Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

フィクションという菌糸が結ぶ人菌関係―『FUNGI 菌類小説選集 第Ⅰコロニー』

ある日、ニコニコして家に帰ってきた彼女が鞄からおもむろに取り出したものがそれだった。一体どこで採って来たのやら、妙な構造をしたキノコらしきものが描かれた本だ。彼女はそれをテーブルに置くと「そこらへんの本屋に普通に生えていたの」と言った。それから数日、天気が悪く曇天と雨でじっとりした日々が続いたがその間体調のすぐれなかった彼女は布団にもぐってばかりいた。彼女の体で盛り上がって丸くなった羽毛布団がちいさくふるえている。私はテーブルの上から例の本が無くなっていることに気がついた。

……。

 

と、なんだか無駄に小説風に始めてみたくなるような変わった本に巡り会ってしまった。小説風に書いたけれど、上に書いたことはほぼ実話で、この本は家族が突然買ってきたものだった。「そこらへんの本屋に普通に生えていた」のではなく単に売られていたのだろうけれど。とにかく、はじめてこの本を見た時、なんて奇妙な本なのだろうと思った。ビニールのカバーがかけられたこのハンドブック的な手軽さは……昔キノコ初心者だった時に自分が使っていた山歩き(キノコ狩り)の実際的入門書に似ている笑。しかしこの謎の本を野外でキノコを前に開いてみても……面白いだけだ。目の前に生えているキノコがなんなのか、わかるはずもない。

 

オリン・グレイ、シルヴィア・モレーノ=ガルシア編、野村芳夫 訳、飯沢耕太郎 解説

『FUNGI 菌類小説選集 第Ⅰコロニー』(Pヴァイン、2017年)

FUNGI-菌類小説選集 第Iコロニー(ele-king books)

FUNGI-菌類小説選集 第Iコロニー(ele-king books)

 

 

【ようこそ、真菌の地へ。】

なんだかよくわからないが、歓迎されたようである。

「かつて誰も編纂しなかったから」という理由で編者が世に出してしまった菌類小説選集。11作のキノコを題材にした短篇(掌篇)がおさめられており、読者はホラーからダーク・ファンタジーまであらゆる種類の物語を味わうことができる。「つまり、本書はキノコ潜水艦、菌類の侵略、精神を変容させるキノコ、エイリアンの菌類――そしてもちろん、キノコの怪物を含むアンソロジーとなった。」(序文より引用)

本書をめくると、新英和大辞典第六版(研究社)から引いた【Fungi】という言葉の意味が掲載されている。それによるとこの言葉は「菌類、菌類界」のことであり、狭義では粘菌・カビ類・酵母菌類・キノコ類など真菌類のことを言うらしい。

なんだかこれから到来する梅雨シーズンにじっとり楽しみたい本だ。

以下、本書におさめられた11作品の中から、私が特に気に入った5作品について感想を書いておきたいと思う。

 

■ジョン・ラガン「菌糸」

 

傷んだ建物、錠前にはもう合わなくなってしまっているかもしれない鍵、轍のひどい道を通ってジェイムズはかつて一家で暮らしていた家に父を訪ねた。今、この家には父がひとりで暮らしている……はずだ。実はもう長いことこの家を訪ねていなかったらしい。

わけもなく開錠できてしまった玄関のドアを押し開けると、たちこめていた悪臭がどっと溢れ出す。そのにおいは「匂いの強いチーズが日なたに放置されたあげくの、腐った牛乳成分とカビの刺激臭」(12頁)と表現されている。

荒れ果てた家のどこにも父はいない。ジェイムズは刺激臭を堪えながら家の中を探索すると、かつて父の隠れ家だった地下室からさらに深く、トンネルが掘られているのを見つける……。どうやらこのトンネルは父が掘ったものらしく、地下へ地下へと目指していく様は菌糸が深く深く入り込んで寄生していく様に似ている。廃屋の地下できのこ化していく父親の描写、定番のホラーであるが、細部の描き方が凝っていて一読後ちらっとふりかえってみると、あちらこちら、ディテールからじわじわと恐怖が滲む。

 

■ラヴィ・ティドハー「白い手」

 

あるワードと、それに対する説明の記述の断片から成る不思議な小説。百科事典の一部を眺めるようにして読んでいくと、「海洋帝国オンド―」の歴史が垣間見える。菌紀元945年の人類-菌類協定以前には未開の地であったアンズタケ島にはクリトキュベ・リヴローサ(バカジョウゴ)と呼ばれるキノコが繁茂していた。このキノコは菌紀元1015-1230年の人域拡張期には発見されており、最初の茸筏(たけいかだ)が作られて進水したのは菌紀元の1354年らしい。1351年の初頭にアンズタケ島のお気にあるパドストゥールという小島へゴバラク・イグマクは旅立った。彼が浮き茸を多数結び合わせることにより海の乗り物がたやすく作れることを発見したことがきっかけとなり、数年のうちに島国オンド―は世界初の茸筏の歓待を建造、400年少し続いた人菌協定が終結することになる。

帝国以前のオンド―には、不義の子あり、暗殺あり……とさながらドロドロの歴史ドラマ満載。菌紀元1600年までに最盛期に達した海洋帝国オンド―も、しかしやがて終わりを迎える。タマゴテングダケの登場によって没落するのだ(このことは第二オンド―帝国期における人類の二流歴史家であるグルジヴァによって書かれているらしい)。結局のところ、タマゴテングダケ文明もまた別の勢力によって滅ぼされるし、滅ぼした勢力さえも菌紀元2113年クラト島の海没と同時に消滅する。すべて、去りゆく歴史……。

 

白い手を見なよ

浜辺からきみに手を振る。

 

さよなら、さよならとね

もう、二度と会えないんだから。

(33頁より引用、歴史家のグルジヴァが録音したアンズタケ島の童唄)

 

■カミール・アレクサ「甘きトリュフの娘」

 

深海に沈み、航行不能になった潜水艇の中で男は愛しい彼女の銀板写真(ダゲレオタイプ)を見つめていた。この探検航海自体、彼女の為に企てたものだった、彼女と結婚するために。

 

父親の屋敷の芝生でテニスをするときに動き回る彼女の白い手足、生まれたばかりのホイペットの仔犬と一緒に納屋ではしゃぎまわる彼女の白い、白い帽子(かさ)に付着した藁くずが、日射しにきらめくさまを思い出すのが好きだ。

(38頁より引用)

 

男を取り巻く状況は絶望的だった。飢えと浸水の危機、潜水艇に最も詳しいはずの博士はすでに亡くなってしまった……。

という、深刻なストーリであるにも関わらず何故か笑えるのは登場するのがすべてキノコだからである(紹介する時に敢えて隠したが、冒頭いきなり全部キノコであることがわかる)。「その青白く完璧な肢体から天使の広げた翼のような鐘形にふくらんだ白いドレスを着た彼女、美しいアマニタ・ヴィローサ」(41頁)、男が見つめる銀板写真に写る愛しい彼女はテングタケ。ちなみに男はアミガサタケ。潜水艇に最も詳しいクリミニ博士、計画の出資者はなんとシイタケ氏であった。さらに驚くべきことに彼らの潜水艇はオニフスベという大きめのキノコだ。その構造の描写がとても楽しい、おそらく表紙絵の構造物はこの潜水艇だろう。キノコを船にするという発想は先に紹介した「白い手」にも共通しているが、こちらの船は潜水すらできるように改造されているのだ……笑。

 

■クリストファー・ライス「パルテンの巡礼者」

 

小説の語り手「ぼく」ことオースティンと、その彼女メーシー。「ぼく」はチェロキー・ブラフ分譲住宅会社が倒産の憂き目をみてから定職に就いていなかった。メーシーはグラフィック・デザインの仕事に就きたいとあちらこちらに履歴書を送るという就職活動の真っただ中。ある日ほんの気晴らしのつもりで「ぼく」はメーシーに「パルテン」をすすめた。これは小説世界で話題になっている幻覚誘発性のキノコで使用者は都市の夢をみるという。なんとこの危険なキノコはチェロキー・ブラフの住宅街の廃墟に生えているのだ。不法に侵入した廃墟の壁から「パルテン」を剥ぐ描写はなんだか中毒に陥りそうなほど。「パルテン」を食べた「ぼく」とメーシー。はっと気がつくと「ぼく」は干上がった海のほとりの砂地に横たわっていた。

 

砂丘のあいだをうねるようにずっとアーチが続いていて、真珠光沢を放つドーム都市へとつながっていた。この死んだように静かな土地にあって、それは壮麗にして痛ましい光景だった。まるで巡礼者のように人々はそちらを目差して歩いている。彼らはみな裸であったが、その姿は無垢で美しいものだった。

(79頁より引用)

 

ふたりは「パルテン」の見せる幻覚世界にはまりこんでいく。引用した風景ははじめは単に「パルテン」のみせる幻覚にしか過ぎなかったはずなのだが、やがてこの風景の方がリアリティを帯びて現実世界に滲みこんでくる。ふたりが「パルテン」の虜になっている時にはもうこの幻覚性のキノコは社会問題になっている。現実の世界で「パルテン」についてのウェブサイトが「雨後のタケノコのように出現」してくる。人々の暮らしの中にこうしてパルテンという都市やパルテン人が入り込んでくる。ウェブサイトの記述という形を持って侵入してくる。「ぼく」とメーシーは何度も「パルテン」へ赴く。「ぼく」はメーシーの助け(彼女の観察力と素晴らしいスケッチ)とウェブサイトの記述をもとに少しずつパルテンを理解していく。

パルテンの危険性がいくら報道されても、「ぼく」とメーシー、そしてその他大勢の中毒者には届かない。むしろ、「どれほど彼らが力説しても、パルテンは想像の存在ではなかった。そして、もはや巡礼者は夢見続けるのをやめた。ぼくたちは目覚めつつあった。ぼくたちはかつての開拓者(パイオニア)と同じ気がした。」(85頁)

パルテン人の正体、そして人類の側にどれほど彼らが入り込んでいたのか、ぞっとする閉塞が物語の最後に待っている。

 

■ジェーン・ヘルテンシュタイン「野生のキノコ」

 

野生のキノコを採る文化、採らない文化。そんなことをふと考えてしまう小説。それはきっとこの小説に登場する語り手の両親がキノコを採るチェコスロバキアからアメリカにやってきた移民だということによるのだと思う。アメリカにやって来ても父と母はキノコを採り、そしてその営みに付き合わされている子供。親の人生経験を把握しきれずに家族の間に生じてしまった溝が描かれる。キノコに対する姿勢の違い、そういう文化や習慣の違いによって分かたれてしまう世界観の存在が少し悲しい。言葉の壁よりも習慣の壁だろうか。わかり合うこともあれば、どうしてもわからないままになってしまう事柄もある。ただ和解することだけが唯一素晴らしいことなのではなく、そういう違いを抱えて営んでいく生活もあるのだ、とこの作品を読んでしみじみ思った。

 

うちの父は頭のなかをほのめかすように、こめかみを叩いた。「茸採りには茸採りの秘密があるのさ」彼は謎めいた笑みを浮かべて言った。

(165頁より引用)

 

木の間から射しこむ灰色がかった陽光のなかに立った父の足もとに、オニフスベが、異星の球体人のように佇む光景は、いまだ瞼に残っている。彼が人の手のおよばない、なにか大きなものと相対していたとは気づかなかった。

(167頁より引用)

 

本書の最後に置かれたこの作品には菌糸のホラーやキノコの怪物は出てこない。ただ静かに、しかし一点の奇跡のように父の遺骨の傍らにアミガサタケが生えているのは印象的だった。

 

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この本を読んでからキノコについてずいぶんと考えさせられた。

キノコの魅力、それは色や形、匂い、味だけでなく、それのもつ毒性や幻覚作用、ある日突然どこからやってきたのかわからないままにぷっくりプランターの隅に生えていたりする不思議。寄生的側面からはホラーまで構想できてしまうキノコ。人類はこうして数多のフィクションにキノコを用いてきた、そしてキノコの方でもこうして人類の文明にしっかりとその菌糸を伸ばしているのだ。

さて、私の彼女。羽毛布団の下で丸くなってふるえていた(たぶん笑っていたのだ、この本を読みながら)彼女はその後、人の姿をして元気に起きだしてきたのだと断言しておいたほうがいいだろうか、それともこれは創作かもしれない日常として、キノコ人間にでも書き換えてしまったほうがいいだろうか。