言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

膨れ上がっていく夏、あふれこぼれおちる感情―杉本裕孝「花の守」

杉本裕孝「花の守」文學界新人賞受賞第一作、文學界2016年2月号掲載)を読んだ。

 

半分夢にでも浸かっているような現が、豊かな比喩表現で膨張していく。「花の守」という雅語から引き出される日本的で、うすい色をした美しさ。その淡さの中に細い髪の毛のイメージが絡み合う。黒髪、「黄金から紡いだ糸のよう」な髪、そして千夜子の白髪。やわらかい曲線的な文体にどこか直線的な髪の描写が混ざり込む。それが切られているのを目撃した時に、宮子は否応なしに向き合わなければならない現実のことを思い出す。

 

「花の守」という小説には義母と嫁という確執のありそうな関係が描かれている。夫は海外出張で不在。しかし、そこには他の作品でよく描かれるような義母と嫁の姿はない。冒頭で繰り広げられる親子の会話は、母親が小さな子供の挙動をたしなめるという日常風景を思わせる。母親と小さな子供、そう見えていた風景は実はそうではなかった。たったワンフレーズで読者が冒頭で築いたイメージをひっくり返す。

 

子供は一生のうちに、絶対を何回約束して、それを何回裏切るのだろう。そんなことをぼんやり考えながら、宮子は千夜子の腰まである白髪を静かに眺めた。

(「花の守」文學界2016年2月号掲載 61頁より引用)

 

小さな子供だと思っていたほうが義母、千夜子なのだった。

夫と結婚した頃は厳しかったであろう義母が、幼児退行してしまいだんだん小さくなっていく。普通に書けば介護の話になってしまいそうだが、そうはならない。勿論、宮子が義母、千夜子の世話をしているが、そこにあるのは単なる介護の風景ではない。この作品は「ふぁんたじー」なのだ。「義母-嫁」という立ち位置から「姉-妹」、「妹-姉」、そして冒頭と作品の大半を占める「子-母」という関係性にシフトしていく。ふたりの間に確執があるとすれば、それば親子の関係というより女同士の関係だ。実際の年齢を超えた所にある感情を描き出している。恋という夢のような瞬間は長続きしなくて、それはいつも否応なしに突き付けられる現実に押しつぶされていくのかもしれない。

 

義母を看る、という嫁の行為にこの作品が持つような美しさなんてない、とか、介護はこんな綺麗なものじゃない、とか、批判は色々ありそうだが、この作品がもつ魅力はたぶん日常をリアルに描くことではなくて、日常という現象に埋もれてしまう感情を丁寧に掬い取っているところだろうと思う。「夏が膨れ上がっていく」のと同時に、説明のできない感情が膨れ上がり、こぼれ落ちるのだ。

 

 

文學界2016年2月号

文學界2016年2月号