言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

今度は、あなたがゲームをする番だ―ル・クレジオ『愛する大地』

 

図書館で借りた古い文学全集にたまたまとりあげられていたために、巡りあう種類の小説がある。もしかしたら「あなた」にとって今回紹介するこの小説がそういうものになるかもしれないし、ならないかもしれない。「わたし」にとって、そうならなかったのは図書館の蔵書検索で著者の名前を事前に検索して作品の情報を仕入れていたからだ。なんて事務的な出会い方をしてしまったのだろう、もっと詩的な出会い方をしてみたかった。

 

ル・クレジオ 著、豊崎光一 訳「愛する大地」(『集英社版 世界の文学26 ソレルス / ル・クレジオ』所収、1976年) ※原題「TERRA AMATA」

 

この本には「たまたま」出会いたかった、本当は、とても。

「あなたは本のこのページをひらいた。」とはじまるこの本には。

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この小説は一種のゲームである。偶然性のゲームによってつくられている。

作品に書かれる「あなた」(読者)、「ぼく」(語り手、作者)、それから主要な登場人物であるシャンスラードという少年、これらの存在はいずれも交換可能性を有している。つまり、だれがどの立場に立っていてもおかしくはない、たまたま今、読者は「あなた」だった、それだけ。シャンスラードという少年の日常の断片が、時に微細なほどクローズアップして書かれ、また時に視点をずっと空高くに設定して見おろすように書かれる。シャンスラードという少年が見ていた風景を一読者として読んでいると思ったら、小説内の視線はいつのまにかシャンスラードさえ見下ろすような、シャンスラードの存在している風景全体に切り替わっていたりする。この感覚がとても不思議な読書体験になった。こういう語り方だからこそ、シャンスラードの遊戯の光景(レプティノタルサという虫(?)を見下ろし、鉄の格子を使って支配する)は、金属やコンクリートに囲まれた都市の中でうごめく人間のいる風景と重なって見える。虫たちを見下ろすシャンスラードは、都市の中に存在するたくさんいる人間のひとりでしかない。「シャンスラード」にフォーカスしなければ、格子の中で蠢く虫の群と変わらなくなってしまう。

 

それはどれもみなそこにあった。大地震や戦争は。レプティノタルサの破裂した躰の中、外に出たはらわたの中、格子の鋭い棒にはねかかった濃厚で赤い液体の中に。

雪崩は、音もなく落ちかかり、その何トンもの白い粉末の下に小さな躰の数々を埋めたのだ。静かな夜、なんでもないことで堤防は破れ、泥と水とでべたつく波が村に襲いかかって、家々をばらばらにし、木々を根こぎにし、男たち、女たち、眠っていた子供たちの口や鼻の奥深く入りこんだのだった。

あるいはまた、戦争が囚われの都市に猛威をふるったのだ。巨大な稲妻があり、眩い光の波が、一秒にして何千人もの人を気化させてしまったのだ。そして今、この地上には、あの傷口、あるいは下疳のようなものがあって、その永遠の傷痕を残そうとしていた。沸きたつ融岩でいっぱいな火口のまわりには、いくつかの物体がまだ立ったままでいた、千年も昔の城壁、半ば黒焦げになった電柱、古い屑鉄、蒸発した男の影が焼き付いているレンガ塀など。

こういったことすべてが同時に、今ここで起ったのだった、このアスファルトの歩道の上で、あの階段、あの男の子、あの格子、あのレプティノタルサたちとともに。またもう一つの罪、ただそれだけのことだった。そしてもうそれは忘れられていた。

(前掲書、150頁より引用)

 

ここで訳者解説を少し引用しておきたい。これは「遊戯小説」の実現なのだという。

 

この作品は、それまで以上に意図的に日常の平凡な細部を、本質的に反復されてやまないゲーム(jeu)として、反復を本質とするゲームの時間の中に提出しているところに特徴があるだろう。『調書』の書簡体序文が予告していた「遊戯小説」Roman-Jeuの実現である。ヒーローの名シャンスラードは、アダムやベソンと同じく曰くありげな名で、よろめく(シャンスレ)という動詞からの造語である。

(前掲書、340頁より引用)

 

この小説に時間の流れを感じるとすれば、それは目次のためだ。ずらりと並べてみるとこんな感じになる(最初と最後にプロローグとエピローグがあるが、以下には書かない)。

 

たまたま地上に / ぼくは生れた / 生ける人間として / ぼくは大きくなった / 画の中に閉じこもって / 日々が過ぎた / 夜々が過ぎた / ぼくはああした遊びをみなやってみた / 愛された / 幸せだった / ぼくはこうした言葉をみな話してみた / 身ぶりを入れ / わけのわからぬ語を口にして / それとも無遠慮な質問をして / 地獄にそっくりな地帯で / ぼくは大地に生み殖やした / 沈黙にうち克つために / 真実のすべてを言いつくつために / ぼくは涯しない意識のうちに生きた / ぼくは逃げた / そしてぼくは老いた / ぼくは死んで / 埋葬された

ル・クレジオ「愛する大地」の目次)

 

目次がひとまとまりの文章になっていて、ひとりの人間の(たとえばたまたまこの小説ではシャンスラードと仮定された人物の)一生の時間を直線的にあらわしている。読者はふつう、愛する大地の上で繰り広げられるシャンスラードの行動に寄り添って小説を読み進める。すると、突然こんな箇所に行き当たって驚く。

 

何が起ろうと、今や、このあまりに長い物語の結末が何であろうと、あなたはそれがあなたではなかったかのように振舞うことはできないのだ。あなたの眼を離すことはできず、ページを飛ばし、本を閉じて、小さなポケットやすりで爪を磨くことはできないのだ。そんなことはうまくいかない。他の人たちは、あなたが忘れてしまったのだと思うことだってあるかも知れない、だがあなたは違う。あなたはあなたから離れることはできないのだ。生きねばならぬ。生き続けねばならぬ。あなたの物語を語る絵入りアルバムを、こうやって最後まで読み続けねばならぬ。

この物語が面白いのは、それがあなたの物語だからだ。それはあなたの身の上に起こる唯一の面白い物語ですらある。あなたは身を横たえているベッドから、あるいは坐っている椅子から立ち上る。あなたは部屋を縦横に歩きまわり、通りとか庭で何が起こっているか、窓のところへ見にゆく。それからあなたは部屋の中央のほうへ戻ってきて、マッチで、あるいはライターでたばこをつける仕種をする。ある誰かが、例えばあなたの妻が、部屋の中にいるなら、あなたはこう言う。

「何時?」

「え?」

「今何時、って言ってるんだ。」

「五時十分よ。」

(前掲書、152頁より引用)

 

 

「あなた」は今、たまたまこのブログの記事を読んだ。いつもの習慣で検索でもして? それともブログ管理人のTwitterにのっていたURLから? それとも、だれかのブックマークや、どこかに落ちていた星(はてなスター)を拾うように辿ってきたのかしら?

「あなた」がもしこの小説を読んだなら、日常の中で反復し続ける「ゲーム」からおりることはできないということを知っているだろう。これがそう、「たまたま」出会いたかった本についての感想だ。そしてこれを書き終えれば「わたし」は本をぱったりと閉じて、図書館のカウンターの奥に、あの静まりの中へ返してしまう。

 

「今度は、あなたがゲームをする番だ。」

(325頁、この小説の最後の文)

 

 

 

以下自分のTwitterよりメモ↓↓

ル・クレジオの「愛する大地」を読んでいる。抽象度の高い登場人物、その人物が見ていた風景を書いていると思っていたら突然ものすごい俯瞰する視点になって「その人物が存在していた風景」を書いていたりする。俯瞰している描写が今の所とても印象的。都市の人間が、蟻の集団のように見える笑。

 

ル・クレジオ『愛する大地』を読み終えた。こういう人生の語り方もあるのか……。読みながら途中で目次(章タイトル)がひとりの人間の誕生と埋葬という時間の流れを持った文章になっていることに気がついたのだけれど、描かれる人生の断片は本当に些細な、というか微細なものばかり。

 

微細なものをクローズアップして読者に見せたり、急に視点を引いて俯瞰してみせたりしながら、大地と人間の時間について書いたような本。この本を読んでいる時間って一体なんなんだろう、と考えてしまった。作中いちおう人生のようなものが書かれるけど時間は絶滅してると思う。

 

ル・クレジオ「愛する大地」をまた読み終えた。「ぼく」と「あなた」と「シャンスラード」の距離感みたいなものがつかめると、「ゲーム」の感覚もするっと入ってきた。大地の上にあるすべての交換可能性について、そしてその微細なものへ視線を潜らせたり、高みから見下ろしたり。ものの見方のゲーム性