言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

<既知>なるものからにじみ出る<変>―コルタサル『海に投げこまれた瓶』

久しぶりにフリオ・コルタサルの短篇集を読んだ。やっぱり好きである。今回読んだのは、『海に投げこまれた瓶』という短篇集で、収録されている作品は以下の八作品である。

・「海に投げこまれた瓶」

・「局面の終わり」

・「二度目の遠征」

・「サタルサ」

・「夜の学校」

・「ずれた時間」

・「悪夢」

・「ある短篇のための日記」

 

海に投げこまれた瓶

海に投げこまれた瓶

 

 フリオ・コルタサル 著、鼓直・立花英裕 訳『海に投げこまれた瓶』(白水社、1990年)

 

今回はこの中から特に気に入った作品である「局面の終わり」「サタルサ」「ずれた時間」の感想を書いていこうと思う。本題に入る前に、訳者あとがきに引用されていたコルタサルの言葉を紹介しておこうと思う。「短篇の新しい形」というコルタサルの文章らしい。

 

「ぼくがこれまでに書いた短篇のほとんどが、ほかにいい名称がないこともあるが、いわゆる幻想的なジャンルに属している。十八世紀の哲学的・科学的オプティミズムが当然だと考えたように、つまり、法則、原理、因果律、明確な心理、正確に描かれた地理などの体系によっておおむね調和的に支配された世界のなかで、いっさいの描写と説明が可能であると信じる、あの欺瞞的なリアリズムに抵抗するものだ」

(『海に投げこまれた瓶』訳者あとがき194頁より引用)

 

訳者あとがきは次のように続く。

 

ついでコルタサルは、法則よりもむしろその法則の例外の探求に専念したアルフレッド・ジャリとの出会いを語り、それが「あまりにも素朴なリアリズムからはずれた文学」への志向を決定的なものにした、と述べている。幻想的なものはコルタサルにとって、因果律によって支配された現実的なもの以上のリアリティをもつものである。それは現実世界の一部をなしており、したがって、例外的な、非現実的な何ものかとしてではなく、われわれにとって<既知>なるものの隠れた姿として受け入れられるべきなのだ。

(前掲書、195頁より引用)

 

こんなわけなので、コルタサルの作品はなんだか変だ。変なのだが、ゆっくり読み返してみるとその変なものさえ、日常にしっかりはめこまれていることがわかる。変なものが、たとえばある日突然空から降ってきたりするようなものではなくて、あくまで私達が普段見ている風景の素材からにじみ出てくる、という感じなのだ。今回紹介する作品では「局面の終わり」は絵画とそれを展示する場からにじみ出た感覚を日常の別の地点にうつして意味を掬い取っていくように読めるし、「サタルサ」は回文の言葉が変形しながら現実へとにじんでくるし「ずれた時間」はある男女のすれ違いというよくある話をストーリーの筋にしつつ、それを思い出として「書き記す」という行為を通して生じた決定的な「ずれ」をにじませているのである。

 

■「局面の終わり」

 

二次元(絵)と三次元(現実の風景)を行ったり来たりするような作品で、絵が現実の風景ににじんできたり、現実の風景が絵ににじんでくるような感覚を味わうことができる作品だ。絵画と現実をはじめ、何もかも、すべての物が「相称性」を帯びているという感覚。作者は小説世界に流れる時間にさえ相称性を与えている。つまり「正午」を真ん中にして折ると、なんとなく重なってしまうような時間とそこにある風景が描かれているのだ。幾何学的な構造を持ったこの作品はゆっくり読み解いていくと細かな所にまで「相称性」を感じさせる要素が埋め込まれている。

ディアナという登場人物が「どこにでもあるような名前のその村」のカフェに立ち寄る所から小説は始まる。彼女の身の上はほとんど語られない。わかることと言えば彼女が何らかの喪失を抱えていることくらいだ。

 

「喪失(パーディード)」と、彼女は心のうちでくり返した。「デューク・エリントンのあの素敵な曲。でも、思い出すことすらできない。二重の喪失よ、お嬢さん。自分さえ喪失してしまった娘。四十にもなると、ひとつの言葉を口にしただけで泣けてくるのよね」

(『海に投げこまれた瓶』より「局面の終わり」17頁より引用)

 

「生きることが、純粋な受容になって」(16頁)しまったと感じる彼女は、「物を、あたかもこちらが見られているかのように見る」(17頁)、「村を歩き回るのではなく、村によって歩き回られるというあの感覚の再現」(22頁)というように、主体性を喪失したままに受容の感覚ばかりを研ぎ澄ませて村を歩いている。彼女の目に映る風景の描写が魅力的であるが、すべて引用することはできないので割愛させていただく(こういうところにコルタサル作品を読むことの楽しさがあるのだが……紹介できず無念)。

ディアナは美術館へ辿り着き、入場料を払って展示されている絵を観る。最初の部屋には4、5枚の絵があってそれらは、テーブルがひとつあって斜め上からの強烈な太陽光線によって照らされている、という主題の繰り返しだ。二番目の部屋には人物の絵(後ろ向きの人影)があった。その人影はたまたまそこを訪れた人間が大きな無人の館のなかを、ただ漫然と散策しているよう。それから、あまり明確でない庭園へと通じる広い出口が部屋の内景に結び付けられていた絵もあった。ここまで来て、正午を迎える。守衛がやってきて声をかけられ、彼女の観覧は中断されてしまう。二番前の部屋から次の部屋へと続く半開きのドア、そしてその先の部屋にある最後の一枚の絵を観ずにディアナは立ち去った。

再び町を歩くディアナの目は、美術館の絵にあったのとそっくりな回廊を見た。ためらうことなく庭園に入り、家の入口へ近づいて行った。「入場料を払っているのだ」という一文が読者に先に行った美術館の印象を強烈に思い出させる。

誰もいない家の中を漫然と散策する、奥の部屋のドアがしまっているのは美術館で最後の部屋を見なかったからだとディアナは思う。そのドアを開けて、彼女は部屋に入るとテーブルについてタバコをふかし始めた。「ディアナの背後のどこかで笑い声が聞こえ」(24頁)たような気がした。

再び美術館に行って、ディアナは最後の部屋を確かめた。二番目の部屋には男女のカップルがいて、小さな声で話し合っていた。

最後の絵には、一人の女が座っているテーブルと椅子の描写がなされていた。その絵を観てディアナはこんなことを思った。

 

「瞑想や眠りをはるかに越えて、ある投げやりな態度を見せつけていた。この女は死んでいる。垂れさがったその腕と髪。他の絵に見られた事物や存在の固定性よりも強烈な説明しがたい不動性」(26頁)

 

それから一度は車に乗って町を離れようと思ったのだけれど、結局ディアナはUターンしてもう一度あの家(美術館の絵にそっくりな家)へ向かう。そしてまたテーブルについてタバコを吸う。この反復は絵画のモチーフが繰り返されるのに似ている。

 

「太陽光線が壁をはい登り、彼女の体が、テーブルが、椅子が、ますます影を長くしていくのを見るのも気がきいているかもしれない。それとも、このまま、何も変化しないのだろうか。他のすべてのものと同じように、不動の彼女や煙と同じように、光線も動かず。」

(前掲書、29頁より引用)

 

この「不動」で作品は閉じられる。もうこれ以上、足したり引いたりすることをしない、この時点で作品が終わりを迎えているという「局面の終わり」は、彼女が作中で回想するオルランドという人物との関係性の終わり、それによる彼女の自己喪失までも含んでいるように思われてならない。

 

 

■「サタルサ」

 

『ネズミに罠を掛ける』(atar a la rata)、これは回文だ。原文は引っくり返しても同じ文言になる。しかし複数形にすると、回文ではなくなる。複数形はこうだ、『ネズミたちに罠を掛ける』(atar a las ratas)。これを反対から読むと『サタルサネズミ』(Satarsa la rata)になる。サタルサネズミ、それが何者かはさっぱりわからないが、単に回文を繰り返していただけでは見えなかった物事がほんのちょっと見方を変えるだけで(ここでは複数形にしてみただけで)見えるようになる。

……と、こんなくだらないことを考えているのはロサーノという男で彼はいつでもこんな遊びに熱中してしまう。物があるがままには見えず、いっさいが鏡に写ったように見えるらしい。

ロサーノをはじめ、この作品の登場人物は「あの虐殺のあと北部の谷を伝って逃亡して」きて今に至っている。彼らは今、ネズミ狩りをして暮らしを立てている。

自分たちの現在の状況と、回文遊びの言葉の重なりがとても面白い作品で、これ以上の説明はいらないように思う。

 

■「ずれた時間」

 

「ぼく」(アニバル)は書く、十二三歳の、子供のころの思い出を。友人のドロと彼の姉であるサラのことを書きつける。

 

「十二か十三歳の第七学級だったあのころ、ぼくたちは強い絆で結ばれた仲だったので、ドロについて書きながら彼と切り離して自分を感じることも、また、ドロについて書きながらページの外側に身を置いた自分を受け入れることも不可能なことだった。彼を見るということは即、ドロと一緒のアニバルであるぼくを見ることだった。」

(前掲書より「ずれた時間」108頁より引用)

 

ここから小説の大半は、バンフィールドという場所で過したドロとアニバル、そしてサラの淡い思い出の描写になるのだが、その思い出は、冒頭の「書く」という行為を通して言葉を与えられた風景である。

幼いアニバルはサラのことが好きだった。だけれどサラは年上のお姉さん的存在であり、ふたりの関係が恋人として発展することはなかった。やがてサラは結婚し、アニバルはブエノスアイレスへ引っ越すことになってしまい、ふたりの世界はずれてしまう。ふたりはブエノスアイレスで再会するのだけれど、ずれた時間はどうしようもなく、ぴったり重なり合うことはない。アニバルにはアニバルの生活があり、家庭もある。サラとは全然違った人生を歩みながら、ただサラのことを思い出して書き続けることしかできないのだ。

 

ある時点までは言葉たちは事実の世界にまたがり、太陽と夏をはらんで駆け回っていた。言葉=バンフィールドの中庭、言葉=ドロと遊びと河原。ひとつの忠実な記憶のざわめく蜂の巣。ただ、もはやサラでもバンフィールドでもなくなった時点に達したとき、書き記すことは日常的なものに堕し、思い出も夢も失われた実用的な現在と化して、それ以上でもそれ以下でもない生活そのものとなった。そのまま書き続けたいと思った。言葉もまた歩みつづけて、毎日訪れるぼくたちの今日、工学研究所での遅々とした仕事の日々ひとつである今日にいたることを受け入れて欲しかった。

(128頁より引用)

 

淡い思い出と現実の生活のずれ、それは言葉として書かれることで一層おおきなものになってしまうのかもしれない。取り返しのつかないくらい、決定的になった「ずれた時間」が読む者の前にくっきりと提示されてしまう。

作品構造の持つ厳格さと、思い出の淡さを一つの作品に共存させる、これはコルタサルにしか書けないと思った。