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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

あみ子の暗い穴―今村夏子『こちらあみ子』

この本には「こちらあみ子」「ピクニック」の二編の小説が収められているが、今回ブログの記事では「こちらあみ子」を取り上げたいと思う。

ふだんはあまりこういうことは気にしないのだけれど、たくさんの人がこの小説に関心をもって読んでいるらしいので、以下、「こちらあみ子」という物語のネタバレが含まれますよ、と一応言っておこうと思う(と言っても、良い小説にネタバレも何も関係ないと思ってしまうのが私なのだが)。

 

今村夏子『こちらあみ子』(筑摩書房、2011年、文庫2014年)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

こちらあみ子 (ちくま文庫)

 

 ※なお、ブログ記事内の頁番号は単行本に依拠しています。

 

この小説の主人公は「あみ子」という女の子。

あみ子が友達のさきちゃんのために、すみれの花を採ってくる場面から始まる。これが小説における「現在」で、さきちゃんは竹馬に乗ってあみ子をたずねてくるのだが、その動きがまるで一歩も前進していないかのようにのろい。

 

友達を大切にしなくてはという思いがある。休日の度に顔を見せにやってくるさきちゃんはきっと、あみ子のことが好きなのだ。あみ子も同じように、さきちゃんのことが好きだ。

(前掲書、11頁より引用)

 

そうであるにも関わらず、作品の「現在」において、あみ子とさきちゃんは出会えない。前進しているように見えない竹馬と、祖母に呼ばれて家の中へ入って行くあみ子。さきちゃんがすみれの花を持ったあみ子のところへたどりつく前に小説は終わりを迎えてしまう。ちょっと切ない。この出会えないということが、あみ子が抱えてきた世界との折り合いのつけ方のわからなさ(または難しさ)を彷彿とさせる。出会えないけれど、でもあみ子は深刻に悩んではいない。さきちゃんは「当分ここへは辿り着きそうもない」(115頁)、たぶんそれでいいのだと思う。

さきちゃんは「あみ子の暗い穴」が好きらしい。

 

さきちゃんに「イーしてください」と言われればイーしてあげる。イーッと、口を横に広げるとのぞく、あみ子の暗い穴がさきちゃんのお気に入りだ。あみ子には前歯が三本ない。正確には、あみ子から見て真ん中二本のうち左側が一本と、その左一本、更に左がもう一本。

(前掲書、11頁より引用)

 

この「あみ子の暗い穴」をのぞくように(あるいはこの穴の由来を探るようにして)あみ子の過去が語られるのだが、そこにはあみ子の家族や友人に降りかかる様々な痛みが描かれる。あみ子は一言で言ってしまえば「変な子」だ。でもこの子に誠実に向き合おうとすればするほど、どこがどう変なのか説明できなくなってしまう。「生きにくい子」の物語だという先入観を持って読めばあみ子の痛みが強調されるだろうが、この作品ではむしろあみ子が周囲にもたらす痛みが淡々と描かれているように思う。あみ子は自分でも自覚できない「破壊力」を持っている。自覚がないのだから当然制御できない。

 

「好きじゃ」

「殺す」と言ったのり君と、ほぼ同時だった。

「好きじゃ」

「殺す」のり君がもう一度言った。

「好きじゃ」

「殺す」

「のり君好きじゃ」

「殺す」は、全然だめだった。どこにも命中しなかった。破壊力を持つのはあみ子の言葉だけだった。あみ子の言葉がのり君をうち、同じようにあみ子の言葉だけがあみ子をうった。好きじゃ、と叫ぶ度に、あみ子のこころは容赦なく砕けた。好きじゃ、好きじゃ、好きじゃすきじゃす、のり君が目玉を真赤に煮えたぎらせながら、こぶしで顔面を殴ってくれたとき、あみ子はようやく一息つく思いだった。

(前掲書、96頁-97頁より引用)

 

あみ子は無自覚に人を傷つけてしまう、その結果、失われていく物があったり壊れていく関係性があったりするのだが、今度はそれがあみ子のこころを砕いてしまう。あみ子は自らの持つ「破壊力」に気がつけないまま、周囲を壊しつつ自らをも壊す。壊れたトランシーバーに向かって「応答せよ。応答せよ。こちらあみ子」(104頁)と語りかける姿の切実さを、私はまだ言葉にできないでいるのだが、あみ子は自分が直面する出来事に意味を与えたいのかもしれない。どうしてそうなってしまうのか、わからないことをわかりたいのかもしれない。そう考えるとこの呼びかけは狂おしいほどに切なくて、愛おしい。

もしも、「あみ子の暗い穴」がのり君によってあけられなかったら、あみ子のこころはずっと砕け続けるしかなくなってしまう。ある意味で、この穴に救われているように感じるのはあみ子の「現在」の友達であるさきちゃんが「あみ子の暗い穴」を好きでいてくれるからだ。

 

単に「生きにくい子」の「生きにくさ」を描いた小説だとは思えない。というか「生きにくい子」であるかもしれないあみ子に、診断書みたいな障害の名前をつけて納得しようとしたり、学校ではいじめられ、家庭では疎外されるあみ子を「かわいそうな子」だと断定したりすることを小説は避けているように思う。自分自身の感情にさえ気がつけないあみ子はいじめられても傷つかない。あみ子の感情はあみ子にさえ断定できない。たぶんのり君にあけられた「あみ子の暗い穴」を通じて、近所に住む小学生のさきちゃんだけがあみ子の世界を覗くことができるのかもしれない。

 

 

以下twitterで自分がつぶやいたことのメモ。だいたいはこの本を読み終えたあとの第一印象といった感じ。↓↓

 

今村夏子『こちらあみ子』を読んだ。 あみ子がイーッてすると、さきちゃんの大好きな「あみ子の暗い穴」が見える。それはかつて好きだった人に殴られて前歯を三本なくしたあみ子の口腔内。 「こちらあみ子」誰もいない所へ向けた呼びかけのこの切実さを、おれはまだきちんと言葉にできないでいる。

 

読者に仄暗い印象を与える作品であるにも関わらず、その仄暗さの中にあみ子はいない。というか、あみ子の暗い穴に引き込まれるみたいに、負の感情に襲われるのはいつも他者。あみ子はいつも明るいのに、誰とも同じ時間や空間を共有できない。その徹底した疎外の空気がとっても切ない作品だった。