Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

紙ヒコーキは投げ放たれた―チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』

最近、私のまわりでふつふつと、韓国文学が話題になり始めている。好きな小説家のひとりである小山田浩子さんの『穴』が昨年9月に韓成禮(ハン・ソンレ)さんの翻訳によって韓国で出版されたり、注目していた「小さな文芸誌」である『吟醸掌篇』vol.2の読書人コラムに「どこどこ文学/朝鮮・韓国文学篇」が掲載されたりと「韓国文学」を意識する機会が多くなっていた。地理的にはこんなにも近いのに、何故かラテンアメリカ文学よりも馴染みのない韓国文学に足を踏み入れる準備が2017年一年を通してゆっくりと進んでいたらしい。韓国の文化や政治状況、歴史など予備知識がほとんどないままに、私は今回ご紹介するこの本を手にとった。

 

チョ・セヒ 著、斎藤真理子 訳『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社、2016年)

 

こびとが打ち上げた小さなボール

こびとが打ち上げた小さなボール

 

 

※この作品は『吟醸掌篇』vol.2で、『韓国文学を楽しむ会』運営のともよんださんによっても紹介されています。

 

1978年に韓国で出版されるやいなや大きな反響を呼び、純文学としては異例のベストセラーとなった。「現実参与と純粋文学の双方を見事に結実」させたこの作品は、十二年も途絶えていた文学賞「東仁(トンイン)文学賞」の久々の受賞作にもなったという(以上、訳者あとがきより)

 

「撤去民の問題や労働運動という深刻なテーマを正面から扱い、しかもそれを幻想をまじえた独特の物語世界に仕上げたこと。貧民層・中間層・富裕層それぞれの声が連なるポリフォニックな構成。そして書類やアンケート調査の結果を挿入したノンフィクション風の手法など、すべてが斬新だった。」

(前掲書、訳者あとがき350頁より引用)

 

12篇からなる連作短篇集で、読み始めた当初「連作」であることに気がつかなかったのだが、読み進めるうちにそれぞれの作品が語りの視点を変えつつゆるやかに繋がっていることに気がつき、読み通して振り返ってみると1冊の本になっていることの尊さに思い至った。物語は1970年代の韓国を舞台にした貧しい「こびと」の一家を巡る受難と、それを取り巻く富裕層、中間層の生活の描写によって成り立っている。しかしそれだけにとどまらずこの作品には幻想的とも言える描写がいくつも登場する。理想を重ねられた「月の世界」、五十億光年という時間と永遠と死についての、登場人物の思考のつらなり。

 

死について考えるとき、いつも思い浮かぶひとつの情景がある。それは砂漠に続く地平線だ。日暮れどき、砂まじりの風が吹いている。一本の線になった地平のはてに私が裸で立っている。足を少し開き、腕を胸に引き寄せて。半分うつむいているので、髪の毛が胸を覆う。目を閉じて十数えると、私の姿は消えて、ない。灰色の地平線だけが残り、そこに風が吹いている。これが私の考える死だ。こういう死が永遠と関係のないわけがない。

(前掲書126-127頁より引用)

 

長くなりすぎるので引用することはできないが、エピローグのひとつ手前の章「トゲウオが僕の網にやってくる」で富裕層の青年が見た「オオトゲウオの悪夢」というのが描かれる。そこからの目覚めと美しい夕焼け、死んだ祖父の老いぼれ犬、使用人の女の子の所作から思い出されるこびとの妻の仕草……おそらく夢の中で青年を脅かす「やせおとろえ、骨と棘ばかりの体に二つの目と胸びれだけがついたオオトゲウオの群れ」は、「こびと」の一家に代表される下層労働者たちの姿の変形だろうと思うが、そこから覚めてから夕焼けや光の微粒子という美しい光景を経て「死んだ祖父の老いぼれ犬」「こびとの妻の仕草」とイメージが回帰する。この描写の流れが複数の社会階層や様々な状況(経済的困難、精神的困難)を横断的に表現しているのではないだろうか。

 

一読目は暴力描写の強烈さばかりが目についてしまっていたが、冷静に再読してみると、現在時にいきなり割り込んでくる断片的過去と現在の結節がとても良いことに気がつく。終始「どちらに属しているのか?」「正しいのはどちらか?」という疑問を喚起させつつ、結局のところ作品一冊丸ごと「メビウスの帯(輪)」になっていることに驚く。どちらとも言えない、きっかり分けることのできない混沌とした70年代韓国の、矛盾を含んだ社会が描かれている。「メビウスの帯」「クラインのびん」、どちらも内側と外側が判然としないものであり、理論としては「ある」(考えられる)が、現実の存在としては「ない」(捕えがたい)ものということができないだろうか? その点で「僕」が夢見た愛による理想社会もメビウスの帯やクラインのびんに重なりあう。愛による理想社会の実現をときながらも「父さん」が「こびと」だと嘲笑されれば相手に対して「憎悪」を抱く。

 

「こびとだ」とみんなが言った。父さんが車道を渡るとき、車の中の人たちはわざとクラクションを鳴らした。彼らは父さんを見て笑った。ヨンホは、地雷を作って彼らが通る道の地下に埋めてやると言っていた。「大きい兄ちゃん」ヨンヒが言った。「お父ちゃんをこびとなんて言った悪者は、殺してしまえばいいのよ」。心に秘めた大きな憎悪のために、薄い唇が震えていた。ヨンホが埋めた地雷が爆発する音を、僕はよく夢の中で聞いたものだ。彼らの乗用車は炎に包まれ、その中で彼らが泣き叫んだ。

(前掲書225頁より引用)

 

 ※実は本文中、この部分は一文字分下がった過去の回想パート。このすぐ後にアルミニウム電極製造工場の熱処理タンクの爆発事故が語られる。「夢で聞いたのと同じ泣き声を僕はウンガンに来て聞いた」。過去からの印象、「爆発」や「炎」による暴力のイメージが語りの現在時に引き継がれている。

 

理想としてはいくらでも語れる「愛の聖人」なんか、実際にはいないのだ。同様に、冒頭で教師が生徒たちに向かって話す煙突掃除のエピソードも思い出される。二人が同じ煙突を掃除したのに、ひとりの顔が汚れていてもうひとりの顔が汚れていないということは「ありえない」というあのエピソードだ。

 

「生理的リズムの攪乱」という暴力による人間疎外が鋭く描かれている。

 

シネは、人工照明に照らされた養鶏場の鶏たちのことを考えた。卵の生産量を増やすために飼育者が養鶏場に人工照明装置をとりつけている写真を、どこかで見たことがある。養鶏場の鶏たちが味わうおぞましい試練を、こびとも私も一緒に味わっている。鶏と違うのは、卵を産まない私たちは、生理的リズムを攪乱されてどこまで適応できるか、どの程度で病気になるかという実験に使われている点だけだ。

(前掲書、51頁より引用)

 

この本の別の個所で、深夜も働かされる工場労働者の姿が描かれており、その労働者たちは睡魔に負けそうになると現場監督者にピンで刺される。煌々と明かりの灯った深夜の工場と養鶏場は重ねられ「生理的リズムの攪乱」による暴力を描いている。このあたりはすぐに気がつくのだが、さらに攪乱の暴力を挙げることができる。

 

向かいと裏の家のテレビは夜がふけたことも知らないようだった。

(前掲書、53頁より引用)

 

これは中産階級の生活圏を描いた部分だ。一見すると技術の発展や生活の向上を象徴するように思われる「テレビ」であるが、「生理的リズムの攪乱」という点では一種の暴力装置と言えそうである。「夜がふけたことも知らない」のだから。こういう暴力による人間疎外のイメージが深く印象に残る作品だった。同時に様々な階層の人々を描いているのだが、どの階層であれ「家族」という呪縛を抱えているのではないかとも思う。「養う」「養われる」という、深く考えなければどこにでもある生活の現象が時に暴力装置として機能することもありうるのだ。貧困や自らの思想による苦しみからの脱却はできるのだろうか。もしも世界が「メビウスの帯」であるならば、だれひとり、どこにも行けないことになるのだが。

 

僕は土手に行って、まっすぐに空を見上げた。れんが工場の高い煙突が目の前に迫ってくる。そのいちばんてっぺんに、父さんが立っていた。父さんのほんの一歩ぐらい先のところに月が浮かんでいる。父さんは避雷針をつかむと足を一歩踏み出し、その姿勢で、紙ヒコーキを投げ放った。

(前掲書、102-103頁より引用)

 

 

吟醸掌篇 vol.2

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穴 (新潮文庫)

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この作品が韓国で翻訳されたらしい。どんなふうに読まれているのだろう?

日韓の文学交流は今後知りたいところではある。

 

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