Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

肖像を描くために―ル・クレジオ『アフリカのひと――父の肖像』

今回紹介する本はル・クレジオ 著、菅野昭正 訳『アフリカのひと――父の肖像』(集英社、2006年)

 

アフリカのひと―父の肖像

アフリカのひと―父の肖像

 

 

どんな人間存在にもすべてひとりの父親とひとりの母親による結果である。彼らを認めない、彼らを愛さないということはあっても、彼らを疑うわけにはいかない。とにかく彼らはいるし、彼らの顔、態度、物腰、癖、幻想、希望があり、彼らの手の形と足の指の形、眼の色と髪の色、ものの言いかた、考え、おそらくは死のときの年齢があり、それらすべてが私たちのなかに受けつがれているのである。

ル・クレジオ『アフリカのひと――父の肖像』11頁より引用)

 

自分が今ここに存在しているということ、それはまぎれもなく父と母が存在している(いた)ということだし、さらに父や母がそれぞれに存在するためにはその前の世代の父や母が延々と、史実としての正確さはおいておくとして、存在していたということになる。血筋というものについて考えていて気が遠くなるのは、この漠然とした、描きようのない顔や態度を備えた無数のひとが数珠つなぎになっているような気がするからだ。

 

このブログでたびたび話題にしているフランス在住の作家ル・クレジオは1940年4月13日に生まれ。8歳の頃(1948年)、母シモーヌと一歳半ほど年上の兄イヴ・マリーとともに南フランスのニースから英国籍の医師である父ラウル・ル・クレジオの任地ナイジェリアへ赴き、一年余り滞在したそうだ。この時の経験をもとにJ.M.G.ル・クレジオは『オニチャ』という作品を書いたのは以前ブログで紹介した通り。幼少の頃のアフリカ経験が後のル・クレジオ作品に様々な影響を与えている。

mihiromer.hatenablog.com

 

それはそれでとても重要なことであるが、この本が書かれた理由はそのアフリカ経験を書き残すためともうひとつ、父ラウルについてル・クレジオは知りたいと思ったのではないだろうか? と考えてしまう。

ル・クレジオにとって父はどこか取っ付きにくく、はじめて会った時(ナイジェリアに渡った時)はまるで知らない男を見たような感覚に陥るほど親しみのない人物であったらしい。その阻隔感がどうして生まれたのか、どのように持続したのか、作者の筆は回想と思索を書き出していく。

 

父は別のことを選んだのだった。たぶん誇りからだろうし、イギリス社会の凡庸さから逃れるためだろうし、また冒険の意欲からだろう。そしてこの別のことは無償ではなかった。それはひとを別の世界に投げこむことであり、別の人生のほうへ運んでいくことだった。それで戦時には世界から遠ざけられることになったし、妻や子供たちと会えなくなったし、ある意味では不可避的に異邦人にされたのである。

(前掲書、60頁より引用)

 

ル・クレジオ父子はこういう言い方が適当かどうかは置いておくとして「一般的な」関係にはなかった(はじめのほうに書いた通りふたりの間には阻隔感というものがあったらしい)。ル・クレジオは8歳頃まで父のいない世界(ヨーロッパ)を生きていたのだ。父はイギリスで医師の資格を取り、軍医(と言っても戦地とは無縁)という立場で植民地社会での医療に携わり続けた。

 

自分自身で作成した一枚の地図に、父はキロメートルではなく、歩行の時間と日数とで距離を記した。その地図に示されている詳細はこの国の大きさと、父がこの国を愛する理由とを説明している。浅瀬を歩いて渡れる地点、深い川あるいは荒れやすい川、登らなければならない斜面、道路のジグザグの箇所、馬では行けない谷底への下降、越えられない断崖。

(前掲書、93頁より引用)

 

20世紀、ヨーロッパ各国は植民地を持つことが当たり前だった。そんな歴史の中を生きた父がアフリカの地で経験した様々なことを、まるで追体験するようにル・クレジオは書く。そうして書き進め、父の肖像が浮かび上がるのと同時に少しずつ知っていったのではないだろうか。父の感じたアフリカの風土と、それを踏みにじっていく植民地権力、そしてその権力の側に自分自身が属しているということを父が知ってしまった時の深い苦悩。さらに「戦争」という断層のために自分の子供たちがほとんど「未知」の存在になってしまったという孤独。

本書には、20世紀という歴史的時間の中に自らの父を位置づけ、その中でひとりの人間として変わらざるを得なかった父の姿(アフリカのひとにならざるを得なかった父の姿)が書き記されている。そして書きながら作者は父の人生を理解していったのだと思う。まるで肖像画を描くように、その起伏、その凹凸を。