言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

<心>たちの弁明―エイモス・チュツオーラ『薬草まじない』

今回紹介するエイモス・チュツオーラ『薬草まじない』は自分にとって二冊目のアフリカ文学の本になった。

 

エイモス・チュツオーラ 作、土屋哲 訳『薬草まじない』(岩波文庫、2015年)

薬草まじない (岩波文庫)

薬草まじない (岩波文庫)

 

 

昨年、同じ作者の『やし酒飲み』という本を読んだ。

 ↓過去記事参照

mihiromer.hatenablog.com

 

エイモス・チュツオーラの作品は、ひとつの風景なり心境なりを深く深く掘り進めるというよりは、次々に移り変わって行く状況をコミカルなタッチで描いていると思う。読んでいる間のそういう感覚を私は「横スクロール的」と呼んでいる。画面をスクロールするみたいに次々とページが捲れる。だけれど油断すると何が起きたのかわからなくなるのは、たぶんアフリカの感覚と日本の感覚がだいぶ違うからなのだろう。あまりにサラサラと時が流れるためか、気がついたら数年経っていたり汗。

 

さて『薬草まじない』についての感想を書いていきたいと思う。

ざっくりあらすじを書いてみるとこんな感じになる。主人公<わたし>が、不妊の妻に子宝を授けてもらうために<女薬草まじない師>の住む<さい果ての町>へ一人で旅に出る。その道中に起きるいくつもの危難を勇敢に戦うことで乗り越えて<さい果ての町>に辿り着き、目的を達して妻や父母の待つ<ロッキータウン>へ帰還する。<わたし>の属す町や道路の旅は比較的安全なのだが、ジャングルの旅は危険がいっぱい(これは『やし酒飲み』と同じでアフリカの森林(ブッシュ)への恐怖が色濃く浮かび上がっている)。つまり、未知の領域に一歩踏み込めばどうなるかわかったもんじゃない、たとえば主人公に危害を加える存在として登場する<アブノーマルな蹲踞の市井の男>、<頭の取りはずしのきく凶暴な野生の男>などジャングルにいる得体の知れない存在が理由も言葉もなく、襲い掛かってくる。しかしどんな恐怖にも勇気を持って立ち向かわなければならないというアフリカ人のモラルがあるから<わたし>はマサカリを振り回して戦う。

このあたりについて解説「チュツオーラと現代のヨルバ世界」で旦敬介は「チュツオーラの最大のトピックが異種族に対する激しいヴァイオレンスである」(前掲書351頁)と書いていた。独立以後の急激な近代化とアフリカの伝統がせめぎあうナイジェリアで書かれたチュツオーラの作品からは、今後のアフリカ文化をどういった方向に立ちあがらせていくべきかという煩悶が渦巻いているようだ。

 

訳者あとがきで、この作品における「アフリカ的側面」と「ヨーロッパ近代文化側面」がそれぞれ挙げられていた。簡単にメモしておくと、アフリカ的側面としては、アフリカの伝統的社会観として女は子供を生むべき存在、先祖と共生し永遠の生を生きているという観念、そして先ほども書いたが勇気こそがアフリカでは最高の倫理であるということ。ヨーロッパ近代文化の側面としては、<女薬草まじない師>を<聖母>さまとし、また「全知全能」の神の存在を匂わせるなどキリスト教的な描写の存在、川の神さまに捧げる人身御供の廃止、主人公の内面を第一の<心>、第二の<心>、<記憶力>それに<第二の最高神>という具合に、著しく深層心理への内向化がはかっていることなどが挙げられている(訳者あとがき337頁参照)。

 

このような作品解釈も必要ではあるのだが、しかし私としては何より、石に変身して「自分で自分を投げるように」逃走さえする(『やし酒飲み』)チュツオーラの冒険譚の描き方の面白さを主張したい。

 

わたしは、道づれになる人間の徒歩旅行者、つまり伴侶が一人もいない状態で町を出立したのだったけれども、わたしの第一の<心>と第二の<心>という伴侶がわたしについていたし、ときには、第三の伴侶である<記憶力>がわたしを助けるつもりになってくれていた。

 そしてさらに<記憶力>は、二つの<心>が犯すかもしれない罪状をすべて記録に留めておく腹づもりでいたのだ。さらにわたしの第四の伴侶として<第二の最高神>がいた。これは姿はまったく見えないし、この四つのうちでは文句なく最高の立場に位置していたのだったが、これまたわたしの旅のあいだずっとわたしを導いてくれるつもりになっていたのだ。

(前掲書、34頁-35頁より引用)

 

ひとり旅のはずなのに、何故かひとりでいる気がしない。私は西洋近代化云々の議論とは別に、この<心>や<記憶力>の描き方がとても面白いと思う。<わたし>の<心>は旅の折々に忠告を与えてくれる。姿は見えないが擬人化された<心>や<記憶力>との会話がとてもコミカルだ。

第一の<心>はあまり信用できない、第二の<心>は<わたし>を欺いたことはないので第一の<心>よりは信用できる。しかしこの<心>たち、あまりの恐怖に襲われると沈黙し、<わたし>を見捨てる。そして<わたし>が危難を乗り越えたあとに都合よく再登場して<わたし>を祝福したりする。そんな<心>たちの振る舞いを<わたし>と<記憶力>はなじるし、しかも<記憶力>は<心>たちの振舞いについて記録さえつけているという。

 

門を出ると即刻、わたしはジャングルのなかをジグザグ型に歩きはじめた。そしてそれほど遠くまで行かないうちに、悪鬼と渡りあいはじめたとたんにわたしを見すてた第一の<心>と第二の<心>の働きが突然活発になった。かれらはわたしに悪鬼をやっつけた幸運を祝福したかったのだが、わたしの<記憶力>は腹立たしげにこう言った。『おまえさんたちは、この方が悪鬼と渡りあっていたとき、どこにおられたかな? お二方ともこの方に悪いことが起るのがこわくて間違いなくこの方を見すてたのじゃ。もちろんわたしはこの旅が終わった後で使わしていただく考課表に、すでにこの弁明の余地のない罪状を記録してあるのじゃ』そういって、わたしの<記憶力>は第一と第二の<心>をなじった。

(前掲書、135頁-136頁より引用)

 

そんなことをあれこれと考えながら悲しみに沈みそうになったとたんに、わたしの伴侶で忠告者でもあった第一の<心>と第二の<心>がさっそくわたしを慰めてくれた。もちろんわたしの<記憶力>は、このときの二つの<心>の行動を<良き振舞い>として記録に書き留めたことはいうまでもない。それにしてもそれは、けっしてかれらの過去の罪状を帳消しにするほどのものではなかった。

(前掲書245頁より引用)

 

最後に<記憶力>は旅の間ずっとつけていた記録をもとに第一、第二の<心>を告発する訴訟を起こすのだが、その時のそれぞれの<心>の言い分がまた面白い。第一の<心>は<持ち主>さま(つまり小説の語り手<わたし>)に対して罪を犯した時には「正気ではなかった」、第二の<心>は「極度に衰弱し、疲れはてていたかそれとも病気か、あるいはぐっすり眠っていて気がつかずにいたときだ」と弁明する(323頁)。

ここで確かに……と思ってしまうのは、人がある事態に対して正しく決断や行動ができなかった時というのはそれぞれの<心>たちの言い分の通り、何かしらの心因要因があったりする。自分の<心>たちの振舞いとして、内面の動きを表現しているところがとても面白く、思わず笑ったりしながら読んでしまったのだった。