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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

あこがれのまなざし、そのゆくえ―津島佑子『狩りの時代』

読書日記 日本文学

「差別ってよくない」「差別をやめよう」

なんていう言葉はもう何十年も(いや、もしかしたら自分の人生を超えているから実感が沸かないだけで実はもう何百年も)言われているのかもしれない。

しかし、何が差別で何が差別ではないのか? あまり考えられることもなく、私達は「常識」という既成の世界観の中でつい安穏としてしまう。誰もが差別を乗り越えなくてはならないと感じ続けている、けれどこの「差別」というのはやっかいな感情で、自覚していないことのほうが多いのかもしれない。「人種差別」「性差別」と言葉が与えられ、カテゴライズされているものは自覚しやすい。というか、私達はそういう差別の解消を叫びながら、別の差別できっと誰かを傷つけている。

まだ言葉を、たった一言で簡潔に言い切れるわかりやすい言葉を与えられていない感情や感覚を、津島佑子『狩りの時代』は小説という表現で私達読者にそっと残していってくれたのかもしれないヘイトスピーチの加速と、誰もがインターネットを介して簡単に発言できてしまう環境にどのくらいの関係性があるのか(それともないのか)私にはわからないままだ。

 

今回紹介する本は、津島佑子『狩りの時代』(文藝春秋、2016年)。

 

狩りの時代

狩りの時代

 

 

この小説は著者の死後パソコンからデータとして見つかったものだそうで、津島佑子最後の単行本になった作品だ。生前担当編集者に「ほとんど完成」しているとメールで書き送っていたものらしいのだが、書きかけの作品をこの世に残して旅立たなければならなかった著者の心境を想像すると、他人のくせについ、苦しくなる。

単行本の巻末に著者のご長女である津島香以さんの<「狩りの時代」の発見の経緯>、という文章が掲載されているのだが、それによると著者は2015年の暮れにこの小説について話していたらしい。

「差別の話になったわ」

と。

 

あのことばだけは消え去らない。その痛みだけは忘れられなかった。

ダウン症だった兄との思い出。ヒトラー・ユーゲントの来日。老核物理学者の見果てぬ夢……。この国の未来を照射する物語。

(帯文より引用)

 

読み始める前、「ダウン症」という言葉と「ヒトラー」という人物名がほんの少し結びついたくらいで、これらの事柄が作品内でどのように結びつくのか全く想像できなかった。

あらすじを簡単に書いておくと以下のようになる。

物語の大半は絵美子という人物に焦点が合わせられている。彼女がまだ子供だった頃のエピソードから大学、そして社会人になってゆく時間の流れが語られていく一方で、彼女をとりまく身内のエピソードが絡み合ってひとつの作品を折り上げていく。視点や時空間が自由奔放に揺れ動き、バラバラに見えていた個々のエピソードが絵美子とその母カズミを中心に据えた一族の歴史になっている。時間の扱い方も一定方向があるわけではなく、進んだり戻ったりするが、だいたい太平洋戦争開始直前~現代までが描かれている。

親戚の多い家らしくたくさんの登場人物が描かれるが、その誰もが「差別」に近接する経験を持っている。たとえば、絵美子の兄、耕一郎(こうちゃん)はダウン症だった。十五歳で他界してしまう兄との思い出を懐かしむ絵美子は、兄がいない母や自分を想像することさえできないと思っている。兄の存命中に「障害者差別」という言葉に触れることがなかった絵美子の思い出は美しい。しかしその一方で耕一郎についてこそこそ話す人間もいる。耕一郎と絵美子の母カズミは、子供たちには絶対に聞かせたくない言葉に晒されて生きてきたという側面もある。また、絵美子は母方のいとこから言われた「フテキカクシャ」という言葉についてずっと問いたださなければならないと感じながら生きていた。

物語はさらに複雑で、カズミの弟や妹が子供だった頃、日独伊同盟の使節団として日本にやってきたヒトラー・ユーゲントの少年たちを目撃したというエピソードが語られる。少年少女たちのこの経験、「美しい」アーリア人の少年たちを目撃した、そしてその「美しい」少年たちと自分たちの圧倒的な差を目の当たりにした少年少女の痛み(自分たちがどうしても劣っているように感じてしまう)と、ドイツへのあこがれというアンビバレントな感情がページを捲るたびに深く、読者の心に突き刺さってくる。同時に、じろじろと不躾な、好奇の眼差しを向けられ続けるヒトラー・ユーゲントの少年たちのことを考える描写ある。誰が悪い、というわけではない。ただ眼差しを向けるというだけで暴力になり得るというあやうさがそこにはある。

外国へのあこがれ。

世代が変わればあこがれる国も変わる。そのことが物語としてさりげなく提示されているように思えた。はじめはドイツ、その後物質的に圧倒的に裕福だったアメリカ、そのアメリカで生まれ育った世代があこがれるのはフランスのパリだ。

「あこがれ」という感情は物事の一面しかとらえてはいない。「差別」もそうかもしれない。どちらもある人物や集団、物事の一側面だけを取り出して誇張したところに生まれる感情かもしれない(単に「あこがれ」が直接「差別」に結びつくとか、そういうことを書きたいのではない。ただこのふたつの感情の対象への眼差しが似ているように思えてならないのは私だけだろうか。)早くに亡くなったカズミの夫の兄である永一郎は核物理学者であり、アメリカで成功している。しかし、若い頃には単なる「あこがれ」の的であった無限増殖する核エネルギーというものについて、実は人間とは共存できないのではないかと考えはじめる。

ヒトラー・ユーゲントをめぐる記憶、耳元で囁かれた「フテキカクシャ」という言葉をめぐる葛藤、そして様々な対象への「あこがれ」。これらが物語として提示されることで、私たちが自覚できないでいる「差別」の感情の存在を丁寧に浮かび上がらせていくように思える。

 

最後にひとつだけ引用して終わりにしたい。

 

ダウンジャケットに毛糸の帽子をかぶった子どもたちは、まだ朝の時間だということもあり、ピンクの頬がかがやくようで、いかにもかわいらしい。寛子は思わず、キスをしたくなる。美しいものがきらいだというひとはいるのだろうか。美しいものには、ひとはすぐにだまされる。寛子は自分の子どもたちを見て、ため息をもらす。美しくて、かわいらしい子どもがいれば、天使のようだ、とひとはいう。天使は醜い顔をしていてはいけないのだ。けれど、なにが醜くて、なにが美しいというのだろうか。ひとによって感じるものはちがうんじゃなかったの、と言いたくなる。それとも美とは人間の生命にとって、なによりも普遍的な価値なのだろうか。

(前掲書、23頁-24頁より引用)

 

 

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