言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

琵琶の花、咲かせる。語りの鎮魂―古川日出男訳『平家物語』

今更、なんて言わないでもらいたい。

2018年の私の読書は『平家物語』で幕を開けた。2016年の十二月に、新しい現代語訳が出ていたのである。

 

古川日出男 現代語訳『平家物語池澤夏樹=個人編集 日本文学全集09 / 河出書房新社、2016年

 

 

平家物語』というと、「祇園精舎の鐘声~」で始まる栄枯盛衰のフレーズを子供の頃に暗記させられたというひとも多いのではないだろうか? 私もそうだった。それから学生の頃に文庫で出ていた古典バージョンを読んで、好きな作品になっていた。だから「現代語訳なんて!」と思っていた。

だけれど。

この現代語訳はとても面白かった。今更、なんて言わないでもらいたい。そもそも13世紀頃(諸説あり)に成立したと考えられているこの物語、かれこれ700年以上、人間の声、声、声、によって語り伝えられてきたのである。それから、撥、琵琶。

 

撥は鳴らしておりますぞ。琵琶を。一面の琵琶のその絃を。しかし、ああしかし。

平家の陣地からはなんの音もしないのです。

人をやって調べさせますと、なんと、「みんな逃げてしまっております」と申すではありませんか。

(前掲書「五の巻」343頁より引用)

 

訳者は語る。「私は、平家が語り物だったという一点に賭けた。」(前掲書、前語り)『平家物語』の現代語訳に取り掛かってたしかに、このテキストが複数の人々の手によるものだ、「今、違う人間が加筆した」とふいに書き手が交代したことがはっきりと感知されたのだという。文章に真摯に向き合っていればおのずと見えてくる、あるいは聞こえてくる語りの呼吸とでもいうものだろうか。その息遣いを新しい「聴衆」とも言える現代の読者に伝えるため、訳者は大胆な加筆をほどこした。様々な資料やうわさ話、思い出話を継ぎ合わせる形で作られたと考えられている『平家物語』に、現代の文学作品の水準にひけをとらない「構成」を与えたのだという。つまり、琵琶の音、琵琶法師の語りを。

 

一つ鳴れ。鳴らせ。よ!

また一つ鳴れ。二つめの撥、鳴らせ。た!

いま一つ鳴れ。三つ目の撥、鳴らせ。は!

それから控えよ。この三面、撥三つ。琵琶と琵琶と琵琶、三分の天下の寿永の三年。いよいよ戦さにつぐ戦さに次ぐ戦さの年は来る。合戦の年は、来る。いや、もう来た。しかしまずは静けさがある。寂しさがある。そこからだ。

寿永三年正月一日。

(前掲書「九の巻」冒頭、529頁より引用)

 

古川訳のあちらこちらの見られる「琵琶」への言及は古典版には存在しない。「語り」を重視した現代語訳のために訳者によって付け加えられたものである。この付け足しと古典にもともとあった部分が切れ目なく連なり、しかも古典を読む時にありがちな註釈の類が一切ないため、この本を紐解く者は寸断されることなく「語り」に耳を傾けることができるのだ。まずはこのことに驚きながら読み始め、気がつけばのめり込むように読んでいた。上質なエンターテイメントである。頭の中で声が響き続けた。

さらに言えば、琵琶法師が聴衆に向かってかつて語って聞かせた『平家物語』の言葉は、もともと身分や男女など関係なしに世の中のあれこれに対して(たとえば合戦の武勇譚、または哀れ)溢れ出した不特定多数の人々の言葉であった。池澤夏樹は解説で「昔々の歴史は人の行いを記すものだった。」(895頁)と書いているが、まさにそう思えるような、人の肖像が(しかも「物語」の同情人物ですらない人の肖像までもが)浮かび上がってくる素晴らしい現代語訳なのである。

 

そう、この悲しみを語るにはそれに相応しい声があります。私のこの声ではございません。よって、私の声はここにて消えましょう。懇ろに懇ろにと努めます古式ゆかしくもあったこの声は。しかし、まだまだ、大地震とともにいずこかより決壊してあふれた無数の、無数の、声々。零れ出た声、声、声。そして音も。そして歌も。たとえば女の哭(おら)び、音。たとえば女の歎き、

歌。

撥。

琵琶。

鳴れ――。

(前掲書「十二の巻」816頁-817頁より引用)

 

ふいに遭遇する語り手の交代、それに物語の背後に息づく無数の存在への暗示。

この十二の巻は平家が亡んだ年に発生した大地震についての語りから始まる。日本の古典文学を読んでいてよく見かけるのが「怨霊」「祟り」の存在である。その繁栄ぶりが怪物めいてさえいた平家が亡んだ、その後で起きた大地震を当時の人々は平家の祟りだと思ったかもしれない。『平家物語』作中にも、そういう挿話がいくつかある。不遇のうちに死んだ人の怨霊が現世に影響を与える、それはとても恐ろしい。だから祟りを鎮めなければならないと、死者を慰めなければならないと人々は思う。源平合戦でもたくさんの人が死んだだろう、その後の大地震でもたくさんの人が死んだだろう。するとたくさんの亡霊が現われる、現われて、物語りしてもおかしくはない。亡霊のように、様々なひとが語り手として立ち現われても不思議ではない。亡霊は語ることで慰められるかもしれない、聞くこともまた鎮魂になるのかもしれない。琵琶の音に乗って響いた琵琶法師の声、それを借りて語られた物語。それは魂を鎮める、鎮魂の役割を担っていたのかもしれないと思った。琵琶の花咲かせる(琵琶を鳴り響かせる)というのは、語りの鎮魂なのだ。

 

一つの夢がある。琵琶が咲いている。あちらにも、こちらにも咲いている。何面の琵琶があるのか。それらはあたかも極楽浄土に蓮華が咲くように咲く。時にはぽんと鳴って蕾を開く。ぽんと。ぽんと。それから張りつめた絃が、びんと。びいんと。咲いている。蓮華は浄土に咲き、しかし、罪に穢れたこの娑婆世界にもある。この穢土にも。すると琵琶は、当然ながら江戸にもある。あちらにも、こちらにも、あって、いずれ咲く。いずれであるのならば今ではない。すると夢は覚める。

覚めれば寿永三年。

(前掲書「十の巻」619頁より引用)

 

幻想的だ。琵琶が咲く、という夢のような表現から思わず、琵琶に似た形をした甘い実をつけるという枇杷を想像せずにはいられない。これは一読者の勝手な想像でしかないけれど、こういう連想がまた「語り」に甘い香りさえ添える。