Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

ポラリスまで―ル・クレジオ『氷山へ』

雑然とした日常生活の中で、ふいに、すてきな詩に巡り会った時のよろこびって確かにあると思いませんか? 詩に限らないけれど、なんか、こうすてきな表現。その時、雑然としていたはずの日常から一瞬だけ抜け出したような気持ちになってどこかほっとしている自分に気がつく。「言葉」の美しさが日常に滲みだしてくることで、社会生活に溺れずに済んでいる。そのことへの安堵だろうか。

今回ご紹介する本は、まさにその言語によるよろこびそのものを、詩的な散文作品に仕立てた1冊。

 

ル・クレジオ 著、中村隆之 訳『氷山へ』(水声社、2015年)

blog 水声社 » Blog Archive » 2月の新刊:氷山へ《批評の小径》

 

「ぼくはアンリ・ミショーの詩を旅するように読みたい。」(12頁)

ル・クレジオのこの言葉が本書を一言で言いきっていると思う。「旅するように」。

 

この著作の原著「Vers les icebergs(Essai sur Henri Michaux)」は1978年に発表されたものだそうだ。今回私が手にとった日本語訳の書籍(2015年発刊)にはアンリ・ミショーの詩「氷山」「イニジ」を巡るル・クレジオのエッセイ(とても詩的)の他に、今福龍太「ことばの氷海への至上の誘い」、訳者あとがきが含まれる。もちろん、アンリ・ミショーの「氷山」「イニジ」も収められているのでミショーの詩を読んだことがないひとでも手にとって楽しむことができると思う。実際、私も今回はじめてアンリ・ミショーの詩を読んだ。ふだん、あまり詩を読むことがないので「詩の読み方」のようなことはわからないのだが、ル・クレジオが書いているように「詩」は「詩」そのものとして、つまり理論武装をして分析的に読むという読み方とは異なる楽しみ方があるのだと思う。詩の少ない、硬質な言葉のひとつひとつを時に取り上げて転がし、時につらなりとして流れるように読む。詩の言葉にもぐることも、詩の言葉を飛ぶことも許される。読むことそのものが至福と感じられるこの世界はル・クレジオの作品全般にも言えることだ。

 

〈氷山〉よ、手すりもなく、ベルトもなく、仕留められた老いた海鵜の群れと死んだばかりの水夫たちの魂が極北の幻惑的な夜々に肘をつきに来るその場所よ。

(アンリ・ミショー「氷山」(1934年)抜粋、『氷山へ』に掲載されています。)

 

アンリ・ミショーの「氷山」「イニジ」という作品の言葉による詩的経験を、ル・クレジオは旅するような言葉によって辿ってみせた。『物質的恍惚』に見られる透徹した言語の極地の美しさを楽しめる1冊だ。特に「氷山へ」という文章の、都市とそこを離れて行こうとする想像力の飛翔《旅》の二重うつしが素晴らしい。

 

最後の家並みは、その壁とその囲いで、ぼくたちを引きとどめる。電信線はぼくたちに巻き付いている。自由になるには、そのケーブル、そのコードを一太刀で断ち切らねばならない。出て行こう! ぼくたちが好むのは、広大なデッキだ、遠方の、無限の海だ! ぼくたちは前に進み、境界を踏み越える。おそらく運動はいまやぼくたちのうちにある。穏やかで力強い、緩やかな運動、長い間、はき出される息だ。そしてぼくたちはこの口から現われる風に乗って旅している。

(前掲書、23頁より引用)

 

「口から現われる風」、詩の言葉、それに乗って都市をから抜け出し海へ、そして氷山へと至る。アンリ・ミショーの詩の言葉によってル・クレジオの文章は「北」を目指す。都市の雑多さの中で思いがけず美しい詩に出会ってしまって生じた想像という運動が、ル・クレジオの詩的言語で表現されている。

 

併録されている今福龍太「ことばの氷海への至上の誘い」によると、ル・クレジオ文学は「北」と「南」がいつも豊かに触れ合っているという。南はル・クレジオにとって「心」。心の深奥部を求めるように書かれたモーリシャス、ロドリゲス、ナイジェリアパナマメキシコメラネシアのヴァヌアツの島々を素材に書かれたものが「南」にあたる。

対して「北」は「もっとも厳格な物質言語の極北」。『物質的恍惚』という著作に通じる言葉に対する美意識。

 

「世俗的な文明社会の呪縛に決別し、南への憧憬とともに心の側に離脱するのではなく、むしろ究極の物質性がもたらす陶酔の側に向けて逃れていこうとするときに浮上する、白い、透明な大気の土地だ。もっとも厳格な物質言語の極北。もっとも純粋で透徹した言葉の種子が、裸のままに生まれでる大地。」

(前掲書、98-99頁より引用、今福龍太「ことばの氷海への至上の誘い」)

 

ル・クレジオの作品は初期からメキシコ体験を経て変化していったことがよく言われるけれど、「北」と「南」という方位による分析ははじめて読んだ。また、ミショーの詩「氷山」(Iceberge)の、icebergというフランス語の不思議さについても書かれていて興味深かった。Icebergというフランス語は、英語由来の明白な外来語・借用語なのだ。「ル・クレジオにとって、フランス語の海のなかで孤独に自己を凝視する英語由来の“iceberg”の一語は、まさに彼の作家としての存在そのものの写し絵のように思えたのだろう。」(103頁)、「そう考えれば、“iceberg”という異形の語との遭遇は、まさに自分の分身のような存在との不思議な言語的邂逅でもあったことになる。」(104頁)とも分析されていた。

書くことで「旅」ができるなら、読むことでもまた「旅」ができる。馴染のない言葉によって組上げられた世界の中を視線によって旅をする。そうしているうちに、読者の側(現実)に少しずつ、異質な世界が滲みだしてくる。

 

北極星 POLARIS

夜、ぼくはもはやこの星のほかには眺めないし、そのほかはもう目に入らない。

星はその冷たい光線を拡大し、その後、四角い家々を押しのけ、格子を取り払い、扉と窓の掛け金を開け、邪魔なものを一層する。星は大西洋の上でただひとつ輝く。漂流する巨大な建物ははるか後ろにとどまったままだ。どこまで行くのか。しかし星から生じる言葉は忘れられがたい。その言葉はただひとつであり、それはそのまなざしのうちで樹氷色に輝く。(前掲書、38-39頁より引用)

 

ぼくたちは、空を見上げながら寝そべるひとたちのように、この言葉を絶えず聞きたい。ぼくたいは、知らないうちに、その言葉の国に、北の領域に到着したのだ。

(前掲書、39頁より引用)

 

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