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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

三人のアルテミオ・クルス、未来が過去を予言する??―カルロス・フエンテス『アルテミオ・クルスの死』

2017年もまだ始まったばかりだというのに、さっそく素晴らしい長篇小説に出会うことができた。今回はカルロス・フエンテス『アルテミオ・クルスの死』(新潮社、1985年)という本を紹介したい。

 

ちなみに以前カルロス・フエンテス『澄みわたる大地』について感想を書いたものはこちら(合わせてどうぞ)↓↓

 

mihiromer.hatenablog.com

 

外国文学を読んでいて特に感嘆するのは全体の構成……だろうか、と最近思う。小説についての認識が広がっていくのがとても楽しい(日本の小説を読んでいると構成よりは表現に目がいってしまう。逆にラテンアメリカ文学は表現より構成に目がいってしまう……。これはおそらく自分の日常の延長にあるのはラテン国ではなく、日本国だからだろう、いやでも自分自身にしみこんでいる感覚は日本の感覚なのだ)。

 

「わしには分らん……彼がわしで……お前が彼で……わしが三人の人間なのかどうか……それが分らん……お前は……お前はわしの中にいて、わしといっしょに死んでゆく……喋っていたのは……わしとお前と彼の三人だ……わしは……彼はわしの中にいて、わしといっしょに死ぬだろう……ひとりで……。」

(前掲書、355頁より引用)

 

「アルテミオ・クルス……名前……『むだだ』……『心臓』……『マッサージ』……『むだだ』……お前にはなにも分らないだろう……お前はわしの中にいた、わしはお前といっしょに死ぬだろう……三人……わたしたちは死ぬだろう……お前は……死ぬ……お前は死んだ……わしは死ぬだろう」

(前掲書、356頁より引用)

 

さて、本題『アルテミオ・クルスの死』についての感想を書いていく。私はこの作品ほど時間操作が巧みな小説をまだ読んだことがないと思う。小説における時間処理の方法を考える上で外せない作品かもしれない。

この小説は語りの構造が特異なのだ。

小説のあらすじをざっくり書いてしまうと、アルテミオ・クルスという人物の生涯とその最後の時(死)を書いた作品ということになる。恵まれない環境で生まれ育ち、革命戦争に参戦し、その後ビジネスで成功して富と自由と名声を勝ち取った71年の生涯。しかし単に生涯を書いたというのにとどまらないのがこの作品の魅力だ。書き方がとても面白いのだ。ふつう、ある登場人物の一生を書こうと思ったら生まれてから死ぬまでをひとつのストーリーとして構想してしまうだろう(いわゆる伝記的な書き方、ちょうどあらすじを紹介するのに上に書いたように)。または、人生に起こったエピソードの時間順序をばらばらにして語る方法もすぐに思いつく。しかし、それでは別に小説として面白くない。

この作品には三人の「アルテミオ・クルス」が想定され、語りの方法が三パターン用意されている。このまるで「アルテミオ・クルス」が分離したかのような書き方がこの作品の魅力だと思う。

  1. <わし>という一人称の語り、死にゆく老人の内的独白のパート(現在形)
  2. <お前>という二人称の語り、お前と呼びかけられる対象について予言的なパート(未来形)
  3. <彼>という三人称の語り、このパートの始まりには必ず年月日が示される。彼の行動が語られるパート(過去形)

それぞれ違った時制で語られる<わし><お前><彼>は、作品を読み進めていくとすべてアルテミオ・クルスのことを指しているらしいとわかってくる。現在「死」に瀕している<わし>は病床で過去を回想する(その回想の中で行動するのが<彼>だ)。そしてその過去回想のパートの前に、二人称<お前>の語りが挿入されていて、それが<彼>の行動を予言するような未来形の体裁(お前は~だろう。)を取っている(未来が、過去を予言する??)。

 

人称を変えることで<アルテミオ・クルス>の分離感を引出し、鏡やテープレコーダーの描写を用いてこの分離感を補強する(テープレコーダーが不思議な効果を醸し出している。このテープは仕事をしているアルテミオ・クルスの声を録音したもので、死の床で再生されるのである)。こんな表現もある。

 

反射神経の痛みがおさまると、今度は内臓の痛みがじりじり襲ってくるだろう、そして、お前は自分がふたりの人間に分割されたように感じるだろう。受身にまわる人間と行動する人間、感覚人間と行動人間に。

(前掲書、65頁より引用)

 

このような分離の感覚が<死>という一点に収斂し、現在のアルテミオ・クルスに重なっていく。異なった時間軸を束ねるために用いられた描写のひとつが星の光という現象である。カルロス・フエンテスは自分のモチーフ主要モチーフである大地のイメージに覆いかぶせるように、天体まで持ち出してきて「時間」を取り扱う。このスケールの大きさにただただ圧倒された。

 

星々の現在がお前の現在でないように、あの時間もまたお前の時間ではないだろう、お前はふたたび星を眺め、はるかな、おそらくはすでに死んでしまっている過去の時が送ってくる光を眺めるだろう……。お前が目にしているのは、数年前、あるいは数世紀前に、光源である星から発した光の亡霊でしかないだろう、その星はまだ生きているだろうか?……お前の目が見ている限り、星は生き続けるだろう……。今お前が眺め、その目で洗礼をほどこしてやろうとしている光は、過去の光なのだ、今――その星がまだ存在しているとして――その星から発した光は、はるかな未来にお前の目にとどくだろう、その星を眺めながら、お前はそれがすでに死んでしまっていることに気がつくだろう……。

(前掲書、352頁より引用)

 

<彼>という三人称のパートはそれだけ集めるとアルテミオ・クルスという人間の年代記になっている。構造の面白さを追求すると、物語性が抜け落ちてしまうことがあるのだけれど、カルロス・フエンテスの書く長篇小説は物語としても普通に面白い(実際、結構エンターテイメント的な勢いで読んでしまった部分がある)。記された年月日を整理してみると、アルテミオ・クルスは1889年4月9日に生まれ、1959年4月9日(71歳)で倒れている(その日のうちに死亡するかどうか直接書かれてはいないが、作者の徹底した時間処理のことを考えると、生年と同じ日に没年があるほうがしっくりくる気がする)。

 

なんとなく、まとまりに欠けた記事になってしまったがこの小説は本当に面白かったのでおススメしたい。読み始めは少し読みにくさを感じかもしれないが、慣れてくると作品の構造と内容に自然と引き込まれてあっという間に読み終わってしまう。