少しでも偏差値の高い学校に導くための進路指導をしているときなど、叫び出したくなることが間々あった。いつの間にかおれは、親からされてきたのと同じようなことを生徒たちにしている。中身のない空箱を売って生きているのだ。いくら詰めたくても詰めるべきものなど持ちあわせてはいない。太陽のように直視することのできないそのような考えが浮かぶたびに、ウィスキーの瓶に手を伸ばさずにはいられなくなる。

(前掲書、117頁より引用)

 

次に引用する部分からは、過去や未来といった一般的な時間感覚の外側に投げ出されてしまう「空虚」を感じてしまった。とても怖い。

 

タクシーの窓から外を眺めたときに脳裏をよぎったのは、大学時代に部屋のなかで鼻血をだして倒れて救急車で運ばれた先の、精神病院の病室の窓から見えた冬の空だった。いったいあと何回、この時間がループしていくんだろう。目をつぶり、両手で顔を覆った。」

(前掲書、119頁)

 

単なる「二重」では割り切れない隙間があって、その隙間に割り込んでくるのがアルコールによって麻痺した時間感覚であったり、歪んだ罪と罰の観念であるように思える。

赦されたい。赦されるためにはたとえ何もしていなくても罪や罰がなくてはならないという認識の歪み。これによって起こった殺人という悲劇(赦されるために「罪」を犯す)、そして華には「犯罪加害者の妹」であるというだけで社会的に課される根拠のない「罰」。その歪んでしまった「罪と罰」の観念を解きほぐしていくのにも洋治と華は丁寧に「言葉」を重ねていく。

 

「誰が何のために華に罰を与えるんだろう」

「そもそも私何もしてなかったんだとしたら、あれは罰じゃなかったってことになりますね。でも悪いことしてないなら、赦されることもないはずですよね。タイムパラドックスみたいに」

(前掲書、136頁)

 

「言葉」というものは、人と人の間において障害にもなるし、架け橋にもなり得る。

人と人の間にあるかもしれない「空虚」を埋めることさえできるかもしれないし、人が隠そうと決めた心の弱い部分を暴力的にえぐり出し、攪乱してしまうかもしれない。それ故にこの小説は大きな「痛み」を抱えた作品だ。小説家が作品を仕上げるために引き受けなければならなかった「痛み」に比べれば、ただの一読者である私が感じた「痛み」はごく表層的なものに過ぎないだろう。もしかしたら、作者の意図は半分も伝わっていないかもしれない。だけれど半分くらいは伝わっているかもしれない。

少なくとも、この作品を読みながら私は終始「痛み」を感じ続けていた。そしてそれを引き受けて言葉にすることを己に誓った。ようやくまとまった感想が書けたような気がするので、ここで一旦筆を置きたい。

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2016/7/30 追記

仙田学さんがブログで拙ブログを取り上げてくださいました!ありがとうございます!!↓

ameblo.jp

「愛と愛と愛」という作品は、東京新聞の書評欄や週刊新潮でも取り上げられています(仙田学さんのブログ記事より)。仙田学さんの今後の活躍に期待!

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参考記事↓↓

ameblo.jp

bibibi-sasa-1205.hatenablog.com