言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

死者のおしゃべり小説―フアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』

道は上りになったり下りになったりしていた。「行くか来るかで、上りになったり下りになったりするんだよ。行く人には上り坂、来る人には下り坂」

「下の方に見えるあの町はなんていうんだい?」

「コマラだよ、旦那」

(前掲書、8頁より引用)

             

ラテンアメリカ文学にハマるとだいたいは通ることになる作家、といってもいいほど有名な作家フアン・ルルフォ。『ペドロ・パラモ』は1955年に発表された彼の二冊目の著書で、この後に小説を発表することはなかった(一冊目の著書は『燃える平原』という著書で十七の短篇が収められたもの)。短い小説であるが、どうやらガルシア=マルケスなど、後のラテンアメリカ作家たちに多大な影響を与えたらしい。

ブログの冒頭で引用した会話は作品の始まりにある「おれ」と「ロバ追い」の会話である。以下、ネタバレ全開なので見たくない人は回れ右ッ!

 

フアン・ルルフォ杉山晃・増田義郎 訳『ペドロ・パラモ』(岩波文庫、1992)

 

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

ペドロ・パラモ (岩波文庫)

 

 

 

 

 

「おれ」はペドロ・パラモという名の父に会うためにコマラにやって来た。道の途中で出会ったロバ追いにコマラについて尋ねている場面だ。コマラに到着した「おれ」を迎えてくれる人々、始めは「おれ」の母親の昔の知り合いで、単に昔を懐かしんでいるだけだと思っていた。が、なんとすでにみんな死んでいた。せっかく会いに来たのにペドロ・パラモもすでに故人、それどころか、なんと「おれ」も墓の下でしゃべっているだけだった!!

 

「もう恐がらなくていいよ。もう誰もおまえさんを恐がらせることはできないさ。楽しいことを考えるようにした方がいいんだよ。うんと長いあいだ土の中にいなくなちゃならんのだからね」

(前掲書、104頁より引用)

 

途中で冒頭に語り手の名前が「フアン・プレシアド」であることが判明するのだが、それ以前にも語り手は何度も入れ替わる。誰が語っているのか、一読目には判然としない。現在と過去の時間軸もごちゃまぜだし、生者と死者も混ざり合うし、一体なんの話を読んでいたのか、時々立ち止まってしまう。何せこの小説は70の断片からできていて、それぞれに題名もないし、長さもバラバラ。断片同士の時間軸が連続している場合もあれば、そうでない場合もあるという前衛手法……。だけれど不思議なことに、二読目にはすっきり内容がわかってしまう。一読目で得た「印象」が二読目の風景を立ち上げる。

 

断片で構成されているのと、フアン・ルルフォの朴訥な語りの効果か、この小説はすごく「おしゃべり」な小説に見える。おしゃべりが多い。とにかくみんなしゃべっている。死者も生者もよくしゃべる。テンポのいい会話文の連続から、ぱっとみた限り1時間以内に読めてしまいそうな印象すら受ける(実際はもうちょっとかかった)。

 

「この町はいろんなこだまでいっぱいだよ。壁の穴や、石の下にそんな音がこもってるのかと思っちまうよ。歩いてると、誰かにつけられてるような感じがするし、きしり音や笑い声が聞こえたりするんだ。それは古くてくたびれたような笑い声さ。声も長いあいだに擦り切れてきたって感じでね。そういうのが聞えるんだよ。いつか聞こえなくなる日がくるといいけどね」

 町を横切りながら、ダミアナ・シスネロスはおれに語るのだった。

(前掲書70頁より引用)

 

残念ながら聞こえなくなる日は来ないだろう。なぜならこの小説自体が円環する構造を持っているから。小説最後の断片のあとに、最初の断片が続くという形式なのだ。

ここで冒頭の「上り坂」と「下り坂」の話を思い出す。冒頭で「おれ」をコマラに導くロバ追いの名前は「アブンディオ・マルティネス」。彼もペドロ・パラモの子供の一人で、小説の終わりにペドロ・パラモを刺し殺してしまう。その彼がコマラの町の外に引きずられていく描写があって地面に「足先が刻んだ二本の筋だけが残った」と表現されて終わる。この時彼は「上り坂」を引きずられていると考えるのは深読みだろうか。そして「おれ」とコマラの外側の地帯で出会い、「おれ」は下り坂を通ってコマラへやって来る。

ペドロ・パラモが死んだ時点で小説の語りは終わりを迎える。同時にコマラという町は荒地になって誰一人住んでいないゴーストタウンと化す。

 

これより後の時間も小説には設定されているが、それは死者の時間だ。死者たちが墓の下で思い出をしゃべっている。明確な時間軸の外側でしゃべる死者によって、「ロバ追い」が「おれ」(フアン・プレシアド)をコマラに導くことになっているのだ。正確には「おれ」がまずコマラで最初に出会った人物にエドゥビヘス・ディアナにコマラにやってくるまでの経緯を語り、その後エドゥビヘスが死者であることがわかってからはダミアナ・シスネロスにそれまでの経緯を語り、最終的には「おれ」自身が実は死者で、墓の下で共に埋められているドロテアに語っている思い出話なのだ。「ペドロ・パラモの死」という出来事を冒頭のロバ追いは知っている(なにせ殺したのは自分である)。だが小説冒頭で失ったはずのロバと共に歩いているなど、ところどころ時間が巻き戻っている、と感じる部分がある。「ペドロ・パラモ」という決定的な存在の死が動かし難く作中にあって、それ以外の事柄は「おしゃべり」の都合でいくらでも変わってしまう可能性があるように見える。冒頭で「ロバ追い」が最も新しい時間を生きているように見えるが、その時間間隔も「おしゃべりの中」あるいは小説中盤で崩されているのだ(「おれ」ことフアン・プレシアドがすでに死者であるから)。

 

追記として訳者解説に書いてあったことで参考になりそうな事をメモ程度に書いておく。

コマラという町が荒地になってしまうのは「ペドロ・パラモ」という名前によって宿命づけられている。ペドロは「石」、パラモは「荒地」を意味するそうだ。ペドロ・パラモの死を描いた部分を引用しておこう。

 

乾いた音を立てて地面にぶつかると、石ころの山のように崩れていった。

(前掲書、207頁より引用)

 

 

描写に関してメモしておくと、コマラの町には陰湿なイメージが付きまとっている。それはあちこちに書かれた「雨」の描写のせいだろう。「コマラの谷は、相変わらず水に浸っていた。」(153頁)それに加えて「そこらじゅうから滲み出てくるような、あの黄色い酸っぱい臭いしかねえだろう。それというのも、ここが不幸な町だからさ。不幸で塗りたくられた町だからだよ。」(140頁)というコマラの印象が重ね合されているからだろう。