言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

風景の生まれる瞬間―磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』

さて、どういうわけなのか、2月は磯﨑憲一郎強化月間(?)になっており、ブログの更新もこの著者の作品についてばかりになってしまっているのだが、今回も懲りずに書いてみようと思う笑。今回は、磯﨑憲一郎のデビュー作(文藝賞受賞作)である「肝心の子供」を取り上げてみたい。なお今回読んだのは文庫版で、引用のページ番号などはすべて文庫版に拠っている。

 

磯﨑憲一郎『肝心の子供/眼と太陽』(河出文庫、2011年)

本書は2007年11月に刊行された『肝心の子供』と、2008年8月に刊行された『眼と太陽』を合本とし、文庫化したものです。

初出「肝心の子供」……『文藝』2007年冬号

  「眼と太陽」……『文藝』2008年夏号

  「特別対談」……『文藝』2008年春号

肝心の子供/眼と太陽 (河出文庫)

肝心の子供/眼と太陽 (河出文庫)

 

 

 

川岸近くの葦のなかに、一羽の白いサギがいた。馬が立ち止まって見ているので、ブッダも気になって、しばらくの間ふたりでそちらを見ていた。動かない静かなそれは、冬枯れの色のない背景に同化して、固まってしまったようにも見えたが、すると一瞬、するどく首を回して、くちばしを百八十度まで開いた、桃色の口腔の奥まで見せつけるというひとつながりの動作だけで、焦点とそのまわりの背景を反転させてしまった。もちろんありえないことなのだが、一羽の鳥の口の中に、冬の朝の渓谷というこの空間ぜんたいが入り込んでしまったかのような、そんな馬鹿げた印象をブッダに与えた。

(前掲書、10頁-11頁より引用)

 

この、何の変哲もない冬の朝に一瞬立ち現われる印象。たぶん、こういう一瞬は言葉にして捉えることができないだけで、実は日常のいたるところに転がっているのかもしれない。そしてそれら一瞬一瞬というのは、どういうわけか後々かけがえのない瞬間として想起されるのかもしれないし、特に思い出されることもなく、ただ人生全体の時間のほんの一部ということになるだけかもしれない(と、こう書いてみて前回「世紀の発見」について書いた時も似たようなことを書いたかもしれない。特に子供時代、ひとは誰もが名状しがたい一瞬を経験している、というような)。

この小説の概要を簡単に記しておく。

ブッダ、束縛という名の息子ラーフラ、孫のティッサ・メッテイヤ――人間ブッダから始まる三世代を描いた衝撃のデビュー作」(文庫本裏表紙より引用)

ブッダを題材にしているため、歴史小説のように感じる人がいるかもしれないので一応補足しておくが、これは歴史小説では全然なくて、むしろ現代的な感覚を描いた作品であると思う。ブッダにまつわる史実もいくらか含まれているらしいが、ほとんどが作者の創作である。だけれど、何故か説得力があって、ブッダは本当に描かれた風景を目にしたのではないか? と思えてくる。たぶん、精緻な描写が読者にそんな印象を抱かせるのだろう。

たとえばこんな描写もある。結婚記念に銀食器をもらったブッダがそれを見ている場面。

 

銀という金属の実物を、ブッダはそのとき生まれて初めて見た。磨き上げられたその輝きは、自然界にほんの一瞬だけ姿を現す非自然的な色彩、ハチドリが目の前をかすめて飛び去るときにちらと見せる羽の裏側や、砂漠を走り抜けるトカゲの陽を浴びた背中、真夏の満月のした沼面から飛び上がった雷魚の鱗、そういった色彩を切り取ったかのようだった。

(前掲書、15頁より引用)

 

先ほど引用したサギの桃色の口腔の奥もそうだが、この部分の描写も素晴らしい瞬間が切り取られている。銀という金属の輝きを描くのに持ち出される自然の一瞬の表情、まるで時間が停止したかのようにクローズアップして書かれる輝き。実際に眼で捉えることができない(少なくとも私にはできないし、たぶん誰も現在形で、ここまで精緻に自然を見ることはないと思う。)瞬間を読者の前に存在させてしまう力、そこが小説の面白さだとも思う。

この作品を一言で語るなら「個人の生のある瞬間の連なりが、大きな時間の流れをつくっているということ」という具合になるだろうか。ブッダラーフラ、ティッサ・メッテイヤという三世代や、鉄の歴史、虫の卵で生を繋ぐという発想、ヤショダラが大切にしている「生活」ということ、これら大きな流れで連続した時間(物語)を駆動させていくのだけど、しかしこうした大局の中にあっても、どうしても捨て去ることのできない個別的、具体的なものが個々の実感として確かに存在しているという手触りもまた、時間(物語)である。「個人の生のある瞬間の連なりが、大きな時間の流れをつくっているということ」は、時に「大きな時間の流れの中に、個人の生のある瞬間がかわすことができないほど強固に存在すること」というように反転する。焦点をどこにあてるかによって、この小説の見え方は変わって行く。「焦点とそのまわりの背景を反転」させてしまう。

「個人の生のある瞬間」と先ほどから書いているわけだが、それは具体的にどういうものかというと、たとえば「風景」なのだ。それは自然であったり、人間が作りだしたもの(特にブッダの居城の描写が私は好きだ)だったり、自分の子供が風景のように見えてしまうことだったり、子供に対してもステレオタイプ的な赤ん坊像を明確に否定し、あくまでブッダは(あるいはラーフラには)こう見えたんだ、ということを書いていく。この個別性、具体性がとても重要なのだと思う。ちなみにラーフラ(束縛の名をもつブッダの息子)にはこういう個々の出来事を忘却することができない、という設定が付される。

 

未来へ進めば進むほど、その分だけ大きくなった過去へと退行し、ずるずると底なしに引き込まれて行く、彼の人生は反する二方向への股裂きのような感があった。

(前掲書、50頁より引用)

 

忘れられないということは、それだけ過去が圧し掛かってくるということでそういうものに「束縛」されながら生きていくということなのだ。

 

登場人物が一瞬見たらしい風景の描写、その微細なひとつひとつの言葉に捕まってしまうかのように、この小説は読者によってゆっくりと読まれていくものだと思う。言葉のひとつひとつに「束縛」されながら、それでも時間は進んでいく。具体が時間を押し進める、この本を読んだ時に不思議な時間感覚を味わったのだけれど、それは言葉や風景に捕まったままでそれでも何処かへ進んでいくという、その不思議さだったのかもしれない。

 

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