Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

天空と海洋のはざまで夢をみる―ル・クレジオ『黄金探索者』

 

 

この小説は天空と海洋の、途方もなく広い世界へとひらかれた物語である。

 

ル・クレジオ 著、中地義和 訳『黄金探索者』(新潮社、1993年)

のち『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅱ-09』(河出書房新社、2009年)所収。

※当ブログ内の引用ページ番号は『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集Ⅱ-09』に依る。 

 

 

あらすじを一言で言ってしまえば、小説の語り手「ぼく」(アレクシ)が、父の残した地図を頼りにかつての「海賊」の財宝を探すという、宝探しの物語である。

 

その間ぼくは机のそばに突っ立ってじっと動かず、星図と並んで壁に鋲で留められたロドリゲス島の地図をちらちらと眺めている。これ以後に起こったいっさいのこと、あの冒険、あの探索が、現実の大地の上ではなしに空の国々で起こったことのように思え、ぼくが旅を始めた船がアルゴ船であったような気がするのは、きっとそのせいだ。

(前掲書、251頁引用)

 

アレクシはこの「宝探し」によって、すべてを取り戻そうとする。というのも、彼の父が事業に失敗して破産し、幼少期に世界のすべてだと思っていたブーカンの谷の家までも失ってしまっているのである。この小説は失われた過去の時間をなつかしみ、いつくしむような「ぼく」の語りに支えられている。「思い出すかぎり遠い昔から、ぼくは海の音を聞いてきた。」(209頁)アレクシが思い出す時間にはいつも海が近くにある。ブーカンの谷をおわれた一家が移り住んだフォレスト・サイドという所での灰色の暮らし(この頃、アレクシの父は亡くなる)には一見海は出てこないのだが、かつての海賊の伝説を夢想する語り、またボロボロの家がたびたび「船」にたとえられることによって、読者は常に海を想起する。アレクシは港でゼータ号というスクーナー船と遭遇し、ロドリゲス島へと旅立っていくことになる。

それから「星空」。これも忘れてはいけない。アレクシはたびたび夜空を見上げる。それは失われた幼少時代に父に教えられながら「星の小道」を歩いて星座を覚えたころからはじまる。ゼータ号という名前の船に乗って宝探しの航海に出た時もその甲板上で、またロドリゲス島の谷で孤独な探索を続けている間にも、たとえ第一次世界大戦に身を投じている間でさえ、アレクシは星空を見上げてしまう。特にたびたび言及される「アルゴ船」、この星座は残念ながら日本から全体を見ることのできない南の星座のひとつだ(この小説の舞台は南半球のモーリシャス島と、その近海、島である)。アレクシは自分の冒険をたびたびアルゴ船一行の冒険(ギリシア神話)に重ねている。

 

何もかも静まり返り、止まってしまった。地上の時間は宇宙の時間だ。ヴァコアの絨毯のうえに横になり、ウーマといっしょに軍隊の毛布にくるまって、ぼくは星を眺めている。

(前掲書、474頁より引用)

 

これが、「宝探し」の結末と言っても過言ではない。地上と宇宙が重なり合うということを知る、その過程がひたすら「黄金探索」として描かれているように思える。「宝探し」は終始、目線が下ばかり向いてしまう行為だ。谷を測量し、図面と比べ、その図面に新たに見出した地形の「意味」を刻み付けていく。つるはしを打込み、穴を掘る。

もしも、こういった作業を夜空に対して行うとすれば……?

それが「星座」ではないか? と私は思う。子供の頃、「星座」というものがよくわからなかった。プラネタリウムで見る夜空には何故「絵」が浮かんでいるのか? 実際の空にはどこを探したって絵なんか見つからない。それなのに、夜空を見上げるとついつい「星座」を探してしまう。

この目でとらえることのできない神話的な絵の数々は、古の昔に生きた人々が天空に対して刻み付けた意味であり、生の痕跡であると言えないか。そしてそれは「黄金探索者」が地上に対して行ったことと同じではないだろうか。点と点を結び、浮かび上がる図形になんらかの意味を与えていく。また「星」には動きがあるからその法則性を見出して我々人間が感じている「時間」の中に落とし込んでいく……。

 

アレクシがまだブーカンの谷の家で暮らしていた頃の思い出のひとつに、姉のロールと過ごした屋根裏部屋の時間がある。そこでふたりは古新聞や古雑誌に掲載されている広告を見ながらお互いに贈り物をしあう、という空想の遊びに耽る。この時ふたりにとって重要だったのは実際の「物」ではなくて、おそらく「贈物をしあう」という行為のほうだったのだろう。この感覚はアレクシが見出すことになる「黄金」が物質的な「財宝」ではないことを予感させる。ル・クレジオの作品はいつも光が美しい、とりわけ、夕べの描写が素晴らしい。金色の夕日がその時々の語り手の感慨とともに語られていく。

旅の方向はいつも「回帰」だ。しかしそれは単なる原点回帰というだけでない。ラストはまだ見ぬ旅(もうないかもしれない旅)への美しい幻視である。読者の想像は果てしなく広いところまでひらかれているのだ。

 

私はもう何度もこの小説を読んでいる。本当に好きな作品なのだ。今回は語り手が自身をかつての「海賊」と重ねあわせ、同一化をはかっていくところに面白さを見出したりもした。語り手の「ぼく」はふいに戦争に身を投じていくことになるが今までこれがどうしてなのかよくわからなかった。今回読み返してみて、「ぼく」の戦争経験はかつての「海賊」が略奪と殺戮の日々を生きたこと、そしてその成果して「黄金」を得たことと重なり合うように思えた(「ぼく」は戦争によって報奨金を手に入れており、実は物語の後半ではお金に困っていない)。そして「自由」のために、得たものもすべて手放してしまったのだろうかつての「海賊」と自身を重ねあわせ、「ぼく」もまたすべてを手放してただ未来というまだ見ぬ時間への憧れを抱くのだろう。

 

『黄金探索者』刊行直後のインタビューで著者のル・クレジオがこんなことを語ったという。孫引きになってしまい申し訳ないのだが、本書の訳者あとがきより引用メモを残してこの記事を終えたい。

 

「私の興味を引いたのは、祖父がその生涯を夢のなかで過ごしたということです。私も祖父と一緒に少しばかりその夢を見たかった。この小説はその夢の結果です。[……] 私は自分のものではない過去とともに成長しました。しかしその過去は、強い喚起力によって私のなかに深く根づいていました[……] 祖父がひとつの妄想のなかにすべてをなげうったのに対し、私は、夢見ることですべてを取り戻そうと試みています。」

(前掲書、505頁より引用)

 

※「黄金探索者」は作者の祖父の思い出をもとにして書かれた作品です。

 

 

黄金探索者 (新潮・現代世界の文学)

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