言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

――引用、乗代雄介「最高の任務」

過去の回想のようであって、単なる過去の回想を超えた、そこに「書く」という営みへの信頼と力強い肯定を感じた作品――乗代雄介「最高の任務」の感想を書きたいと思う。日記という体裁をとった作品で、実は私も小六の頃から日記を書きつづけているせいか、そしてうっかり大学で考古学を専攻していたせいか、「書く」という営みを通して「過去」を取り扱う時のこの作品の手つきに感動してしまったのだ。

 

乗代雄介「最高の任務」(初出『群像』2019年12月号掲載)

 

最高の任務

最高の任務

 

 

※引用のページ番号は文芸誌掲載時のものであることをここにお断りしておく。

※単行本は2020年1月11日発売予定とのこと(買っちゃうかもしれない)。

 

私は不遜ながら芸術作品を修復する人々の手つきを思い浮かべている。彼らによって作者はこの世に留まる。修復されて作品が残るからではなく、修復する手が、その作がなければそのように動くことはなかったということが、作者をこの世の仲間に留めおく。

(前掲書、43-44頁より引用)

 

 

いつの時点で書かれたものかはわからないが、この作品は日記という体裁をとっており、大学の卒業式のあとの日々のどこかで「私」によって書かれたものらしい。

内容はいたってシンプルで、2008年11月8日に叔母のゆき江ちゃんが小五の「私」(阿佐美景子)に日記帳を渡したことに端を発している。それで「私」は日記を書きはじめたわけだが、一度日記を擬人化して「あなた」なんて呼びかけて相談事を持ちかけた翌日にひどい嫌悪感を覚え、それ以来日記の書き出しが「あんた、誰?」となる日々が一年以上続く。家にある曲がった木の棒である「ねじ木」で弟の尻を叩こうとしたこと、相澤忠洋の『赤土への執念』で読書感想文を書こうとしたこと、小学校の卒業でクラスで作る短歌集に「友」にかかる枕詞と叔母に教えられて(担がれて)「かこつるど友とも言えない私たちを 待たぬ桜の散るを見る夜」と書いたこと、そんな子供時代の日記が何度か「引用」される。途中で日記を書かなくなってしまったために、2017年のこどもの日に叔母と閑居山に行ったことが書かれることはなかったが、叔母が亡くなって一年ほど大学を休学した「私」が再び書きはじめた日記で「叔母と出かけた場所へ一人で出かけるという形をとって」2019年5月5日の日記が書かれることになる(それを「私」が「引用」することで読者の前に明らかになる)。

そうやって、「私」は過去の日記を振り返り引用しながら、土屋辰之助という人物のことや、高橋虫麻呂という万葉の歌人のこと、分福茶釜で知られる守鶴のこと、岩宿遺跡発見で有名になった相澤忠洋について調べたことによって、補完されていくような過去をも含む卒業式の日の家族の出来事を書いている。それがこの作品だと私は読んだ。

 

日記の中に過去の日記の引用が出てくるわけだが、こうして「私」によって再構成された出来事は二重にも三重にもなり、はじめの一回で経験したその時よりもずっと長い時間となっていく(そしてそれは最早ただの「過去」ではない)ような印象を覚えた。日記を書きながら「私」は「長い時間を見ていた。」なんて思ってしまったのはこんな文章が出てくるからだ。

 

広がる田圃は輝く空を鈍い群青に映しながら、目を凝らせば細い苗の点描を整然と並べている。ところに遠くから青鷺が降り立つ。獲物をさがして苗を踏むことなく盛んに歩き回り、やがて細い畦に足をかけて首を低く前に差し出したところで止まった。私たちはその長い時間を見ていた。

(前掲書、20頁より引用)

 

実際に「私」と叔母が青鷺を見ていた時があって、それを二年後に一人で青鷺をみて思い出した時があって、さらにそれを書いた時があって……と、語り手「私」が読者の前に差し出す現在に至るまで増幅し得るのかもしれない。

過去の日記に書かれてしまったことは、それはそれでひとつの停止であるが、別の時に思い出したり調べたりした事実によって違うふうに再構成されていくこともある。再構成(あるいは「書く」という行為)には書き手の作為がついて回り、それが都合のいい解釈や物語を呼び込んでしまうものだけれど、「私」はそれさえ否定しない。「私が閑居山を再訪したりメモを見つけたりすることの確率の低さだって問題にしてたまるものか。信じるということは、確率や意見、時事すらを向こうに回した本当らしさをこの目に映し続けることである。」(55頁)、ここに「書く」こと、そこから見出したことへの信頼を感じた。作為を意識しつつも「だからどうした?」踏み越えて行く文学の強さを感じた。

 

 

叔母が私に考えさせたかったのは、ここで、この時、このことだという気がする。それとも、私はやはり「心情を交えすぎ」ていて、叔母を特別扱いしている「お話バカ」なのだろうか? でも私にとってこのお話は、体よく考えられてまとめられた過去ではありえない。私がそれを聞き漏らしたり思い出さなかったり、こうして相澤忠洋について調べなかったりしたら、一つ一つ埋もれたままになっていたかもしれない過去なのだ。私はもはや日記とは言い難いこの書く営みによって、叔母がこの世に埋めていった何もかもを「一家団らん」や「孤独」と一緒に掘り出さなければならない。けちな事実確認のためではなく、改めて埋葬するためでもなく、ただ何度となく、風呂上りにでも見つめて恍惚とするために。すなわち私だけのために。

(前掲書、51-52頁より引用)

 

過去の日記を単に「私だけのために」現在へ引用する。そこに立ち現われる何かに「あんた、誰?」と何度でも問いかけることで(そう思わされる筆のすべりに)単なる過去の回想ではなく「自分を突き動かしている切実なものに気付く」(52頁)、過去と向き合って、あるいは故人を懐かしんだり自分の名字や家にあった物の由来が明らかになってゆくのを書いた作品なのに、過去に甘んじない、この書き手にだけ書くことのできる形式を持ったすぐれた作品だと思う。

言葉をなめて齧る夜―オルガ・トカルチュク『昼の家、夜の家』


装幀がかわいいな、と思った。ページをめくると、このカバー絵は、アリツィア・S・ウルバニャック(Alicja S.Urbaniak)の「秋」(Autumn)という作品であることがわかった。今回は2018年ノーベル文学賞を受賞したオルガ・トカルチュクの『昼の家、夜の家』という本の感想を書いていく。

 

オルガ・トカルチュク著、小椋彩 訳『昼の家、夜の家』(白水社、2010年)

 

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

昼の家、夜の家 (エクス・リブリス)

 

 

 

家々は夢をみるのか?

この作品は「わたし」のみた夢の描写からはじめられる。「視線そのもの」である「わたし」は谷間の家々を俯瞰し、「つながれた一本足の動物みたいな木々」や、屋根の下の、眠る人びとの身体を見る。その後にも人家や教会、修道院など建築物の描写が登場するが、これが人間のメタファーということらしい(訳者あとがきより)。

 

わたしはマルタにこう言った。人はみな、ふたつの家を持っている。ひとつは具体的な家、時間と空間のなかにしっかりと固定された家。もうひとつは、果てしない家。住所もなければ、設計図に描かれる機会も永遠に巡ってこない家。そしてふたつの家に、わたしたちは同時にすんでいるのだと。

(「わたしのお屋敷」259頁より引用)

 

「昼の家」とは人間の意識を、「夜の家」とは夢や深層意識を指している。また前者は、現実世界や、世界の可視的な表面を示す一方、後者は、普段は目に見えない、しかし誰の日常にも確実に潜んでいる神秘をあらわしている。

(訳者あとがき、378頁より引用)

 

私にとってこの本ははじめて読んだポーランドの小説だ。

1998年に出版された著者オルガ・トカルチュクの長編第四作。本作でニケ賞に二度目のノミネート、英語版は2003年度の国際IMPACダブリン文学賞最終候補となったそう。

『昼の家、夜の家』はポーランドにおけるドイツ問題という歴史的、政治的な問題を扱いつつも、チェコとの国境に近いノヴァ・ルダ周辺の人々の日常生活や地元に伝わる伝説を書くことで、大局的な歴史が人々の暮らすごく当たり前の日常のすぐ下、足もとにある土地の出来事なのだという深い実感が込められている。

ポーランドは歴史(政治)に翻弄され、たとえば作品の舞台のひとつシロンスクは国境線の移動によってしばしば帰属を変更させられてきたという事実がある。そこから作者の構想する流動性、すべては不安定でたえず変わっていくものという世界観が生じてきたのだろうが、それはポーランド歴史観にとどまらず、人間観にまで敷衍する。日常生活を営む昼の家、夢をみる夜の家。赤土のせいで両手は赤茶色に汚れ、手を洗うと赤い水が流れる、雨まじりの雪が降れば粘土質の土壌にたまった雨水が大小の小川となって丘の上から家に流れ込む。なす術もなく、水は家の地下を通したほうがいい、ということになるそんな暮らし。これが昼の家。流れる水の音、あふれる水の音がきこえてきそうな昼の家。

夜の家という夢の中での視線の移動のように、人間も流れる水のようにまたうつろう。イエス・キリストの顔を与えられた聖女の伝説を書く修道士は女になることにあこがれ、自分ではない自分を望む。自分の中に鳥がいるような気がしてその羽ばたきに慄くアル中のマレク・マレク。人の考えがたまる(蓄積する)という髪、それでつくったかつらをかぶるということは、他人の考え方をかぶる勇気のいること。

流動性」というたえず変わっていくという不安定さは、自分が何者にもなり得るということと同時に、自分という存在が何か別のものになり変わってしまうということでもあるかもしれない。そしてその両方にはあまり意味がなくて、雨が降れば池の水があふれるような感じなのだと思う。「自分」という垣根の消滅、そのひとつのあらわれ方が夢だ。それは死に近いことでもあるのかもしれない。いつも世界の半分は夜で眠っている人々がいる、そしてもう半分は昼で生活を営む人々がいる。だれかが死ねばだれかが生まれる。そんなふうにして世界はできているらしい。

 

水はコンクリートの堤を越えて、池の表面からあふれ出し、ほとんど橋にまで届きそうだった。濁って赤く、どろどろと濃くて粘っこい水だった。いつものようなさらさらした流れではなくて、わめき散らすような水音が、いまにも悲鳴に変わりそうだった。黄色いゴム長に黄色いレインコートを身に着けたRは、幽霊に似ていた。途方に暮れた彼が、土手に走り寄るのが見えた。彼の魚が、暗褐色に泡立った深みのなかで、不安にさいなまれながら、死にかけているのも見えた。

(「雨」185頁より引用)

 

作品に登場するキノコの種類やその描写から、やはり東欧は野生のキノコを食べる地域なのだ、と改めて感じた。「マッシュルームは手ざわりのいいキノコで、人の指に撫でられるのが大好きだ。(中略)しかもこれは、数少ない、ぬくもりを感じるキノコのひとつだ。人の身体にぴったり寄り添うキノコなのだ。」(167-168頁)なんて書かれていて、とってもかわいい(だけれどこいつにそっくりなシロタマゴテングタケという死の職杖がマッシュルームの群生を、遠くから監視しているのだ「まるで羊の皮をかぶったオオカミみたいに。」)。

 

以下の文章がこの本の中で一番気に入っている。私が信じている文学の、小説の言葉というものについて鋭く指摘しているように思ったからだ。

 

だって、言葉と事物がつくり出すのは、象徴的な空間だ。まるでキノコと白樺みたいに。事物の上に、言葉が生えて、そのときようやく、意味を持つ。風景のなかで成長して、口に出して使われる準備が整う。そのときようやく熟れたリンゴみたいに、言葉を楽しむことができるのだ。においを嗅ぎ、ちょっと味を見て、表面をなめてみる。それから音を立てて半分に割り、はにかんだ、みずみずしい中身を調べる。そこまで向かって成長しながら、べつの意味で使われることだって、できるから。そうでなければ、言葉なんていっさい死んでしまう。

(「言葉」、225-226頁より引用)

 

f:id:MihiroMer:20191228140104j:plain

 

断片から成る一冊が断片の町ノヴァ・ルダを語る。家にいながら旅をすることができる本、それもガイドブックには載っていないような場所までも。

 

 

関連?記事↓↓(キノコ小説)

 

mihiromer.hatenablog.com

 

mihiromer.hatenablog.com

 

大地と時と人と―パール・バック『大地』

パール・バックという人の作品をはじめて手に取った。

岩波文庫で全4冊ある長篇小説『大地』である。

パール・バック著、小野寺健 訳『大地』(全四巻、岩波文庫、1997年)

 

大地 (1) (岩波文庫)

大地 (1) (岩波文庫)

 

 

作者がアメリカの女性作家という情報を聞き知っていたのでページをめくって「???」、あれ? 登場人物の名前が王さん? ……何だか恥ずかしい私とこの本の出会いである。自分の馬鹿さ加減と普段は意識していない偏見丸出しぶりが痛ましい。日本人作家がジミーさんやダイアナさんやニコライさんを書いてはいけないのか?!と我ながら突っ込みを入れたくもなる笑。久しぶりのブログ記事はパール・バック『大地を読んだ感想を書こうと思った。

 

パール・バックは1892年アメリカのウェスト・ヴァージニア州にあるヒルスボロという町で生まれた。父は宣教師で任地が中国であったことから、パールは生後三か月の時に両親とともに中国へ渡った。以後、9歳の時に短期間一家で帰国した時と17歳になってカレッジに入学するために帰国するまでアメリカに行くことなく、もっぱら中国で育った(文庫解説より)。中国はパール・バックにとって自分自身の一部となっていたのだろう、なるほどそれで、中国を舞台にしたこの長篇小説が書けたわけだ。(……と浅学な私がひそかに納得するのでした。)

 

『大地』(三部合わせた原題は『大地の家』)は、第一部「大地」、第二部「息子たち」、第三部「崩壊した家」の全三部からなる。第一部「大地」は1931年にアメリカで出版されると瞬く間にベストセラーとなった。パール・バックは1938年にノーベル文学賞を受賞している。

ストーリー性の豊かな作品で、長編でありながら、読み始めるとどんどんページが進んでしまうような本だった。物語のあらすじを簡単に書くと、第一部「大地」では貧しい百姓であった主人公の王龍が、当時町で栄えていた金持ちの黄家の奴隷であった阿蘭を妻として迎え、二人で力を合わせて困難(飢饉や水害盗賊いろいろあった)を乗り越えていき、やがてたくさんの土地を持つ有力な地主になっていくというもの。そして第二部「息子たち」、第三部「崩壊した家」では資本家となった王龍の息子たち、そして孫たちが大地を離れて頽廃的な生活を送る様が描かれている。厳密に史実を検討していくとあちこちに矛盾があるようだが、物語のはじまりは清朝末期であり、終わりはだいたい1930年頃。この間の中国は国民政府の成立、国共合作、五四運動、辛亥革命……など、政治的・社会的動乱期であり、思想風俗の変化も急激に起こった。作中では「纏足」や男女の「結婚観」の変化が顕著に描かれている。太陰暦から太陽暦に変わろうとしていたり、前に畑だったところが絹織物の工場になっていたり……。

 

私が最も印象に残ったのは「人と土地の関係のあり方」だ。

 

春が過ぎ、夏が過ぎ、収穫の季節が訪れ、冬を前にした秋の暑い日差しのなかで、王龍はかつてその父がもたれていた壁を背に座っていた。いまの彼は、もはや食べ物と飲み物と土地のこと以外、何も考えていなかった。しかし土地といっても、もうそこから上がる収穫のことやそこに蒔く種子について思い煩うことはなく、土地そのものについて考えるばかりで、ときどきかがみこんでは手で土をすくうと、それを握りしめて座っていた。指のあいだの土は、命にあふれているような気がした。彼は土を握ったまま、満ちたりた気持でうつらうつらとその土を思い、そばにある棺を思っていた。土はすこしもいそがず、やがて彼がそこへ帰ってくる日をやさしく待っていた。

パール・バック著、小野寺健 訳『大地(一)』岩波文庫、1997年、463頁)

 

ちょっとびっくりしたのだけれど、一族の墓が作られる場所は畑、それも高台になった良い場所が選ばれる。土と共に生きた王龍が死んで土に帰るというのは(それに「土はすこしもいそがず」という大らかさが大地と生きた人らしい)彼らしい結末だと思う。ちなみに彼の位牌に刻まれた言葉は「霊肉の富、ともに土より出でし王龍」(第二巻、71頁)というものだった。

人間が大地に干渉して、土を作る。作物を育てることで食を得て、その作物を育てるのに人糞さえ撒き、さらに死ねば躯が畑の土に帰る……。こういう徹底して人間が干渉した大地の在り方と、外国(西洋)の大地の在り方の違いを王龍の孫にあたる王元という人物が第三部「崩壊した家」(岩波文庫3~4巻)で考察している場面がある。王元という人物は土から離れた生き方をする王龍の息子世代より土に近い人物として描かれている。父王虎が軍人なのに農業に興味を持ってしまって、革命騒動に巻き込まれて成り行きで留学した外国の地で、農業について学ぶ。

 

白人たちを養っている大地は元(ユアン)の民族を養っている大地とはおなじものではあっても、じっさいにその上で働いてみた元は、それが彼の祖先たちの葬られているあの大地とおなじではないのに気づいたのである。この国の大地は新しく、人間の骨が埋まっていない。そのために人間のものになっていない。この新しい民族にはまだ死んだものの数が少なく、彼の祖国の土とはちがって人間の肉体の精髄がじゅうぶんしみこんでいないのだ。

(前掲書、四巻、69頁)

 

元の国では土地は征服されて、人間が主人になっていた。山々の森林はとうの昔に裸にされ、いまでは雑草まで刈りとって人間用の燃料にされてしまっている。人びとは乏しい大地をだましだまし最高の収穫をあげることに専念し、こうしてぎりぎりまで酷使した土地に、こんどは自分の汗を、排泄物を、死骸を、何から何までぶちこんだ結果、もはや土地の処女性などはこれっぽっちものこってはいない。人間が人間を原料にして土を作っているのだ。人間がいなかったら土はとうの昔に疲弊して、空っぽの、子を産む力もない子宮同然になっていただろう。

(前掲書、四巻、70頁)

 

 

さて、こういう考察をした王元はどちらの大地に属すのだろうか?

彼は子供の頃から経済的には何一つ不自由のない生活をしてきた。自分は農業に興味があるのに、父には軍人になるようにと厳しい教育を施され(面白いことに、この父はさらにその父王龍に百姓になることを強制され、そのことに反発して出て行った経歴がある)、古い習慣に則って無理矢理結婚させられそうになったことに猛反発して家出、西洋的な都会の生活を経験してその思想にも触れる。従兄が革命思想の持ち主だったり、同じく母と都会で暮らしていた妹も自由な結婚をするなど「新しい時代」を生きている。けれど王元はその新しさの中にも(新しい都市、そして西洋風の家)、反対に祖父王龍の暮らした田舎の土の家にも完全に馴染むことができない。色々な価値観に触れて生きてきた王元は、新しい価値観に共感を抱くこともあればそれに嫌悪することもある。西洋的な新しさを嫌悪すると同時に祖国である中国への愛に目覚めるけれど、その国の負の部分をみれば嫌悪したくもなる。こうして、新しさと古さの間を振り子のようにゆらゆら揺れながら、彼はやがてどこにも属せない自らの孤独に気がついてしまうのだ。

 

(……)彼は何となく中途半端な、孤独な位置にいるのだった――いわば、この西洋式の家とあの土の家のあいだなのである。彼には真の家はなく、この家にも土のいえにもなじみきれないその心は、じつに孤独だった。

(前掲書、4巻、336頁)

 

土地から離れて生きることを選んだ世代たちの、そして変化の激しい時代に生きなければならなくなった世代の不安定さがにじむ。王元がどんなに農業について勉強してもそれは「勉強」でしかなく、「暮らし」にはなりえないのだ。

けれどそれは必ずしも不幸なことではない、と信じたい。王元は王元なりに自分らしい生き方をみつけていかなければならないだろうし、おそらくそうしていくのだろう。父、王虎が死に臨む場面で物語は終わるが、あるいはその死によって終わるものと、その後の世代によって続いていくものや新しく始まるものがある。親の財産を食いつぶして滅びに向かっていく家の子供たち孫たちの姿は、たとえ家が滅んだとしても彼らひとりひとりは滅びずにいて、そのことが古い価値観である儒教的な家意識を更新し、新しい時代に生きていくことそのものを表しているように思える。

 

「人と土地の関係のあり方」は国によって時代によって違うだろうし、何が正しいというわけでもなく、反復する価値観もあれば刷新されていくものもある。急進的な価値観の変化は希望と暴力を生む。そんなことを考えながら本を閉じてわが身を顧みると……確かに親の財産を食いつぶして根無し草になった感はあるなぁ……と(笑)またしょーもないことを考えてしまったところで、久しぶりのブログ記事を終えたい。

転回―大前粟生『回転草』

大前粟生『回転草』を読んだ。

既存の思考の枠組みをいい意味で取り払ってくれる、かなりはちゃめちゃな一冊である。まず設定がはちゃめちゃであり、何故そうであるのか一切説明されないままに、たとえば語り手が西部劇の乾いた風に転がる草だったり、ミカがキリンになっていたり、雪女がバケツの中で溶けて水になって、その水と僕が一緒に暮らしていたり。

 

 大前粟生『回転草』(書肆侃侃房、2018年)

回転草

回転草

 

 

愛と狂気と笑いと優しさと残酷さとが混在した10の物語。

(本の帯より)

 

 

収録作品は「回転草」「破壊神」「生きものアレルギー」「文鳥」「わたしたちがチャンピオンだったころ」「夜」「ヴァンパイアとして私たちによく知られているミカだが」「彼女をバスタブにいれて燃やす」「海に流れる雪の音」「よりよい生活」

 

はちゃめちゃな、ぶっとんだ設定が表現ひとつでぽんと現われてしまうものだから(ひとつの言葉や文字で何の前触れもなく現われるので)、一瞬何が起きたかわからなくなるけれど、たぶん本に書かれたことをそのままに読んでいくしかないのだろう。自分の観念にしがみつくことが日常を回すことだとしたら、この本はたぶんその外側に連れだしてくれる読書体験をもたらしてくれる。

 

そして不思議なことに、書かれた物語はぶっとんでいるのに表現される感情には何故か親しみを感じてしまう。たとえば「破壊神」を読んで強く感じたことだけれど、自分だけ、なんか「そうはなれない」とか「そうは思えない」という事柄があって、そのせいでずっと世界の外側に立っていなきゃいけなくなっちゃったひとの「かなしみ」かあるいは「せつなさ」にじーんとなる。こういう感情の表出を切実というなら、この短篇集はほんとうに切実に感情というものに寄り添っているように思える。

 

それからこの作者の妙な言い回しが好きで、たとえば『のけものどもの』にも収録されていた「生きものアレルギー」に登場する表現、「習字の半紙の長いやつ」(43頁)はずっと好きだ。今回新しく見つけてひとりで喜んだのは「弁当のなかに入っていた、緑色の芝生みたいな、料理を区切るあれ」(「文鳥」92頁)という表現。これを拙いととるか、面白いと捉えるかはひとによりけりだろうけれど、私はとても好きなのだ。正しい名称を超えて、そのものずばりを表現できる言葉の流れというのがあるらしい笑。

 

■「回転草」について

びゅうううう、と私はいいたくなった。大声でいいたくなった。

変わったデザインの本を開くと、そこでは突然「寂れた酒場がセピア色に変色して」いて、二人の男が銃で決闘していた。止まったような時、乾いた熱風、そして「西部劇お馴染みの絡まった球体の枯草」が転がる……。

暗転。

エンドクレジット。

そう、「君」も出演者だったの……。

大前粟生さんの小説「回転草」。

この作品は、西部劇の外側へ、それから西部劇撮影セットの外側へ、びゅうううう、と風に吹かれるままころころ転がって行く回転草が語り手、という変な小説だ。転がって行く先でサインしたり(だって回転草は西部劇に出演する大物役者だからね)、昔の知り合いと再会したり……っていうか? もしかして世界亡びかかってます? すごくない? 西部劇の外側に転がって行ったらなんかSFっぽい世界に辿り着いてるんですけど?(笑)

回転草は次々と枠をはみだしていく。「西部劇お馴染みの絡まった球体の枯草」と作品冒頭で表現されていたものを、私は単に西部劇という言葉からイメージされ得るモチーフだと思っていた(実際乾いた風になんか転がっている映像はすぐに浮かぶ)。けれどちょっと調べて判明した、回転草って実在の植物だったんだね、そしてアメリカで大量発生したんだとかなんとかというニュースを読んだりもした。読みながら「回転草」の設定もころころ転がるようにストーリーが展開、いや転回していくような、そんな愉しい小説だった。

でも読んでいてちょっとかなしくもなる不思議な小説だった。

 

 

■余談

大前粟生さんと言えば、そういえば最近『新潮』(2019年4月号)に「ファイア」という短篇小説が掲載されていた。

 

新潮 2019年 04月号

新潮 2019年 04月号

 

 

小説の語り手「私」が働く火柱系ラーメン屋〈ファイア〉が主な舞台。そこでは文字通りラーメンから火柱が昇る。

たぶん私は巨大なものに怖さを感じながらこの作品を読んでいた。それは京都タワーを取り囲む人々の長大な列だったり、小説の終わりのほうで起きる事故の炎だったりする。だが、この怖さを感じる巨大なものだって、そもそも始めから巨大だったわけではないのだろう。

「それぞれの火柱が猛り、手を繋ぎ合った。」

語り手「私」と佐々森という人物がかつて作った火同好会。これはライターの火というごく小さな火を鑑賞する会だった。この火をみていると落ち着く、そんな二人はあくまで個と個のままでいる。「お互いが、火を見てひとりでいるままに、ふたりだった。」火が合わさって巨大になったりはしない。小さな火。繋がらない火。

フラッシュを「焚いた」まま人の写真を撮る観光客、SNSで「広まる」快感など所々で自分の意思では止められない暴力や空気の流れみたいなものの存在が描かれ、そういうものが火を巨大な火柱にし得るのではないか? などと思った。

「本当は行きたいと感じていたのだと、思い込みたい。楽になれたらいいな、と思う。だれもが。」

この終わりには優しさを感じた。「思い込みたい」の先にある感覚を当たり前だと誰もが信じているけれど案外そうでもない事柄を、それでも思い込めたらいいのにと願ってしまう。

だれもが?

 

大前粟生さん新刊も出ているようです(欲しい)。

『私と鰐と妹の部屋』 

私と鰐と妹の部屋

私と鰐と妹の部屋

 

 

 関連記事↓↓
mihiromer.hatenablog.com

 

野生の馬、その美しい不在―パスカル・キニャール『落馬する人々〈最後の王国7〉』

水声社から刊行されている「パスカルキニャール・コレクション」の中でも、私は特に〈最後の王国〉シリーズを楽しみにしていて、全巻購入しようと思っている。部屋の片隅で夢中になって読んでいるうちに、時間は過ぎ、日は暮れて、思えばその日一日はだれにも会わず話さずであったことの幸福をひとり思うのだ。

今回は〈最後の王国〉シリーズ7巻目にあたる『落馬する人々』を読んだ感想を書いていく。ちなみにこのシリーズは著者のライフワークであり本国フランスではまだ書きつづけられているそうであるが、水声社からは9巻までが邦訳される予定になっている。1冊ずつゆるやかに繋がりつつも基本的には独立しているため、どの巻から読んでも問題ない。すべて読み終えたあとに〈最後の王国〉とはどういうものであったか、振り返ってみることができたら、それは幸せな読書の旅なのだと思う。

 

f:id:MihiroMer:20181118215748j:plain

blog 水声社 » Blog Archive » 新シリーズ《パスカル・キニャール・コレクション》刊行開始!

 

パスカルキニャール 著、小川美登里 訳『落馬する人々〈最後の王国7〉』(水声社、2018年) 

落馬する人々 (パスカル・キニャール・コレクション)

落馬する人々 (パスカル・キニャール・コレクション)

 

 

 

異論の余地なく、自分よりも美しいと人間が認めた唯一の動物こそ、おそらく馬なのだ。

(前掲書、71頁より引用)

 

人間の歴史に想いを馳せると、ここにもあそこにも馬がいる、ということに気がつく。そう、自動車や鉄道、飛行機が登場するまで人類最速の移動手段は馬であったのだ。移動だけではない、例えば悪夢という言葉は、夢を見る女性の乳房にのしかかる雌馬を意味するそうだし、嵐は空を駆けるギャロップの轟音に喩えられることがある(71頁)。人間と馬の関係は実社会から空想の世界まで、広く見られる。そしてその中で時々、落馬する人々がいる。

受胎時には確かに個(孤独な存在、本来的に人間は個である。)であった人間が誕生後に徐々に社会化され集団を形成していく。その集団の持つ残酷さ、起こし得る戦争という行為は何に依るものなのか、またそれを抑止することは可能なのか、人間存在を個人的なあり様から歴史的なあり様まで考察する、この壮大な問いを、本書は「人と馬の関係」から語る。

 

5番目に「恥辱の荷鞍」という章があって、ここでは馬と鹿が戦ったエピソードが引かれる。鹿たちは「人間の手を逃れ、主義としての逃亡者であり、飼い慣らし難く、魂の底まで猛々しい」(22頁)存在と規定され、そんな鹿の優位に見栄っ張りの馬は耐えきれず戦うことになった。

決着のつかない決闘。

「お前の背中に私を乗せてくれさえすれば、勝利をもたらしてやろう」

谷から近づいてきた人間を騎手として乗せた馬は鹿の首を刎ね、勝利する。けれどもそれ以後馬は機種からも馬銜からも乗馬鞭からも自由になることはできなくなった。「たちの悪い勝利」(23頁)。他方、負けた鹿たちは以後、人間からも馬からも動物丸出しの逃走を宿命づけられるが、ここにもまた「奇妙な勝利」といえるものがあった。すなわち「ひとつの不服従。誇示された馴化への抵抗、落馬行為そのもの」(24頁)。

 

この馬と鹿の戦いこそ、個としての人間が集団を形成する過程と重なる。人間を乗せた馬は社会化された共同体であると言える。文化的に人間に近い馬を、人間の集団化のたとえとして利用する。では「落馬する」とはどういうことか。それは社会との関係性を絶ち切って個として再生することだ。そして落馬したものは「書く行為」を始める。その例が本書『落馬する人々』にはいくつも引かれる。ランスロットやアベラール、パウロ、ペトラルカ、モンテーニュ、ブラントーム、ドービニェ等々。

 

落馬がきっかけとなって聖パウロ、アベラール、アグリッパ・ドービニェはものを書きはじめる。

彼らが書きはじめたのは、少なくとも自分が死者の世界から戻ってきたかのような気がしたからだった。

(前掲書、46頁より引用)

 

「落馬」を契機に書き始める、とすると、「書く行為」は本質的にひとりでするもの、孤独に属するものであると考えることはできないだろうか。

 

社会化され集団となった人間たちが次に引き起こし得るものは「戦争」である。

著者は「戦争」の原因を人間の内側に求める。「原初の苦しみ」、自分より強い者(捕食者)への根源的な恐怖だ。この強者を殺害するために人々は共謀せざるを得ない。そうして遂行されて生じる「死」に一種の神聖さを与えるものが「宗教」であり、殺害という原初の罪を繰り返し共同体内に再生するものが「供儀」だ。いずれも共同体を強化する作用を持つ。人間の内面に深く刻み込まれている「原初の苦しみ」というものが人を群れさせ、戦いに赴かせる。さらに共同体を維持するために「供儀」をもってその戦いが焼き直しされていく……。そう考えれば戦争というものは人間の内側から湧いてくるものであり、とどめようもないことである、となってしまう。ただひとつ、恐怖から生じる暴力による連鎖を食い止める方法は、その暴力を自分自身に向けることである、とも著者は語る。鬱、拒食、引きこもり。

 

……なんて、何とかこの一冊に込められた著者の深い思索を読み解こうとしてはみるものの、やはり的外れなことばかり書いてしまったかもしれない。読み始めたばかりの頃、私はこの書物について、思想書だろうか小説だろうか、と一度立ち止まった。『落馬する人々』もこれまでこのブログで扱った他の〈最後の王国〉シリーズと同じように断片から成っている作品だ。一冊の本を構成する複数の断片(そしてそれらは何冊もの本から抜き出されてきたものであろう)。断片的にあらわれてくる様々なイメージから思索を浮き上がらせる手法、読み終えてから、この構成力は間違いなく「小説」の力だと思った。著者であるパスカルキニャールはしばしば読書を狩猟行為に喩えているそうだが(『さまよえる影たち』参照)その姿勢が本作では特に際立っていると思う。この作品は荒々しくも美しい野生である。

 

ことばもまた、ひとつの捕食行為なのである。

(『落馬する人々』228頁より引用)

 

ジョルジュ・サンドは父親の落馬事故の報を聞いた部屋、その片隅を「不在」と呼んだ。彼女はいつもそこで書き物をしていた。生涯この「不在」の場所で不在であることを臨んだ。

読書や書き物に没頭している時、そのひとはその場にはいない。その没我的な空間さえ実は存在しない。そこは読書、あるいは書き物をしている間にのみ浸れる場所。あるいは〈最後の王国〉というのはそういうことだろうか。束の間「不在」であることは完璧でないにしても、ある種の落馬行為と言えるのかもしれない。

 

わたしは読書しながら眠り込んだ。わたしはそこにいながらにして旅をしていたのだ。ひきこもりが真の大旅行というわけではないが、大旅行とはむしろ「非-場所」でなされるものなのだ。つまり、どこにもある片隅、壁の隅、空間でない場所、あるいは時間の中で。

自分を守るために人々の下す審判に従うのを止めたとき、それまで自分を傷つけていたものが一瞬にして千々に裂けて消え去る。まるで陽光が差した瞬間の川面の霧のように。

(前掲書、286頁より引用)

 

関連記事↓↓

mihiromer.hatenablog.com

 

mihiromer.hatenablog.com

 

振り捨てていくもの―ル・クレジオ『心は燃える』

今回は、ル・クレジオ『心は燃える』の感想を書いていきたいと思う。

 

ル・クレジオ 著、中地義和・鈴木雅生 訳『心は燃える』(作品社、2017年) 

心は燃える

心は燃える

 

 

 この本は2000年に刊行されたル・クレジオの中短篇集『心は燃える』の全訳である。冒頭の二篇を中地義和が、残る五篇を鈴木雅生が翻訳している。

収録作品は掲載順に、「心は燃える」「冒険を探す」「孤独という名のホテル」「三つの冒険」「カリマ」「南の風」「宝物殿」の七篇だ。私が特に気に入ったのは、「冒険を探す」と「宝物殿」の二作で、今回はこの二篇を中心に感想を書く。

ル・クレジオの小説はどこか郷愁を誘う美しさがあふれていたけれど、この本の作品はどれもそういった郷愁を乗り越えて(あるいは振り捨てて)いくものになっている。それゆえに読みながら引き千切られるような悲しみや痛みを感じた。訳者あとがきによると、「ノスタルジーの称揚から脱ノスタルジーの称揚という変化は、じつは『黄金探索者』と『隔離の島』の間に認められる人物造形の変化でもある。」(前掲書、194頁-195頁)そうで、実験的初期作品から異文化や子供・女性といった社会的弱者にまなざしを向けるようになった著者ル・クレジオの作風の変化を辿る上で本書は見落とせないものとなっている。また本書にも異文化交差(単純な二項対立ではない)、社会的弱者へのまなざしが色濃く反映されているが、そういうひとびとを「強者」との対立から描くのではなくて、あくまで彼・彼女らの生活そのものと、そこから生じる内面の葛藤に主眼が置かれている。ル・クレジオの「他者への同化」に対する強烈な意思を感じた(その意思が最も強烈なのは『悪魔祓い』だと私は思っている。何せ「わたしはインディオなのである。」とさえ書いているのだから)。

 

ここから先は「冒険を探す」と「宝物殿」という二篇に絞っていくが、どちらの作品も何か集団の共有するイメージみたいなもの(世界観?神話?)がまずあって、それを個人が一旦は取り込んで内面化していくのだけれど、最後にはそこから飛び出していくという過程が描かれているように思う。帰属する集団の世界観はいつしか自分の世界観になっていくけれど、いつかそれを振り捨てる日もやってくる、それを「大人になること」として表現しているのが以下の二作ではないだろうか。

 

■「冒険を探す」

 

 

夜の闇が降りてくる。そして夜とともに、流浪の民の思い出が、砂漠の民、海の民の思い出が訪れる。若者が人生に乗り出す時期に彼らの頭から離れないのは、また彼らの精髄をなすものは、この思い出だ。

(前掲書、78頁より引用)

 

とても短い詩的散文で、これから大人になろうとしている十五歳の少女が夜の町を歩きながら自分の人生に踏み出していこうとするさまが描かれている(ただし抽象度が高く、特定の個人としての少女というよりは何かの象徴に見える)。

作品冒頭でベルダルディーノ・デ・サアグン『ヌエバエスパーニャ概史』からの抜粋がある。イシュネシュティワと呼ばれていた祭り、それは「冒険を探す」という意味。踊る者たちはいろいろなものに扮するのだが、その扮装を変身と捉え、何の脈絡もなくあるものから別のものになっていくという自由奔放さがこの作品の表現そのもののような気がしてくる。十五歳の少女の中には流浪の民の思い出、砂漠の民、海の民の思い出がある。それらは夜とともに訪れ、夜の中をただ歩いて行く少女の眼の前に様々な風景となってあらわれてくるよう。少女はそんな思い出を知らないし、記憶というものも知らない。けれどその思い出は少女の中にあって、少女のまなざしから抜け出したものでもあり、つまりは思い出であると同時に少女によって創造されたものとも書かれる。それらに出会うため、十五歳の少女は自分の寝室を離れて人生に踏み出して行かねばならない。アイデンティティを見つけ、掴み出すために。目の前にあるものは過去の反映であるとともに、少女を新たな世界へと導くものでもある。それが流浪の民の思い出、砂漠の民、海の民の思い出である。個人は個でありながら集団的な記憶にも支えられて、さらに内面化した集団的記憶を自らの外側に放出していくような存在ではないだろうか、などとこの作品を読みながら考えていた。歴史というと重苦しいけれど、それは単に個人を縛るものではなく、個人が生きていく土台みたいなものを提供しつつも少しずつ変わっていく(変更が許容されているような)集団的イメージであるような。

 

 

■宝物殿

 

 

宝物殿、それはひとつの夢、夜の鼓動から生みだされ、忘却の淵で震えつづける未完の夢。

(前掲書、153頁より引用)

 

この作品は、フランス語圏、アラビア語圏あわせて12人の作家が世界遺産であるペトラの遺跡をめぐって書いたテクストを集めた『ぺトラ―岩々の物語』(アクト・シュド社刊、1993年)に初掲載された。ペトラ遺跡が舞台となっていて、特に題名にもなっているように宝物殿が「過去」を描くための装置になっていると言えそうだ。

 

あれはまだ、馬が年老いて役に立たなくなっても喉笛を掻き切られたりはしなかった時代のことだ。馬たちは、自由を謳歌しながら死をむかえるようにと山へ放たれた。

(前掲書、142頁より引用、この作品の冒頭)

 

ベドウィンの少年サマウェインがかつて父に語りきかせられていたはるか昔の話。その時代には精霊が人間とともにペトラの泉のほとりに住み、墓所の秘密を守っていた。と、こんなふうに神話が語られるところからこの作品ははじまる。ペトラがまだ遺跡になる前、たぶん紀元前といういにしえの物語が最も遠い過去としてこの作品の底流をなす。それから月日が流れペトラは忘れられ、ベドウィンたちの旅の中継地としてささやかに利用されていたはずだが、1812年8月にスイス人の探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトがペトラの存在を初めて西欧に伝え、20世紀には発掘調査そして観光地化されていく。ペトラに住んでいたベドウィンたちも追い立てをくらい、今ではかつて栄えたペトラはその繁栄と喧騒がまるで夢であったかのように静寂に支配されている。

 

サマウェインは父親の遺したダイヤル錠付きの黒い旅行鞄を持っていて、これを開けることができるのも中に何が入っているのかを知っているのも彼だけ。彼は消え去ったものを想い出すため精霊の谷がよく見える岩場まで行って時々鞄をひらく。鞄の中には紐で束ねられた書類や写真、手紙が入っている。そんな宝物の入った鞄をサマウェインは大切にしている。

 

1990年冬、「私」ことジョン・ブルクハルトはペトラ遺跡の隘路を歩く。歩きながら、「時の神秘」に踏み込んでいく。1812年8月にここを歩いたスイスの探検家ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトに自己を重ね合わせるのだ。語り手がこの探検家を知っているのは本で読んだから。「あの本に書かれていたのは、私自身の物語だった。自分の奥不覚に書き込まれたその物語を、私は歩みを進めるごとに確認してきたのだ。」(151頁)どうしてそう思うのかは書かれていないからわからないが、ジョン・ブルクハルトはペトラを歩くことで自己のアイデンティティを確かめている。そこで出会ったひとりの少女にもらった「熾火のような真紅の小石」を契機にジョンはかつてスイスの探検家が辿り着いたペトラとは別の世界を見出す。

 

サマウェインは「海の向こうのずっと遠い国に住む女性」を案内して、ペトラを歩き回った、その思い出を回顧し語る。雨上がりに精霊に見えた「あなた」に語りかけるような懐古はしかし「あなた」がいなくなってしまったことと、あの錠のついた黒い旅行鞄を人に譲ってしまうことで終わる。それ自体が小さな「宝物殿」のようであった旅行鞄を手放してサマウェインは少年時代に背を向けるのだ。

 

北にあるベドウィン・ヴィレッジへ向かうぼくの足取りは軽かった。死期の迫った馬が山に放たれることはもうない。死ぬまでこき使われ、道端に膝をついて倒れこむときには、屠畜人の手に引き渡されるのだ。

(前掲書、174頁より引用)

 

神話の時代から遠く離れた場所で、ひとり毅然と過酷な現実へ戻って行く少年の姿でこの作品は閉じられる。ひたすら思い出を反芻しているようでいて、実は「過去」をこえて行く瞬間を描いた作品だと思う。「過去」をこえていくには宝物は捨てなければならない(それはもう二度と戻らない父親や母親との決別でもあるか)。ちなみにサマウェインが手放した黒い鞄にはその後、別の人物の宝物でいっぱいになるだろうという予感も書かれる。それゆえに「宝物殿」はいつも未完なのかもしれない。

 

関連記事↓

mihiromer.hatenablog.com

 

 

声の波間を―古川真人「ラッコの家」

今と昔が重なり合う瞬間というのがあるとすれば、それは生きていることの、生きてきたことの、生きていくことの肯定であると思う。

タツコは「声」によって描き出された空間の中にぽっかりと浮かび、踏み外して落ちた海にぽっかりと浮かぶ子供時代の自分を見つめる。「きっとあの子に言ってやろう」というラスト、それはタツコ自身が生の波間に漂い続けて見出した、とても力強い肯定なのだと思う。それと同時に、この作品は単なる記憶の作用や回想を描いたものではなくて、ちょっと面白い日常に潜む変身譚でもある。

今回は『縫わんばならん』(第48回新潮新人賞)でデビューした作家、古川真人さんの最新作「ラッコの家」(100枚『文學界』2019年1月号掲載)という作品の感想を書いていこうと思う。

 

文學界 2019年1月号

文學界 2019年1月号

 

 

古川真人「ラッコの家」 

 

この作品はとても幸福な小説なのだと思う。

「声にあふれている幸福感」という言葉がぱっと浮かんだ。地の文と会話がひとつづきの表現になっていて、作中には方言による声があふれている。そのことの幸福をこれほど表現しきった小説は多くはないと思う。

 

こっちから言うだけっていうのも、そう、いかんとたい、そうそう、会話せんといかんとやろね、うん、こっちからあっちからって、一方じゃのうしてね、おたがいに行ったり来たりさせて、そうたい、行ったり来たりの声のあいだに、あるんやろうね、うん、あるっちゃろうね、不自由せんでくつろげるところが。

(前掲書、166頁、古川真人「ラッコの家」より引用)

 

主な登場人物であるタツコがふたりの姪やその子供らと夕食をしている前半と、雨の降る前に買い物に行って帰ってくる後半というふたつのパートからなる。目の前の現実(特に音が印象的なのだ)からいつの間にか記憶の風景を見てしまうタツコは子供の頃よく足を踏み外してはいろいろな所に落ちてしまっていた。そんな自分を見ているような回想の書き方は時は時にタツコがふたりいるような錯覚を生む。

過去の自分が幸せだったか、そうでなかったかということはよくわからないこともあって、だからこそ回想という形をとってもう一度見つめ直すことで組み立ててみることができるのかもしれない。今の自分が過去の自分に対して言葉を投げてやることも、それによって当時考えていたこととは違った意味づけを与えてやることもできる。過去は変えられないとよく言われるけれど、定点として定まった過去などというものは本当はなくて、こうして組み立て直した記憶が過去と呼ばれるのかもしれない。そしてこの組み立て直しは生の肯定なのだとも思う。なんであれ、ここまで「生きてきた」現在があるからこそ、組み立て直すことができるのだから。

 

 いまは自由で、気楽にひとりで居れて、とタツコは部屋を見渡してみれば、白々とした蛍光灯の明かりに照らされて、ぼんやりとした視界のなかを、ふたりの姪が何やら動きまわっていたから、もう、でけたと? と訊くと、できた、いいにおいじゃろ、姉ちゃん、ソースばとってよ。これや、ちがうね、お好み焼きソースは、これかな? うん、それと、ビールばのみたいとやけど、運転せにゃけん。そうたい、ビールは家でのみない。そうする、とミホとカヨコの話す声を縫うようにして、彼女の鼻先に料理の香りが漂ってきた。お箸は、もう人数分でとる? とカヨコが言い、ミホが箸置きを触っているらしい、じゃらじゃらという音をさせているのを聞いていたタツコは、自分の指先に何か冷たいものが触れたように思った。  

(前掲書、154頁、古川真人「ラッコの家」より引用)

 

引用したこの部分には二つの面白さがある。ひとつは少し前に書いた通り、地の文と会話がひとつづきの表現になっていること、こうすることで作中に「声」があふれ出す。それからもうひとつは「声」とも関係があるのだけれど、この作品の特徴として「音」によって空間を描き出そうとしている点が挙げられる。引用部分では、ソースや箸置きといった「物体」の存在を音によって作中に出現させている。「ソースばとってよ。」という言葉が読者の前にソースを呼ぶし、箸置きのじゃらじゃらという音もまた、そこに箸があることを表現している。ほとんど喋った言葉、あるいは鳴らされた音によってつくられる空間の描き方がとても面白かった。物の配置や部屋の間取りを説明する地の文が方言という話し言葉(=音)でつくられているという新鮮な空間表現だ。

 

笑い声が部屋のなかを響き渡り、その笑い方のよく似通った音の波のなかを、タツコとカヨコとミホの誰ともつかない、おやこでトドってや! おやじゃのに、よういうたい! うちもいわれたって! いわれとるぞ、あそこんいえばだれもかれもトドだらけって!

(前掲書、156頁、古川「ラッコの家」より引用)

 

日常会話の中でよく聞かれるちょっとした比喩表現というものがあって、ごろごろだらだらしていると「トド」扱い、など人間とは違う動物に人を喩えることがある(比喩による変身だ)。この作品には関係ないけれど「馬車馬のように働く」とか、ああよく言われるやつ、「どこぞの馬の骨」なんか生きてさえいないんですけど(ひどい言葉しか思いつかない汗)。

それから、話し言葉が「音」であるからこそ生じる変身、つまり聞き間違いがこの作品をユーモラスにしている。人間を海獣に変身させることで、行ったり来たりの声のあいだにある不自由しないでくつろげるところを見出したタツコののびやかな気持ちを海中に表現すると、夢幻のような風景がしっかりと現実に根を下ろす。タツコの日常から遊離しすぎずに登場人物を海中に泳ぎ回らせる大胆さが魅力的だった。

 

関連記事↓↓

mihiromer.hatenablog.com