Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

ことばのちゃんぽん―温又柔「真ん中の子どもたち」

今回ご紹介する作品はこちら。

温又柔「真ん中の子どもたち」(『すばる』2017年4月号掲載)

すばる2017年4月号

すばる2017年4月号

 

※単行本が発売予定ですが、今回当ブログの記事での引用は『すばる』掲載時のものです。頁番号は『すばる』に依っています。

 

真ん中の子どもたち

真ん中の子どもたち

 

 

 

四歳の私は、世界には二つのことばがあると思っていた。ひとつは、おうちの中だけで喋ることば。もうひとつが、おうちの外でも通じることば。ところが、外でつかうほうのことばが、母はあんまりじょうずではない。

(『すばる』2017年4月号、10頁より引用)

 

温又柔「真ん中の子どもたち」はこんなふうにはじまる小説だ。

この作品を読むまで私は「母国語」というものに対して深く考えたことはなかった。なんとなく自分が普段しゃべっている言葉が母国語、その程度の感覚しかないのはたぶん私が日本生まれ日本育ちの日本語話者だからだろう。さらに本当に恥ずかしいことなのだけれど、両親のどちらかが「外国人」の家庭の子供は自然と(なんの葛藤もなく)バイリンガルになれていいな、くらいに思っていた(ごめんなさい)。母国語と国籍、本人のアイデンティティの拠り所、それらをあまりに無神経に一緒くたにして考えていた。

 

小説の語り手「私」こと、天原琴子(ミーミーとも呼ばれる)は台湾生まれの日本育ちで、国籍上は日本人。父が日本人で母が台湾人の家庭で育ち、家の「共通語」は日本語らしい。だけれども、まだ幼かった頃(台湾で暮らしていた頃)は「母のことば」を話していたから「中国語」を話すことができる。

(ずっと、母のことばを学んでみたいと思っていました)。

母のことばである中国語を本格的に学ぼうと上海に留学するも、言語教師である陳老師に台湾で話されている中国語(ミーミーの話す中国語)は標準的な中国語(普通话)とは違う、南方訛りだと指摘されてしまう。そんな「私」が「自分の根っこはまっすぐのみにではなく、あらゆる方向にむかってふくよかに伸ばせるものだと知」るまでの葛藤や、たくさんのよろこびが描かれた小説だ。

ミーミー以外の主要な登場人物たちもとても魅力的に描かれている。呉嘉玲(リンリンとも呼ばれる)は「中華民國 REPUBLIC OF CHINA」のパスポートを持っている。父親が台湾人だから日本の国籍を持っていないが日本育ち、家の「共通語」は中国語。龍舜哉、国籍上は日本人。でも自分では中国人だと思っているし、同時に日本人だとも思っている。「どっちにもなれる」と思っている。両親が彼の言葉によると「元中国人」で日本に帰化したために舜哉もたまたま日本の国籍を持っているのだ。ちなみに彼の話し言葉が一番おもしろく書かれていて、日本の「標準語」と関西弁と中国語が入り混じることもある。関西弁のことを「西日语」と中国語の領域に造語を作ってしまう。彼はことばのちゃんぽんの名人だ。

 

中国語や台湾語をちゃんぽんにする母のことばを瞬時にそれらしい日本語に言い換えられる私を、父は時折こんなふうに褒めてくれることがあった。

――ミーミーは、ママの最高の翻訳家だね

(前掲書、19頁より引用)

 

上海に留学した彼、彼女たちの先生(陳老師、日本語を学ぶ中国人学生たちは「陳先生」と表現していたりする)は言語教師としての使命に忠実であり、生徒にとても厳しく「普通活」を教える。ことばの癖として個人に染みついた訛り(特にミーミーの南方訛り)を徹底的に矯正しようとするが、それは「正しい」ことばを教えなければならないという職業上の使命ゆえであった。

しかし、中国は広い。「中国語」ってなんだっけ? と思ってしまうほど本当は色々な音があふれているのだと思う。作中に出てくる台湾語上海語は「普通话」とは違って「正しい」ことばではない。だけれど、「生きている」ことばだ。「生きている」ことばには、そのことばを話すひとの履歴みたいなものが無意識のうちに染みついている。だからこそ、ことばは常に変わっていく可能性を秘めているのではないだろうか。生きているひとがあちこち動き回るのに合わせてことばも動くように変わる。その動きを意識的にやれば龍舜哉みたいな造語作りもできてしまう。彼はこんなことを言う。

 

ナニジンだから何語を喋らなきゃならないとか、縛られる必要はない。両親が日本人じゃなくても日本語を喋っていいし、母親が台湾人だけれど中国語を喋らなきゃいけないってこともない。言語と個人の関係は、もっと自由なはずなんだよ」

(前掲書、69頁より引用)

 

縛られる必要はない。それは特定の○○語を話す、ということに限らず「ことばのちゃんぽん」をしたっていい。「標準」ではない変な喋り方をしていても、学問上のことでなければ気にする必要はない。

どういうわけか、社会やそれを取り巻く諸々の制度は「標準」を「真ん中」に据えようとしてくる。そしていつの間にか「真ん中」に据えられた「標準」こそ「正しい」のだという観念が浮き上がり、やがて「標準」以外のすべてを「周縁」に位置付けて「間違い」と断罪する。しかし、そういったものでは割り切れない個人と言語の関係はあるはずだ。様々な来歴を持ったひとびとが様々なトーンで自分のことばを喋る。そういうことばは常にゆらぎ、変化の可能性すら秘めている。真ん中の子どもたちは、その変化の可能性の中を生きている。どっちにもなれる、いや、二択ではなくて、もっと違う何かになるかもしれない。違った来歴のひととの間で便利な「共通語」も存在する。だけれどそれがすべてではないのは言うまでもなく、言語と個人の自由な関係の中で、「ことば」はあらゆる可能性を開花させようと根を伸ばしているのかもしれない。

何故か一緒に論じられることの多い言語(母語)と民族アイデンティティの矛盾をついた快作だと思う。このふたつは、必ずしも固定されてはいないのだから。