言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

30年という時間―津島佑子『半減期を祝って』

今回は津島佑子半減期を祝って』という本について感想を書いていきたい。この本には表題作のほか「ニューヨーク、ニューヨーク」「オートバイ、あるいは夢の手触り」という短篇小説が収録されている(初出はいずれも『群像』)。

 

 

半減期を祝って

半減期を祝って

 

 

 

みなさま、おなじみのセシウム137は無事、半減期を迎えました。祝いましょう!

30年後のニホンの未来像を描き絶筆となった表題作のほか、強くしなやかに生きる女性たちの姿を追った「ニューヨーク、ニューヨーク」「オートバイ、あるいは夢の手触り」を収録。女性や弱者、辺境のものたちへの優しい眼差しと現状への異議――。

日本を越えて世界規模の視野を切り拓き続けた津島文学のエッセンスがここにある!

(本の帯文より)

 

表題作「半減期を祝って」には、セシウム137の半減期を迎えた30年後のニホンが描かれる。生活は確実に苦しくなっていて、自殺者数、死刑の執行数も増加しているのに「平和がなによりですね」というコメントが流れるテレビの街頭インタヴュー(ほとんど誰も見ていない)。戦後百年というキャンペーンでメディアはみんな大騒ぎ。そんな社会には14歳から18歳までの四年間、子どもたちが入ることになるASD愛国少年(少女)団なる組織がある。そのあと今度は男女問わず国防軍に入らなければならないという社会が設定されている。ちなみにこのASD出身者は国防軍では優先的に幹部候補として扱われることになるらしいが、ASDには厳しい人種規定があって、純粋なヤマト人種だけが入団を許されているというのだ。アイヌ人もオキナワ人もトウホク人も入団できないという。『狩りの時代』にヒトラーユーゲントが描かれていることをふと思い出した。何の罪もないはずの美しい者(子供たち)が政治的に利用されていくという悲しい姿がいつまでも心に黒い染みとなって残るようだ。

 

半減期」という言葉は、おそらく東日本大震災原発事故後しばらく経ってから一般に馴染みだした言葉だろう。「放射性元素が崩壊して、その原子の個数が半分に減少するまでの時間。放射線の強さが半分に減少するまでの時間」(URL)と説明されているが、一体なんのことやら……というのが私の生活の実感としての正直な感慨だ。「私の生活の実感」を他者に押し付けるのはあつかましいが、しかし多くの人にとって「半減期」はそういう感慨をもって眺められている言葉ではないだろうか。作中で「半減期を祝っている」人々も同じような感慨も持っているように思える。「半減期の厳密な定義なんてぶっちゃけよくわかんないけど、なんかヤバいやつの影響が30年経って半分になったってこと? それなら良かったじゃん!」という程度の認識。実際は半減期を迎えたというセシウム137の他にも(たとえばプルトニウムなんかも)原発事故によって私たちの暮らしの只中にばらまかれたのだけれど、人々はそんなことも忘れてしまっているかのようだ。忘れてしまっている、というか忘れさせられているというか。そもそも原発の抱える根本的な問題さえ認識しないまま、人々が営む日常は「大きな声」によってだいぶ歪められた社会に見える。

 

(アナウンスの声)

……みなさま、おなじみのセシウム137は無事、半減期を迎えました。正確にはすでに四年前、半減期を迎えていたのですが、今年は戦後百年という区切りの年です。すべてにおいてまだ原始的だった百年前の戦争で、どれだけ多くのひとたちが理不尽な苦しみのなかで死んでいったか、そのことを偲ぶための記念すべき年でもあるのです。戦争において、兵士が餓死するなど決してあってはならない事態です。しかも、一般市民の頭のうえに、原子爆弾がはじめてアメリカによって無慈悲にも落とされたのでした。

(前掲書、78-79頁)

 

踊らされてはいけない、大きなメディアの大きな声、この言葉いつだって上滑りだということを、私は東日本大震災をめぐる一連の報道の中で感じていた。こういう暴力も存在するのだ。

作者はこの暴力の存在を描きながらも、しかしそれだけのディストピア小説が書きたかったのだろうか? というのが読了後ずっと私の頭の中にあった。著者は単に近未来ディストピアを書きたかったわけではないだろうと思えてならないのだ。では何を書こうとしたのか? もちろん、原発を取り巻くあらゆるものへの「告発」であり「挑戦」なのだが、それよりもむしろ「30年という時間の感覚」を書きたかったのではないだろうか、と思った(これは本当にブログ管理人の単なる雑感ですが)。

身の回りにある昔より便利になったあらゆる物の存在を思えば、30年は充分に長い年月のように思え、しかし生活の実感としては本質的な変化があるようには感じられない。と同時に、原発事故で避難を余儀なくされた人々が避難先に定着するのに充分な時間でもある。

 

三十年後の世界を想像せよ、と言われると、それじゃ三十年前はどうたったのか、と反射的に考えたくなる。

(前掲書75頁より引用、この作品の冒頭)

 

三十年後にしても、三十年前にしても、人は自分の生活の実感でしかその距離を感じることはできないのかもしれない。同じ三十年に対して、あっという間だったと思うひとも、ひどく長かったと思うひとも当然いる。そういう思いの背景にはいつもそれぞれの生活の実感というものが横たわっているのだ。それを無視してひたすら「半減期を祝う」ということが、どれほど残酷なことであるのか、本書を読みながらひとり考えてしまった。

津島佑子は『狩りの時代』において、「差別」とは何か、はっきりと言葉にされていない「差別」を言葉の力で浮き彫りにして読者の目に「見える」ようにした。とすると、この作品にも空気のように漂う形の無い暴力を捕まえようとする意志があるのかもしれない。

 

併録されている「ニューヨーク、ニューヨーク」は、トヨ子という大柄な女性が男と離婚してから亡くなるまで辿った時間を、息子の薫が男に伝聞するという形式の物語。トヨ子はニューヨークにあこがれていたのではない、ニューヨークを自分の体に呑みこんでやりたかったのだ、ということに気がついた時には何もかもが遅く、すべては過ぎ去ってしまったあとなのだった。「オートバイ、あるいは夢の手触り」は、主人公の景子という人物が見聞きした「オートバイ」にまつわる思い出をあれこれ思い出していく物語。そしてそれらのオートバイの手触りを、景子はもう二度と感じることはないという寂寥がなんとも言えない余韻を残す(少し渋いな、と感じた)。「聞き慣れたオートバイの音は二度と、景子の人生の時間に戻ってはこなかった。」(72頁)

 

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