言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

寸断されたコミュニケーション―松波太郎「ホモサピエンスの瞬間」

吃音というものが実際どういうものであるのか、厳密な定義はよくわからないが、私にはどもっていた時期がある。どういうわけだか「どもる」のは常に職場だけであり、そこでの日常生活に著しく支障をきたしていたが、休日に仕事とは全く別の場所、別の人と話をして、吃音の症状が出ることはなかった。当時職場において、自分が説明したことが全く違った風に受け取られてしまうことが続き、発話に自信がなくなったために起きたのではないか? と勝手に解釈している(繰り返すがそんな理由で吃音になってしまうのか、まったくもって謎だ)。どうして伝わらないのだろう、と悩んだあげく様々なハウツー本を読み漁り、「伝える」メソッドを学び直したが、結局判明したことは悪いのは私ではなく、話の受け取り手であった(誰が何を説明しても全く違った内容に受け止めてしまう若手社員がいたらしい)。それが判明してから、私の「職場限定どもり」はすっかり改善し、今でも何が起きていたのかよくわからないままになっている。

 

さて、本の紹介をするのに何故長々とこんな話を書いたのか。それは今回紹介する小説作品がまさに「コミュニケーション不全」を描いたもののように思えたからである。

松波太郎ホモサピエンスの瞬間」(文學界2015年10月号掲載)は第154回芥川賞候補作になっていたこともあり、すでに単行本になっている。

 

ホモサピエンスの瞬間

ホモサピエンスの瞬間

 

 

私が今回読んだのは文學界のバックナンバーのため、引用する頁番号は文學界(2015年10月号)のものであることをお断りしておく。

この小説の特長は何と言っても独特の「語り」であるが、そのあたりのことを書く前に簡単に作品のあらすじを書いておきたい。

鍼灸師である主人公(といってもいいのだろうか?)の「わたし」は毎週金曜日、五十山田さんという年配の人にマッサージを施す。五十山田さんが入所している施設の担当者には患者の個人的なことにあまり深入りしてはいけないと注意されているが、「わたし」は五十山田さんの時々つじつまの合わなくなる昔話を聞き、その体に触れていくうちについ彼の人生について「空想してしまう」のだ。作中には五十山田さんの過去の思い出とも、それを聞いた「わたし」が勝手に作り上げた空想ともつかない「戦争」の話が語られる。冒頭がまさに「戦争」の場面で、途切れ途切れの言葉で上官に体の不調を訴える人物が描かれている。彼らは「橋」を挟んで敵軍と対峙した状況に置かれているらしく、敵の襲来に備えて演習を繰り返している。この五十山田さんの記憶とも、「わたし」の空想とも断定できないような物語が漠然と進んでいくうちに五十山田さんの体は徐々に悪い方へと変化し、「わたし」もそれを感知しているがどうすることもできなかった。「空想」や思い出話という「物語」は、東洋医学的に捉えられた体を舞台に繰り広げられる。たとえば「橋」は「首」で、心臓という中心と頭部を繋ぐものだと強調される。橋としての首を行き来する血流が常に意識された状態で物語が語られる。その「巡り」に異常をきたすことが、東洋医学的な不調であり、人と人のコミュニケーション不全であり、さらに血の詰まり(脳梗塞)が五十山田さんの意識を消失させてしまうのだ。

この小説にはいくつもの「コミュニケーション不全(コミュニケーションの詰まり)」が描かれている。今では「コミュ障」と気軽に呼ばれることもあり、誰もが多かれ少なかれ抱える問題ではあるが、コミュニケーションの詰まりというものが、この作品においては決定的な人間の破壊に繫がっていく。

たとえば、戦時中に上官に向って自身の身体的不調を伝えられない人物が描かれている。こんな具合だ。

 

 

「……足は冷えて、頭は暑くて……」

 せめてこの場だけはきちんと伝えきろうと、身体を奮い立たせようとします。

「……えーと」

 頭部から身体に古い血液が一所懸命戻ろうとしている。

「……すいません」

 しかし橋から向こうになかなか渡れない。

「……あれ」

 緊急事態となり、心臓はもとより、本来足にとどまるべき血液までもが首・肩にまで駆り出される。

「……何を言おうとしてたんだっけ?」

 余計に渋滞をひきおこし、血液は流動性を失います。

「……あぁそうだ」

 やがて橋の手前で血液が固まりだすのが

「……肩コリ」

 という症状なのです。

(「ホモサピエンスの瞬間」、文學界2015年10月号、15頁より引用)

 

体の不調というものを他人に伝えるのは難しいことだが、ここで描かれた人物の言葉が途切れる度にコミュニケーションの難しさをひしひしと感じる。結局、上官はわかってくれない。わかってもらえないまま、作戦は地理的な「橋」を越え、その向こう側にいた現地の民衆と片言の言葉で交渉することになる。上手くいきかけた交渉の最中に、重大な寸断としてコミュニケーション不全が差し挟まれる。「ババ」と言いながらやってきた少女、この「ババ」という言葉は後半に頻出してくるが意味はわからない。そのわからなさの故に少女は銃剣で刺殺されてしまうのだ。

他にも詰まりは見られる。重要な法案が可決されようとしている議事堂で「東洋医学」の重要性を訴える少女の言葉はその場にいた人々に理解されない、「わたし」と五十山田さんの間には表面上の会話しかない(「わたし」は職務規定により、五十山田さんに深入りできない)、五十山田さんが脳梗塞で倒れたという報告の電話を「わたし」が途中で一方的に切ってしまう……など、「コミュニケーション不全(コミュニケーションの詰まり)」が具体的なエピソード伴っていくつも描かれているように思えた。

「ババ、ババ」という言葉だけが何を意味するのかわからないまま宙に投げ出され、誰にも受け取られることがない。それは誰が言った言葉なのかも定かではない。銃撃の音のようでもあり、殺された少女の発語とも重なるようで、どこかに潜んでいる者の声にも聞こえてくるし、あるいは「人の形をした夷という獣はこれのことかもしれない」(前掲書、52頁)。

 

この「伝わらなさ」というのは作品の表現形式をも規定している。先ほど引用した箇所からもわかるが、この作品は普通の「会話文」と「地の文」の形をしていない。私達がよく読んだことのあるような普通の小説は「 」が来たら次には別の人物の「 」が来そうなものだが、この小説の語りは独特で「 」は常に同じ人物の発話なのだ。さらに「 」と「 」の間の地の文がその場の状況説明になってはいるが、常に「 」という一方的な発話によって寸断されて細切れになっている。表現形式にさえ、コミュニケーションの詰まり、寸断を巧みに持ち出してしまったのである。

 

ホモサピエンス」という語は作中で明確に「人間」から区別されている。ホモサピエンスとは「あくまで一生物としての学名」であり「人間自身が知る由もない姿、人間らしさを脱ぎ捨てた姿」である。人間であるかホモサピエンスであるか、それは脳と体が繋がっているかどうか、つまり脳によって身体的な欲望がきちんと制御されているか否かによって規定されている。「ババ、ババ」という語は脳によって処理できないもの、わからないものとしてコミュニケーションの外側に放置されることになるが、このわからなさに向き合わずに済ましてしまうことが「ババ、ババ」の正体であり、人間が人間らしさを脱ぎ捨てた姿のあり様かもしれない。寸断されたコミュニケーションの結果生み出されたバケモノ感すら漂っている。私はこの作品について前衛的(語りの独特さ)であるとかなんとか評価をくだす前に「伝わらないことへの怖さ」を感じてしまう。勿論、他にこのような語り方をする小説はなく、それ故の面白さはあった。だがやはり怖い。バーッバッバーバァーッ……。