Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

空想と驚きに満ちた残響が聞こえる―カルヴィーノ『まっぷたつの子爵』

もしも、絶対に割り切れないものが「まっぷたつ」に割れてしまったら……? それによって起こる様々な葛藤、滑稽な出来事の数々を上質な語りで聞かせてくれる物語、それがカルヴィーノの『まっぷたつの子爵』だ。

 

カルヴィーノ作、河島英昭 訳『まっぷたつの子爵』(岩波書店、2017年) 

 

 

まっぷたつの子爵 (岩波文庫)

まっぷたつの子爵 (岩波文庫)

 

 

この作品では、あろうことかテッラルバのメダルド子爵という人の「人体」そのものがまっぷたつになってしまうのである。小説の語り手である《ぼく》が語る叔父、テッラルバのメダルド子爵はかつてトルコ人との戦争に召集され、敵の大砲に真っ正面から突撃したがために、まっぷたつに吹き飛ばされてしまったのだ。

 

「叔父がテッラルバに帰還してきたとき、ぼくは七歳か、八歳だった。すでに日は暮れて暗くなりかけていた。たしか十月だった。空はどんよりと曇っていた。」
(前掲書、24頁より引用)

 

「やがて、担架が地面におろされ、黒ぐろとした影のなかに、きらりと片目が光った。年老いた乳母のセバスティアーナが大柄な体を揺すって近よろうとした。が、その影のなかから片腕が伸びて、鋭くそれを拒んだ。ついで担架のなかの体が引きつるように角張り、激しく揺れると、ぼくたちの目の前にテッラルバのメダルドは立ちあがって、松葉杖に身を支えていた。」(26頁)

 

戦場から帰還し、徐々に村人や読者の前に姿を現すメダルド子爵。この時彼は右半分だけの姿になってしまっていたのだ。しかもまっぷたつになってしまったのはメダルド子爵の体だけではない。「人間性」までもがまっぷたつに分かれてしまった。
小説の中でやがて、はじめに城に帰還したメダルド子爵は《悪半》、遅れて帰還したメダルド子爵は《善半》と呼ばれるようになる。《悪半》のメダルド子爵は「完全」な時にはわからなかった知恵のために「まっぷたつ」になることの素晴らしさを説くし、《善半》のメダルドは「完全」な時にはわからなかった不完全のつらさのために、「連帯の感覚」の尊さを説く。
《悪半》のメダルド子爵が次々と人を処刑にするような恐怖政治を行えば、《善半》のメダルド子爵は信じられないほどの善意で人々を救おうとする。ならば、善が悪を倒せばよいか、と言えばそんなに単純な話ではない。

 

「こうしてテッラルバの毎日は過ぎ、ぼくたちの感情はしだいに色褪せて、鈍くなっていった。そして非人間的な悪徳と、同じぐらいに非人間的な美徳とのあいだで、自分たちが引き裂かれてしまったことを、ぼくたちは思い知っていった。」
(前掲書、138頁より引用)

 

《悪半》のメダルド子爵に命令されて、処刑の機械や拷問の道具を作る馬具商兼車大工のピエトロキョード親方は、《善半》のメダルド子爵に制作物の残酷さを攻められる。親方の作るすばらしい道具は、いつも無実な人々を傷つけることになる。一体自分はどうすればいいのか? そうは思うけれど親方がいくら考えても答えは出ず、ただ作りかけの機械をさらに完全に、美しいものにするしかなかった。

このあと、なんやかんやで物語が「めでたし」となるのだけれど(結末は是非読んで確かめてください笑。短い作品なのですぐに読めます)、結局のところ「極端なもの」はそれが善であれ悪であれ、人を満たすことはないのだ、ということだろうか。

 

ところで、メダルド子爵がまっぷたつになってしまったという事件の顛末を語る「語り手」の《ぼく》は一体どこに立っているのだろうか。
答えは未来だ。
というのはすぐにわかる。語り手は叔父のメダルド子爵がまっぷたつになって巻き起こる様々な事件のずっと後の地点に立って当時の様子を語っている(「ずっと後」というのがわかるのは、メダルド子爵のその後の人生がすばらしいものになったということまで語ってしまっているから)。私がこの作品を読んでいて、どんなに残酷な描写がこようが(書き出しの戦場の描写は恐ろしいものだったけれど)安心して、作中のユーモアに浸れたのはこの語りの構造によるところが大きい。
語り手《ぼく》は当時を知るその他の人々(たとえばパメーラ)から聞いて知ったことなども含めて、「あの頃」の村の様子を語る。あの頃の《ぼく》は物語を次々に作り出しては喜んでしまうような空想癖があった、ということが小説の最後のほうで明かされる。《ぼく》のこの性質が、小説の語りを補強する。実際の《ぼく》のまなざし以上のことが語られていても許されてしまう。《ぼく》は物語る素質を持った愉快な語り手なのだから。
しかし、なぜ《ぼく》が「あの頃」を語ろうとしたのか、その動機は書かれていないので一切不明だが、そんなことを考えていると、最後の一行が味わい深いもののように思われてくる。

 

しかし船の影は水平線に沈みかけていた。そして責任と鬼火とに満ちたこの世界に、ここに、ぼくは残されてしまった。
(前掲書、154頁より引用)

 

7歳か、8歳のころからの数年。
叔父のメダルド子爵が「まっぷたつ」になって戦場から戻ってきたあの頃。

語り手にとってその「時」は、あまりに忘れがたいものなので、ついつい何度も思い出してしまうのか、そして語ってしまうのか。語り手《ぼく》が「あの頃」からどのくらい離れた地点に立っているかは想像するしかないけれど、物語として語られる事件のひとつひとつが大切なことのようで、その思い出のなかに、いつまでも空想と驚きに満ちた残響が聞こえるような気がしてしまう。