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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

言葉を使ってるから―仙田学「愛と愛と愛」感想その2

「言葉」というものは、人と人の間において障害にもなるし、架け橋にもなり得る。

人と人の間にあるかもしれない「空虚」を埋めることさえできるかもしれないし、人が隠そうと決めた心の弱い部分を暴力的にえぐり出し、攪乱してしまうかもしれない。

 

mihiromer.hatenablog.com

 

 

これは前回このブログで仙田学の「愛と愛と愛」を取り上げた際に私が書いた言葉である。前回記事ではあまり触れることができなかった「言葉」というものについて私がこの作品を読んで考えたことを今回はまとめてみたい。私自身が小説を書いている人間だからこそ、どうしても「言葉」に対して敏感にならざるを得ないところがあって、この小説を読みながら終始考え続けていたことがあるのだ。

 

「言葉を使ってるから、そうなっちゃうのかもしれないですね」

(仙田学「愛と愛と愛」文藝2016年秋号掲載、120頁)

 

何度もこの作品を読んでいくうちに、私の思いはどうやら登場人物である華のこの台詞に収斂していきそうである。消防設備士の勉強をしている洋治は、テキストによって書いてあることが違い、矛盾をきたしていることに引っ掛かりを感じていた。その矛盾自体は小さなもので、気にならない人なら絶対気がつきもしないような事柄である。というか、実際に何かをする際にほとんど問題にならない程度の記述の矛盾。だけれど、洋治はその矛盾が気になっている。

小説に書かれた会話の流れから考えて、上に引用した華の台詞はそういった矛盾の原因について彼女なりに考えた結論と読める。そう、「言葉を使ってるから」記述の矛盾が起きてしまう。それを書いた人間に悪意があったり、狙いがあったりするわけではない。ただ、言葉にしてしまったがために見えるようになってしまった引っ掛かり

私が小説を書いたり、こうやってブログの記事を書いたりしていると、そういうことがしょっちゅうある。文字にして書いてみて、はじめて気がつくことというのは想像しているよりもはるかに多い。私の場合文字にしながら考えている、と言っても過言ではない。小説的思考ってそういうものじゃないの? とかえって開き直っているくらいである。

だけれど、文字や言葉にするというのは怖いことでもある。

それは今まで漠然と信頼していた相手と自分の間に初めて大きな隔たりを発見してしまうきっかけにもなり得る。だから人に言葉を向ける時、人は用心深くなる。用心深さが度を越すと沈黙してしまう。何も言わなければ、傷つくこともないし傷つけられることもない。その代り、そういう姿勢は相手との共通認識を得る喜びをはじめから放棄してしまっていることにもなる。「言葉を使ってるから」面倒なことになる、だけれど言葉を使わなかったら(言葉にしなければ)誰かとわかり合う可能性すらないし、そのことによって埋まらない空虚はいつまでも残る。

 

華以外の誰かと関わる必要が、洋治にはいまのところなかった。もとより友人や知人の類も少なく、酒か仕事以外に時間の過ごしかたを知らなかった洋治に華を教えてくれたのは贅沢さだった。

(前掲書、125頁より引用)

 

コミュニケーションにおいて、最も「贅沢」な瞬間とは何だろうと考えると、それは自分の表現を受け入れてくれる存在との出会い、という気がする。前回記事でこの小説について私は「(洋治と華が)関わり合う中でそれぞれに抱える凄惨な過去を少しずつ「棚卸し」していく過程を描いた作品」だと書いた。作品の最初のほうで連なる自助グループでの語り(一方的発話)は、自分の奥深くにあるものを「言葉に変換する」過程だ。誰もが相手の持ち時間(語りの時間)の最中に黙って聞いていることに徹するというルールのもと、疑似的にコミュニケーションにおける「贅沢」を味わっているように見える。さらに「棚卸し」という言葉がぴったりくるくらいに洋治と華はお互いの過去を少しずつ「言葉に変換」して整理していく。言葉にしてしまうことで傷つくこともあるが、それよりもまだ見ぬ未来の可能性を築いていくこと、小説の力点は徐々にこちらへシフトしていくように思えた。それがこの物語の救済へと結びついている。タイトルが「愛と愛と愛」。どうしてこんなに「愛」を重ねるのか未だにピンときていないのだが、実は言葉にしてしまうから意味が限定されてしまっているだけでこの「愛」は反復ではないかもしれない。色々な時間や空間、ありとあらゆる局面が重ねられて重ねられて、何度も重層的に塗り込められていくことで、現実の光景や人の感情が形成されていくのではないだろうか。だから「愛」と「愛」と「愛」は全部違った「愛」なのかもしれない。

 

「中身のない空箱を売って生きているのだ。いくら詰めたくても、詰めるべきものなど持ちあわせてはいない。」

(前掲書、117頁)

 

私は自分の人生に一種の空虚さを感じている。私なんていなくても実際誰も困りはしないだろうし、それなら私って何なんだろう、という気がしている。格別社会の役に立っているわけでもなし、親の願望を叶えたわけでもなし、人を喜ばせることもできないし、ついでに自分が喜ぶようなことも日常生活ではほぼ起きない。

それでも自分の人生を擦切らせて生活しているのは、やっぱり目を背け続けてきたものに向き合うために言葉を探し続けたいと思うからだ。それから、そんな言葉をいつか誰かが受け取ってくれるかもしれないという希望を持っているからだ。そういう贅沢を味わってみたい、という願望が今の私の日常生活にひっそりと埋まっている表現への欲求なのかもしれない。私という空箱の存在が、詰めたくても、詰めるべきものが思い浮かばない現実の中でどうにか言葉を使って隙間を埋めようとしている。

 

 

文芸 2016年 08 月号 [雑誌]

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