言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

ナボコフが語る『アンナ・カレーニナ』―悪夢という主題のこと、時間操作のこと。

今回の更新でトルストイアンナ・カレーニナ』に関する一連の記事は終わりにしたい。大長編を読むと、ブログの記事も長くなってしまう……。いいのか、悪いのか。

予告通り、今回は『アンナ・カレーニナ』自体というよりは、ナボコフが語った『アンナ・カレーニナ』ということになる。

使用した本はこれです。

 

V.ナボコフ 著、小笠原豊樹 訳『ナボコフロシア文学講義 下』(河出文庫、2013年)

以下、引用頁番号など、特に断りのない限りこの本を用いている。

 

トルストイはロシア最大の散文小説作家である。先駆者のプーシキンレールモントフは別格として、私たちはロシア散文の巨匠たちに次のような順位をつけることができる。一番、トルストイ、二番、ゴーゴリ―、三番、チェーホフ、四番、ツルゲーネフ。これではまるで学生の席次のようだが、もちろん、ドフトエフスキーやサルトゥイコフ(シチェドリーンの本名)は自分たちの評価の低さに文句をつけようと、教員室の入口で私を待ち伏せしているだろう。」

(前掲書、11頁より引用)

 

この本の冒頭はこんな風に書きはじめられ、なんと約200頁にもわたり、トルストイを取り上げている(そのうち180頁程度が「アンナ・カレーニナ」に割かれている)。参考までに書いておくと下巻の残りで取り上げられているのはチェーホフゴーリキーである。

上に引用した順位はあくまでナボコフの感覚によるものだから気にする必要はないが(ドフトエフスキーが好きでも別にいいじゃないか)、一番としたトルストイについて論じている部分は注目してもよさそうである。一般的な読書感覚から考えると、かなり細かく分析的に読まれている「アンナ・カレーニナ」であるが、だからこそ「文学講義」なのかもしれない(私なんかは「アンナ・カレーニナ」をもっと大らかに読んでしまったから)。

さきほどから私は「アンナ・カレーニナ」と日本で一般的な呼称でこの作品名を記しているが、ナボコフはあくまで「アンナ・カレーニン」という表記にこだわっている(この本ではすべて「アンナ・カレーニン」という表記になっている。ロシア語では子音で終わる姓は女性を示す場合、語尾にaを加えるという法則があるらしい。私が読んだ岩波文庫版ではアンナの夫はしっかり「カレーニン」になっていたので翻訳しわけられていた。アンナのことは「カレーニン夫人」と表記されている。アンナ、という女性の名前がついた時だけ「カレーニン」が「カレーニナ」と変化する、という認識らしい。)

 

さて、細かい概要はこのくらいにしてナボコフが「アンナ・カレーニン」に対して加えた分析の一部を紹介しよう。このブログでは「悪夢という主題」と「トルストイの時間操作」についてのみ触れる(他にも比喩について面白い指摘があるが割愛する、興味があればこの本を手にとっていただきたい)。

 

 

■「悪夢という主題」について

 

アンナ・カレーニナ」を読んでいて印象に残る悪夢がある。それはアンナとウロンスキーが共にみる悪夢だ。この悪夢が二人を繋いでおり、悲劇的な結末を予感させる。それに対して、キティとレーヴィンが机にチョークで文字を書いて意思疎通するような楽しい繋がりは正反対の明るさがある(というようなことをナボコフは書いている)。

悪夢について、岩波文庫版から少し引用しておこう。

 

あたしその夢の中で自分の寝室へ駆けこんでいきましたの。すると寝室の、隅のほうに、なにかが立っているんです。すると、そのなにかが、くるりと振り返ったのです。見るとそれは、ひげをぼうぼうに生やした、小柄な、恐ろしいお百姓なの。あたしは逃げ出そうとしたんですが、その人は袋の上にかがみこんで、両手でなにかをさぐっているんです……。そのひとはね、手さぐりをしながら、ひどく早口にフランス語をしゃべるのよ、それも、こう、rの音をひきつるようにして≪鉄を鍛えて、砕いて、打ち直さなけりゃ……≫

中村融 訳『アンナ・カレーニナ岩波文庫中巻、第四編236頁-237頁より引用)

 

繰り返し登場するこの悪夢の主題について、ナボコフは三つの位相を追跡する(『ナボコフロシア文学講義』80頁~)。

第一の位相「アンナとヴロンスキーの意識的な生活のなかに見出される、さまざまな断片や成分によって、この悪夢がかたちづくられていることを調べよう。」

第二の位相として、夢の詳細を書く。

第三の位相として、悪夢とアンナの自殺とのつながりを書く。

 

夢というのは不思議なもので、日常生活で見たもの、聞いたものが感覚的に編集されているような雰囲気がある。日常の断片の変奏が夢だとしたら、アンナとウロンスキーはこの小説のはじまりのほうで、汽車に轢かれて死ぬ人物を目撃していることに注目すべきだし、その他にも夢に出てくる「ひげぼうぼうに生やした百姓」や「鉄」を形作る要素がアンナやウロンスキーをとり巻く日常のいたるところに描かれていることに注目することができる。また「鉄という観念」「叩かれ砕かれる何かという観念」がアンナに関係してくるということも見えてくる、そんな分析が展開される。

 

「夢のなかで恐ろしい小男は鉄の上にかがみこんで何かしているが、それはアンナの罪深い生活がアンナ自身にしたこと――叩いて、打ちのめすこと――であり、彼女の情熱の背景には、彼女の愛の翼のなかには、そもそもの初めから死の観念がひそんでいたのだということを、アンナは遂に悟り、夢と同じ方向に歩き出して、汽車(鉄で出来たもの)によって肉体をほろぼすのである。」(80頁-81頁より引用)

 

 

 

■「トルストイの時間操作」について

 

 

 

私達が『アンナ・カレーニナ』という長篇小説を読んだ時に、この作品には様々な生活(夫婦生活、恋愛生活など)が過不足なく書かれている、という印象を受ける。登場する人物たちがそれぞれに普通の生活を営んでおり親近感を覚え、ロシア人ならついさっきオブロンスキーに会って一緒に食事をしてきたような気がするかもしれない。

それについてナボコフは「私の知る限りでは、トルストイは自分の時計を読者たちの無数の時計に合せた唯一の作家なのだ。」(17頁)と表現している。

 

全くトルストイ一人に特有のこの時間的平衡感覚は、穏健な読者に平均的現実という感じを与え、読者はそれをトルストイの鋭い視力に由来するものと考えがちである。トルストイの散文は私たちの脈拍に合わせて歩み、その作中人物は、私たちがトルストイの本を読んでいるとき、窓の下を通りすぎる人たちと同じ歩調で歩きまわる。

(17頁-18頁より引用)

 

しかしこの平均的に見える作品の時間は分析的に見ると大きなズレを引き起こしている。数多くの朝、昼、晩を経る複数の人物たちの時間は同時に展開しているように見えるが、分析的にみていくと必ずしも一致していない。というか、時々大きくズレてしまう。「アンナの肉体的時間」と「リョーヴィンの精神的時間」の間に隠しきれない差異が出てきてしまう。ナボコフの分析によるとこの小説は1872年(旧暦)二月十一日金曜日の午前八時に始まる(作品のどこにも書いてはいないが、ナボコフがあちらこちらの記述から分析して割り出した)。始めは全員一列に並んで物語が始まるが、気がつくと、時間的に先行してしまう人々がいる。

 

「ヴロンスキー-カレーニン―アンナの三人組は、まだ単独のリョーヴィンや、まだ単独のキティよりも、生活の速度が早いのである。これはこの小説の構造上、非常に魅力的なところである――相手を持つ存在は相手を持たぬ存在よりも素早いのだ。」

(116頁より引用)

 

煩雑になってしまうのでこれ以上ここには書けないが、この本では、ナボコフの分析的な読み方でしか辿り着けない「アンナ・カレーニン」という作品が浮き彫りになっている。必ずしもすべてが面白い「読み」「分析」であるとは思わないが、小説を書く側の人間としてはある程度自覚的であるべきことも含まれているように思った。