言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

〈旅〉の終わりに、やっと始まる―プルースト『失われた時を求めて』第七篇「見出された時」

時を失いながら、旅するように本を読む。目的地らしきものはたぶん一生見つからないのだから、これは旅というよりむしろ彷徨とか、かっこつけなくて良いなら迷子とか言った方が的確かもしれない。平成最後の夏、などと言われているこの時の中で、私はひとりマルセル・プルーストの長大な小説『失われた時を求めて』を読んでいた。そして先日、読み終えてしまった。最終篇の「見出された時」を手に取った時、小説の「語り手」は時の中に一体何を見出すのだろう? と思ったことさえすでに遠ざかってしまった。存在するもののすべてが「時の奔流」にさらされている。押し流され続けることが、生きて死ぬことなのだろうと(あるいは生じて滅することだろうと)思う。しかし、どこかにこの激流をかわせるような瞬間があるのではないか? たとえば小説の語り手が紅茶とマドレーヌで啓示を得たあの時のように。

 

マルセル・プルースト 著、鈴木道彦 訳

失われた時を求めて12 第七篇 見出された時Ⅰ』(集英社、2000年)

失われた時を求めて13 第七篇 見出された時Ⅱ』(集英社、2001年)

 

失われた時を求めて 12 第七篇 見出された時 1 (集英社文庫)
 

 

 

失われた時を求めて 13 第七篇 見出された時 2 (集英社文庫)
 

 

最終篇を手に取った読者は、コンブレ―の近くタンソンヴィルにあるサン=ルー邸の窓からの光景を読むことになる。コンブレ―の教会の鐘塔が遠くに見える。長い長い時を経て、どうやら再びコンブレー付近に戻って来たような感慨と共に読み進んでいくと、なつかしさよりは時の経過の惨さを感じずにはいられなくなった。

ゴンクール兄弟の日記(小説の中に登場するのはプルーストによるパスティーシュ)を読んで語り手に生じた文学への疑念、第一次世界大戦下で空襲に晒されるパリ、夏の夕暮れの空を飛ぶ飛行機、この不穏なものさえ時に美しく見えてしまう不思議。ジュピヤンの宿で快楽を貪るシャルリュス氏、それからサン=ルーの戦死の報。

たくさんの出来事が語り手周辺を流れ、そして消えていく。

 

ある日語り手のもとへ一通の招待状が届く。それはゲルマント大公邸での午後の集い(マチネー)への招待状だった。出掛けて行った語り手はゲルマント大公邸の中庭で不揃いの敷石につまずいたのを皮切りに、次々と無意識的記憶の奔流に飲み込まれ、やがてその意味を掴み上げた時に〈時〉の呪縛を振り捨ててその「外側」にいる存在を見出すのだった。

我々がいつも「日常」だと思って漫然と見ているものは「現実」ではなくて習慣のために多くの要素を落としてしまったあとに残された「あたりまえ」にすぎない。そうではなくて真に「現実」を見出すこと、見出したことを表現するのに既成の表現はやくに立たないからこそ文学の表現を追求すること、それが芸術である。人生が素晴らしいのは素晴らしい風景を見ることができたからではなくて、その風景を素晴らしいと感じる何かがあったからだ。その「何か」こそ、散歩の途中で見たサンザシや木々が語り手に囁いていたこと、またあの印象的なマルタンヴィルの鐘塔を見て語り手が得た感慨であり、紅茶とマドレーヌ、バルベックのホテルの硬いタオルやスプーンの音などから甦った無意識的記憶の奔流の中から語り手が掴み上げた一瞬の「永遠」なのだ。

 

いわゆる「仮装パーティー」と呼ばれるゲルマント大公邸での午後の集い(マチネー)の描写と、語り手のこれまでの人生の多くがサン=ルー嬢に結び付けられること、そして語り手が今こそ一冊の書物を書こうと決心したことが後半で語られる。

(これまでの人生がサン=ルー嬢に結び付けられていくというくだりで、私はこんなことを思った。よく自分に関係する人々同士が別の場所でふいに繋がるような時に「世間って狭いね」などと言うが、そう思うようになるのもまた〈時〉の作用なのかもしれない。〈時〉が人の心に作用してそう思わせる、というかその人が生きてきた時をそんなふうに意味づけて組み立て直しているというか。)

「仮装パーティー」(時が人々を〝仮装〟させたかのような、けれどもこれは仮想ではなかった)で感じさせられる時の経過はやはり酷い。語り手は一冊の本を書こうと決心したものの、そうすると今度は自分に残された時間のことが心配になる。果たして書き終えることができるのか、と。

(このあたりを読んでいると語り手がプルーストと、語り手が書こうとしている一冊の本というのが『失われた時を求めて』と重なり合ってしまう。実際に『失われた時を求めて』を完成させる前にプルーストは世を去ることになってしまった。)

まるで円環が閉じるように、スワンを送ってゆく両親の足音と、スワンが帰って行くことを告げる門の小さな鈴の音が聞こえて、この長大な「時」の小説は終わりへ近づく。第一巻ではスワンの来訪を告げていたあの鈴の音が、今度はスワンが帰っていく音として響くのだ。

 

おそらくその生活は、少しずつ、感じられないくらいに、私たちも内部で進行しているのだろう。そして私たちにとってこの生活の意味や様相を変えたさまざまの真実、私たちに道を切り開いた真実、そういった真実の発見を私たちはずっと前から準備していたのであろう。しかもそれと知らずに準備してきたのである。だからこれらの真実は、私たちにとってそれが見えるようになったその日その瞬間から、やっと始まるにすぎないのだ。

(『失われた時を求めて1 第一篇 スワン家の方へⅠ』321頁より引用)

 

 

空間の中でひとりの人間が占める場所は小さな点のようなものだが、時の中に占める場所は際限なく大きくなる、そんなことが書かれて『失われた時を求めて』は終わる。

語り手は自分の本を読む人たちについて「彼らは私の読者でなくあて、自分自身のことを読む読者」(206頁)だと語る。この本を読んで、私はこれまで六つのブログ記事を(この記事を入れて七つだ)書いてきたが、それは私だけの感慨だったのかもしれない。読んだその時の私が感じたものは再読でまた変わっていくのかもしれないし、また別の時の自分を映しだしてくれるのかもしれない。

失われた時を求めて』13巻分の私の「旅」は四か月だった。四か月の間、失われた時を求めて迷走し続けていた間に、平成最後の夏と呼ばれる時は過ぎていった。

 

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