コルタサルの短篇小説を読んで、生まれて初めて「短篇小説って短い小説っていう意味じゃないんだ!!」と思いました(嘘のようなほんとの話)。『対岸』『八面体』などコルタサル短篇集の付録にコルタサルの短篇諸説観が掲載されているのですが、怖いものすら感じます。短篇小説って、本当はものすごく難しいものなのだ。
さて、今回も前回の続きです。岩波文庫『コルタサル短篇集 悪魔の涎・追い求める男』から「夜、あおむけにされて」と「悪魔の涎」という二つの短篇小説について書いていきます。
悪魔の涎・追い求める男 他八篇―コルタサル短篇集 (岩波文庫)
- 作者: コルタサル,木村栄一
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1992/07/16
- メディア: 文庫
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「夜、あおむけにされて」
「そして彼らはある時期になると、敵の男たちを
狩りにでるが、それを花の戦いと呼んでいた。」(冒頭より引用)
こんな風に始まるこの作品、コルタサルと言ったらコレだろう!と思う人も多いはず(それくらい有名な作品)。ふたつの風景(オートバイの事故と病院での夜、花の戦いの夜)から成るこの物語のどちらかは夢でどちらかは現実。このふたつの風景を行ったり来たりしながら最後に真実(実はこっちが夢であっちが現実である、ということ)が語られる構成。
夢と現実の倒錯、などと書くとありきたりな小説の思えてしまうが、この作品においては本当に読者は素直に騙されてもいいと思える。そのくらいに描写が綿密であり、夢の風景にも現実の風景にも生々しさがある。また、シーンが切り替わっても不自然な感じがせず、「アステカ族がモテカ族の男を狩る」と「都会の道路をオートバイで走る、あるいは事故後病院に運ばれる」という風景が違和感もなく一つの作品に収まっている。
「あおむけ」というキーワードや光、におい、叫び、など両者を自然につなぐ技巧が素晴らしい。
ラストは冒頭(つまりどちらかが夢でどちらかが現実なのだが)を違う視点で再度語り直す。夢と現実がひっくり返るよくある話ではあるが、陳腐にならないのは小説を構成する言葉の配置が絶妙で、説得力があるからだ。
「夢」「現実」という対極にある要素と、それぞれの中で流れる時間の向きが正反対である様を同時に描いて見せるというのは衝撃だ。時間の向きが正反対というのは、描かれる二つの風景の片方は「生へ向かう時間」であり、もう片方は「死へ向かう時間」なのである。まったく反対のものを描きながら、関連性を失わせない技巧。
ここでいろいろと引用するよりは、直接作品にあたって一度は「やられてみる」ことをおススメする。この作品の言葉をひとつひとつ取り出したいくらいに、綿密に組まれているのがわかるから……。
「悪魔の涎」
冒頭の語りがいきなり不思議な感じを醸し出す。よくわからない、と思ってここで読むのをやめてしまう人もいるかもしれないが、小説を書く人間なら(たぶん)一度は考えたことがあるだろう問題そのものが、そのまま冒頭の文章なのだ。
「どう話したものだろう。ぼくはと一人称ではじめるべきか、きみは、彼らはとすべきか、それとも何の役にも立たない形式をたえず生み出していけばいいのだろうか。たとえば、ぼくは彼らが月が昇るのを見たとか、ぼくたちのぼくの目の奥が痛むとしてみたらどうだろう。いやそれよりも、きみブロンドの女は、ぼくのきみの彼のぼくたちのきみたちの彼らの目の前を通り過ぎていく雲だったとでもするほうがいい。畜生、まったく手に負えない。」(木村榮一訳『コルタサル短編集悪魔の涎・追い求める男 他八篇』より「悪魔の涎」冒頭 55頁より引用)
「語り手というのがじつは丸い穴、つまりコンタックス1・1・2という、種類は違うがやはり一台の機械なのだ。」(前掲書55頁より引用)
少し読み進めていくと、小説の主な語り手「ぼく」はフランス系チリ人、ロベルト・ミシェルという翻訳家で、彼は余暇をアマチュアのカメラマンとして過ごしていることがわかってくる(ただし時々別の語り手が紛れ込む)。
この「ぼく」がその年の十一月七日、日曜日に偶然撮った写真が、後日現像され「ぼく」に復讐するかのように現実の別の側面を見せつけるのだ。
訳者解説から引用させてもらうと「主人公が撮った一枚の写真が突然動きはじめ、身の毛のよだつような恐ろしい現実の隠された一面を開示」している。(前掲書290頁より)
解説を引いたついでに付記しておくと、映画監督のミケランジェロ・アントニオーニがこの作品に触発され、『欲望』という映画を製作したそうだ。
写真や絵画、など「瞬間を切り取ったような芸術作品」に対するコルタサルの価値観や、そこから自分の短篇小説観を築き上げていったコルタサルの短篇小説観が見事に作品として結晶している。
「彼らは未来に向かって歩みはじめた。一方、こちら側にいるぼくは、六階の一室で、別の時間の中に閉じこめられている。あの女、あの男、少年、彼らが何者なのか分からない。硬いカメラのレンズに変わってしまった今、そこに干渉することすらできない。」(前掲書74頁より引用)
「ぼく」はただ現像された写真の外側にいる傍観者でいるしかない。写真を撮った時には確かにその場にいて、その場の出来事に干渉したが、単なる視点(つまり現像された写真をみているだけ)となってしまったからには何もすることができないのだ。
コルタサルの長編小説『石蹴り遊び』にこんな一節があるのを思い出した。第三章のラ・マーガがオリベイラに向って言った台詞だ。
「ずいぶん面倒なのね。あなたは目撃者みたい。美術館に行って額縁絵を観る人なのよ。つまりわたしが言いたいのは、そこに額縁絵があり、あなたは美術館の中にいる。でも、近くにいながら同時に遠い存在でもあるのよ、あなたって人は。わたしは一枚の絵、ロカマドゥールも一枚の絵、エチエンヌも一枚の絵、この部屋も一枚の絵なんだわ。あなたはこの部屋にいると思ってるんでしょうが、本当はいないのよ。あなたは部屋を見ているの、部屋の中にいるのじゃないわ。」
小説書きが「視点」というものを問いすぎると、ありきたりな日常の描写の中に亀裂が走る。たまたまコルタサルの文体がその亀裂に合っていたからこそ、成功し得た作品だろう。何せコルタサルは日常の中に潜むそういった亀裂、断絶、落とし穴のようなもの、あるいは夢、といったものを表現した作家なのだから。