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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

砂が書く、うつろい / たゆたい ―坂口恭平『現実宿り』

砂漠には行ったことがないけれど、よく海辺に行ってはどこから打ち上げられてきたのかさっぱりわからない倒木や、海藻やゴミの絡まり合ってできた山、それに人間が作った波除ブロックなんかに登って砂浜を眺めることがある。海辺の砂は、風に飛ばされていくというよりは波に洗われて沖へ引きずられていったり、また戻ってきたりを繰り返しているのかもしれない。そんなふうに決して一定のものとして固定されることのない浜辺の風景を見に行くことが私にとっての「現実宿り」なのだろうと思う。時に、本来はただそこにある風景としてあるだけの砂の模様に意味を与えてみたりもする。何故か、海や砂浜が私を呼んでいるような気がしたりもする。漂着物のひとつひとつに染みついた誰かの生活を恋しいとも思う。

今回ご紹介する本は、坂口恭平『現実宿り』(河出書房新社、2016年)。

 

現実宿り

現実宿り

 

 

こちらに詳しく掲載されているのですが、著者は単に雨を避ける避難所という意味にとどまらない日本語の「雨宿り」という言葉を不思議に思っていて、雨宿りをする時の軒先のような空間があれば現実に対する目も変化するのではないか? ということからこういうタイトルの作品が出来上がったそうだ。決してリアリズムの作品ではない。現実から横滑りしたような風景が本書には広がっている、本書の外側にも広がっている(ような余韻さえある)。

明確なストーリーのないこの作品はきっと読む人や読んだ時間、空間の違いによって見え方が大きく変わってくると思う。だから何度でも読みたいし、是非蔵書に加えたい一冊なのだ。私に見えたこの作品の風景を簡単に書いておこうと思う、たぶん数年後に読んだらまた印象も変わっているかもしれない。

 

「わたしたち」と、砂は語る。砂は人間のいなくなった砂漠にいる。忘れるということを忘れるくらいに、ごく自然に当たり前に存在している。ある時、砂は図書館を見つけて本を読むようになった。それから「書く」ということを知り、「忘れたくない」こともどうやらでてくる。だから書いている。「わたしたち」は書いているのだが、時々「わたし」としか言えない者が見た景色や歩いた町、経験した感情も書く。ある日突然、謎の手紙を受け取った人物がそれを見ている、玄関を出ると、訪ねてきた見知らぬ者に車に乗せられどこかへ連れされていく。ある日突然、弟だと名乗る(そしてその男は明らかに弟ではなく、日本人ですらない)人物から電話がかかってきてやっぱりどこか見知らぬ場所へ連れて行かれる。蜘蛛だった「おれ」は鳥に食べられる。そしてたぶん消化されながら千々にわかれていった「おれ」は「鳥の内臓」であったり、「鳥の目」であったりもする。鳥の目の「おれ」は蜘蛛だった頃の「おれ」を見ることもある。

 

おれは気持ちを鎮めるために目をつむった。いろんな風景が次々と通り過ぎ、ある景色で突然止まった。おれは蜘蛛だった頃にみていた鳥だった。おれを狙っていた。不思議なことにおれが狙われていると感じていたあの視線はおれのものだったんだ。

(前掲書、115頁より引用)

 

砂は風に飛ばされていく。しかし風に飛ばされてしまったものの視界も、自分の経験として感じている。だから、なんとなく読みながらこの作品に出てくる「わたしたち」(砂)以外の描写もみんな、砂の話に見えてくる。男も女も蜘蛛も鳥も鳥の目も、不思議なことにみんな砂に思えてくる、そして「わたしたち」は飛ばされていって色々なものになった砂の見る風景を書きつづける。「彼」が皿に触れ、その皿が割れて粉々になる。見るとただの砂が絨毯の上に散らばっている。その砂に触れながら「彼」はかつてそこで暮らしていたような気持ちになる。彼はそこへ向かおうとする、そして家族に黙ったまま家を出て生まれた場所へと帰っていった。森の夢へ向かうために何人かの人間が死んだ。そして死んだ人間たちはそのまま「わたしたち」に成り代わった。

砂は「森の夢」をみた。森はあったかもしれないし、なかったのかもしれない。ただ砂漠だけがそこにあった。そして砂、「わたしたち」はその全景であるのかもしれない、と同時に一粒一粒の存在であるのかもしれないし、風に飛ばされて何か別の生き物になっていくのかもしれない。そしてまた戻ってくるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。

 

作品全体がほとんど、砂の上に描かれたものであるかのように心もとなくうつろい、そのうつろいが風景になる。そういう風景をそのまま書こうとするときっとこういう作品になる。透明な文章、というのがこの作品を読み始めた時の最初の印象だった。あるものがそこに存在する理由(意味)というものを書かずに、あるものがそこに存在する風景がただ連綿と書かれた作品だと思う。

 

誰も漕いではいない。風は静かだ。しかし、波紋はまだ揺れていた。波紋にのって、わたしたちはどこかへ流されていった。水面にとどまるものもいた。わたしたちは森へ向かっていた。夢の中ではなかった。光がわたしたちに届いているのだから。わたしはまぶしさを感じた。光が頭蓋骨の中に届いた。その透明な世界を見ながら、わたしたちは今、自分たちが森へ向かっていることを目撃した。わたしたちは借り物でもなんでもなかった。仮の姿でもない。わたしたちは砂だった。ここは砂漠だ。どれもこれも砂だった。生き物は、ねっとりとした息を吐き出すと、魚のように水中へ逃げ去っていった。

(前掲書、195頁より引用)

 

ちなみに表紙や、一枚めくった先(画像参照)に書いてある文章にとても惹かれる。特に黒地の部分は、まるで砂の文字みたいだ。少し長くなるが引用して終わりにしたい。本当にこの本は読んだ時や場所、それを読んだ人によって随分印象が変わると思う。意味を求めるということとは違った読書というのは、ほとんどその文章の上をたゆたうようなことで、それがとても心地良い。

 

わたしたちが書いたことは、実は文字になっていない。どんどん消えていってしまっている。あなたに伝えたいことではなく、わたしたちはあなたと一緒に見ている風景をそのまま書こうとしている。一緒に見えたものだけを書こうとしている。あなたのおかげで、わたしたちは書いている。わたしたちはあなたがいないかぎり、書くことはない。わたしたちは息をしていない。だが、死ぬこともない。わたしたちは変わり続けている。わたしたちは砂である。わたしたちは砂であることを知っている。あなたに砂の言葉を伝えたいわけではない。あなたと同じ風景を見ていることを伝えたいのである。あなたがこの文字を読むとき、わたしたちは目の前に現れる。いま、わたしたちは書いている。しかし、今わたしたちはそこにいない。わたしたちはあなたがこの文字を読む時だけ、書いたものとしてここに現れる。

(前掲書、111頁より引用)

 

関連リンク↓↓

 

www.kawade.co.jp

www.bookbang.jp

 

 

以下、私のTwitterより読んですぐの感想をメモしておく。↓↓

 

『現実宿り』を読んでいる。まだ80ページくらいだからなんとも言えないけれど、なんか普通とか当たり前とか思って素通りしている感覚をいったん全部真っさらにして、「書く」ということで再構築しようとしているように思えるけど……? もしかしたら掴めないままに読み終えるかもしれない微笑。

 

『現実宿り』を読み終えた。が、なんか読み切れた気がしないので(そしてそんな日は一生来ないかもしれない笑)明日からもうちょい読み直すつもり。ストーリーだとか、リアリズムだとかとは無縁の小説世界なんだけど「見る」ということにだけはどういうわけか、生々しいものを感じた。

 

「鳥」であることと、「鳥の目」であることは全然違うこと、みたいなところがあってここがすごく面白かった。わたしたち、砂、わたし、おれ、男、女、彼……。見ていたものが見られていたものに変わったり、そもそも目であったり風景そのものであったり。なんかぶっとんでた笑。

 

「あるものがそこにある理由(意味)」と「あるものがそこにある風景(視覚的事実)」が、パカーンと分かれている(とおれが勝手に思っている)ルーセルの『アフリカの印象』という小説があるのだけど、なんかあれを読んでる時の感覚に近かったな、『現実宿り』。