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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

「ロビンソン・クルーソーのさらなる冒険」-第2部感想

実は9月30日はロビンソン・クルーソーの誕生日であり、第一部において彼が無人島に漂着した日でもある。なるほど、だから今月はやたらとロビンソン・クルーソーなる人間に憑りつかれているのか……。というか、ロビンソン的に考えれば今月この作品に惹かれたことは「神の摂理」ともいうべきものだったのかもしれない。

そんなこんなでしばらくの間続けていた「ロビンソン・クルーソー」をめぐるブログの更新は、今回を持って終了させていただきます(苦笑)

今日は、岩波文庫版『ロビンソン・クルーソー』(下巻)の感想をざっくり書きますね。岩波文庫版のこの下巻は「ロビンソン・クルーソー」の第二部、「さらなる冒険」です。

 

ロビンソン・クルーソー〈下〉 (岩波文庫 赤 208-2)

ロビンソン・クルーソー〈下〉 (岩波文庫 赤 208-2)

 

 

一言でこの本の感想を述べると、

「説教くさい」

ですかね(苦笑)

そもそも原著者(デフォー)による序文がこんな具合↓

 

「この作品の省略版を作ることは、真価を冒涜するものであるとともに、不埒でもあり滑稽でもあろう。もしこの書を短くしようとする者があれば、価値を減ずるばかりでなく、宗教的および倫理的な思索を本書から一掃してしまうことになりかねない。これらの思索こそ、実は、本書の最大の美点であるばかりでなく、読者を無限に啓発する意図をもって述べられているものなのである。」

平井正穂訳『ロビンソン・クルーソー』下巻 6頁より引用)

 

この本って……まさかの自己啓発本だったのか!?

 

よく自分にいいきかせていた言葉に、「怠ける奴は人間の屑だ」という言葉があった。

(前掲23頁より引用)

 

これもなかなか強烈だ。さすが「労働がそのまま一種の聖典礼」となる清教徒である。

(参考:トーニー『宗教と資本主義の興隆』 訳者解説より)

 

下巻に収められている物語は、上巻のいわゆる私たちが普通に知っている「ロビンソン・クルーソー」の続きである。第一部の最後のほうで無人島を脱出して無事に英国にたどり着いたロビンソンはその後しばらくは平穏無事に暮らしていた。しかし、第一部でも航海に出る動機として繰り返し書かれる「放浪癖」によって、再び10年にわたる旅をすることになるのである。その約10年の旅の記録が第二部である。

ちなみにこの旅に出発した時、ロビンソン・クルーソーの年齢は60代である。まだまだ頑張っちゃうのである。

 

前半の旅で最も印象的に描かれているのは「飢餓」への恐怖だろう。

ロビンソンが海上で遭遇した遭難船を救援する場面があるのだが、その船の船員は迫る飢えのため、船客である未亡人とその息子、使用人に食物を与えることができなくなっていたのであった。このあたりの飢餓の描写と考察がすさまじい。この考察の深さから作者の人間観察眼の鋭さがうかがえる。

 

「ほんの僅かでも命の糧をこの哀れな、孤立無援の未亡人に分けてやっていたら、命だけはとりとめたにちがいなかった。たとえ、ただ細々と生き存えることだけでも、できたはずである。しかし、飢餓が迫ったときには、もう味方もなければ血縁もなく、正義もなければ権利もなくなるのだ。飢餓は、したがって残酷であり、憐愍の情とは無縁のものとなるのである。」

(前掲58頁より引用)

 

船というある意味孤島のような空間で旅をする。その危険、恐怖。

 

そんな飢餓のエピソードを交えつつ旅は進み、ロビンソン・クルーソーの一行は、かつてロビンソンが28年と少しの歳月を過ごした島へたどり着く。
そしてロビンソン・クルーソーが島を脱出してから後の(つまりロビンソンがいない)島の様子が描かれる。
ここがおかしい。小説の語りはあくまでロビンソン・クルーソー(主人公)の一人称語りなのに……。この部分が小説作品としての統一感を台無しにしている。

 

「ところで、私は第一人称で物語ることによってこの話を煩瑣なものにするのをやめようと思う。」
(前掲69頁より引用)

 

ロビンソン・クルーソー」という作品がもっていた迫真性が作者自身によって瓦解した瞬間を目撃してしまったような気分になった(苦笑)

それでもただただひたすら読み進めていくと宗教に関して面白い記述を発見した。
カトリックの司祭がプロテスタントのロビンソンに語る言葉である。

 

「私もあなた方とともに祈ることはできないかもしれないが、あなた方のために祈ることはできると思っている。」
(前掲198頁より引用)

 

日本にいるとなかなかわからない、キリスト教カトリックプロテスタントの溝のようなものが垣間見える。「ともに」は祈れないらしい。
しかしこの司祭の誠実さと論理の強さによって、ロビンソンは愛の精神によって自分たちすべてが正しい教義に向かうことができるだろう、と心に思ったりしている。

もうちょい先まで読み進めると衝撃の展開が……。
第一部であれほど愛されていた登場人物があっさり死亡する。

 

「蛮人たちはおよそ三百本の矢を放ったのだが、他に目標になる人間がいなかったので、可哀そうにフライデイに向けられ、そのために彼は死んでしまったのだ。私の悲嘆は言語に絶するものがあった。」
(前掲292頁より引用)
「かくして、かつていかなる主人といえどももったことのないほど、主人の恩を知り忠実で正直で愛情深いこの従僕の生涯は終わったのだ。」
(前掲297頁より引用)

 

後半は、アフリカ・インド・中国を経てアジア大陸を横断する大冒険が語られる。
海賊の嫌疑をかけられて戦々恐々とするロビンソンのことを思うと、当時の航海事情について考えてしまう。
この時代は「世界史的に地球が丸くなった時代」だと私は考えている。つまり航海による交易が拡大していった時代、たくさんの商船が海へ出て行った時代、ということは当然積荷を狙う不埒なやからがたくさんいた時代……
つまり「海賊時代」である。
国益を守るべくヨーロッパ諸国が海賊(私掠船)に対して厳しい措置をとるのは当然であり、海賊とみなされればあっという間に絞首刑になってしまうのである。
ロビンソンの恐れから無実であっても罪に定められて処刑されうる、という恐ろしさがにじむ。

アジアがメイン舞台になると、日本人がでてくる(同時代の「ガリバー旅行記」にも日本はでてくる)。
当時のヨーロッパ人のアジア人へ向けた蔑視のまなざしが強烈だ。
シナからロシアへ、そしてイギリスへという陸路の旅が「ロビンソン・クルーソー」最後の旅である。


イギリスを出てから10年と5か月の旅。
無事にイギリスにもどったロビンソン・クルーソーの心境で物語は幕を閉じる。

 

「現在ここにこうやって生活しながら、私はもうこれ以上あくせく動きまわるのはやめようと思っている。そして今まで経験したあらゆる旅よりももっと長途の旅に出る準備をしている。私は七十二年という、さまざまな波乱にみちた生涯をおくってきた。そして、隠遁するということの価値も、平和裡に生涯を閉じるということの有難味も充分知ることができたつもりである。」
(前掲523頁-524頁より引用)

 

旅とともに、旅のようなひとつの人生が終わることを予感させる、
静かな、哀愁に満ちた結びである。