言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

キャプション以前の―磯﨑憲一郎『世紀の発見』

この小説は私にとって、どういうわけだかひどく思い出深いものなのだ。本当に大好きな本であるにも関わらず長い間所有することはなく、そうであるにも関わらず何故か何度も読み返しており、どこで読み返したのかと考えていると実にいろいろな町の図書館の閲覧室で読んでいたことに思い至る。そうして開くたびに、「意味付けなどいっさい拒否するただそれが起こったままにしか語れない不思議な出来事」に遭遇してきた。確かに、こういう感覚ってあるよな、などと思いつつ。
今回は2012年に出た河出文庫版をようやく買って手に取っている。単行本は2009年6月に河出書房新社より刊行されていた。「世紀の発見」(初出「文藝」2008年冬季号)と「絵画」(「群像」2009年5月号)という二つの作品がおさめられている。

 

磯﨑憲一郎『世紀の発見』(河出文庫、2012年)

 

世紀の発見 (河出文庫)

世紀の発見 (河出文庫)

 

 


今回ブログでは私が礒﨑作品で特に好きな「世紀の発見」について書いていきたい。

 

 

子供の頃、誰もが「世紀の発見」と言っても過言ではないような事柄に遭遇しているはずで、それは夏の夕方土手で普段見慣れている在来線とは違う、どこか風景から浮いた異質さを感じる黒くて巨大な機関車を見たことだったり、池でマグロのような大きさのコイをみたことだったりする。近所のよく知っている森(それも冬)にラフレシアが隠されていると信じることや、ふと立ち止まった場所に名状しがたい光景を見てしまったり、一緒にいたはずの友人Aが消えてしまったり。そういうこと――大人になってしまえば「不思議だったなぁ」という一言でくくれてしまうような出来事――が当たり前のように毎日おきていた。大人になってから思えば「奇妙な連続」と言いたくなるような毎日が子供時代だったのかもしれない。そういう時間の流れにおいて説明なんて一切が無意味なのだった。
「お母さん、今日こんなことがあったんだ」と報告したいと思うと同時に、しかしこの発見は誰にも言ってはならないものなのだという気もするし、そういえばこんなことがあったな、と大人になってから出来事に意味付けをして想起する自分もいる。しかし、その大人になった自分よりももっと先に、母だけが何もかもすべてを、「奇妙な連続」としか思えない子供時代の出来事すべてを知っていたのではないか? いや、もっと言えばすべて母が仕組んでいたのではないか? 主人公は自分の母親についてこんなことを思っている。

 

「強いていうならば、ずっと先の時間からいま現在を見下ろしているような、有無をいわせぬ、妙に抗しがたい力なのだ。」(前掲書、31頁ー32頁より引用)

 

報告したいことはすべて、すでに母が知っていることではないのか? あの子供の自分がした大発見も何もかも、母はすべてもっと先の時間から見下ろすようにすべて知っていたのではないだろうか?
そうなると唯一あるものが「母の報告」だけではないかと思い至った主人公は最後に仕立屋をしていた母が毎日レジの隅で書き留めていたメモを確認しようとするのだが、タクシーはどういうわけか仕立屋に辿り着くことができない。結局途中で車をおろされた場所が、かつて友人が消えたあたりで今は「古墳公園」として整備されている場所だった。そして、その古墳の説明の看板(キャプション)でこの小説は閉じられている。キャプションが説明、ということならば、この作品は説明として書かれる以前の、なんの意味付けもない出来事の連続を描いている。本来、出来事の連続には何の意味もない、しかしそこに何らかの意味与えたくなるのが人間のひとつのありようかもしれない。

私が今回この小説を読んで感じたことを率直に書いてみるとこうなる。ブログに書いてみることで一体だれに報告しているのだろうか、あるいは報告したいのだろうか。これが小説である以上、書いた人間(作者)がいるわけで、仮に作者に報告したとしても作者ははじめからみんな知っているのかもしれない……なんて考えていたら読んだり書いたりする行為というのはつくづく不思議なものだなと思えてきた(とかいうことを実ははじめから考えてこの文章を始めたわけではなかったから不思議だ)。あと何回、この作品を読むのかわからない、あと何回、この作品について語るのかわからない。だけれども、たぶんまたいろんな風景の中で過去にも未来にも、この本を開いている自分が見えるような気がする。この作品にはそういう魅力があると思う。

最後にひとつだけ引用。

 

「つまり俺は、誰のものでもある、不特定多数の人生を生きているということだな」しかしそれは自嘲などと呼ぶには程遠い、じつは奇妙な達成感だった。そう感じることによって、彼は長い回り道をしたあとでようやく人生の軌道に戻ってきたような安堵感に浸っていた。
(前掲書、91頁より引用)