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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

弔いのかたち―杉本裕孝「弔い」

人は二度死ぬ。一度目は生物として死んだ時、二度目は人に忘れ去られた時だ、なとどいうのは一体どこで聞いた言葉だったかあやふやだが、馴染のある感覚である。

杉本裕孝「弔い」という作品では、人は二度生きる。一度目は死ぬ前の生、つまりふつうに生きているという状態、二度目は死後、遺された誰かによって思い出される回想の中の生だ。こんなふうに書いてしまうと、なんだ、この作品は単なる「いい話」なのか、と思われてしまいそうだが、それだけではたぶんない。面白いのは、回想の中の生は別の角度(違う人間の回想)から見た時にイメージが百八十度変わってしまうこともあるということだ。

杉本裕孝「弔い」(文學界2016年11月号掲載)

文學界2016年11月号

文學界2016年11月号

 

 

作者はデビュー作「ヴェジトピア」から「花の守」、今作「弔い」まで終始、植物のイメージを大切に描いている。生命と花が、丁寧に重ねあわせていく所に書き手の個性があるのではないか、とそんな風に私は思う。

「ヴェジトピア」を思い出すような、ちょっとおかしな手紙から「弔い」は書き出される。

 

わたくしは佐藤三朗ともうします。さんろうです。たいがいはさぶろうと読まれます。

(杉本裕孝「弔い」冒頭より引用、文學界2016年11月号、94頁)

 

(ごめんなさい、さぶろう、と打ち込んで変換しました /小声)

 

この小説の主人公であるもうすぐ古稀を迎える主人公、佐藤三朗はある日自宅のポストに入っていたチラシがきっかけで「エンディングノート」を書きはじめる。「エンディングノート」と呼ばれるものの通信講座(?!)のチラシだ。書き上がった「エンディングノート」を手紙として送ると、ふれあいユートピア百日紅容子という人から心のこもった返事が届く。作品中で手紙は全部で五往復することになるのだが初めて百日紅容子から届いた返信にもかなり大きな違和感があった。というか、この往復書簡自体がかなりおかしい。「エンディングノート」というものが具体的にどういうものなのかよくわからないけれど、それは遺された家族に何かを伝えるという目的を持ったものらしい、というのは百日紅容子の手紙からわかる。その「エンディングノート」の文章を赤の他人である百日紅容子に送って、添削してもらうというのが違和感の正体だ。送ってしまった「エンディングノート」は二度と佐藤三朗の家族の目に触れることはない(それなのに三朗は無邪気に家族に読まれることを考えていたりもする)。しかも、三朗は当初「エンディングノート」に嘘を書き綴っていた。

彼が回想し綴る人生は申し分のないほど幸せなものだ。妻がいて、娘がいる。彼女達を一生懸命養ってきた三朗の人生も誇りに満ちたものだった。百日紅容子の添削(アドバイス)を経て、三朗の嘘はさらにふくらみ、娘婿、孫という実際には存在していない人物まで登場させてしまう。家族たちに囲まれて悠々自適の老後を過ごしているという三朗、しかし三朗の本当の生活は悠々自適とは程遠いものなのだ。妻(節子)は2年前に亡くなっているし、三十歳になる娘(美花)は独身、親の家を離れて仕事に邁進している。三朗はというと、印刷会社を定年退職した後、清掃員派遣会社で働き始めた。「月曜から金曜まで休みなく、早朝から夕刻まで働いて、給金はかつての半分にも満たなかった」(103頁)、とても悠々自適とは言えない暮らしぶりだ。家に帰ってもひとり、身の回りの世話をしてくれる人もなく、職場でも「サブちゃん」の愛称で呼ばれているが、そもそも彼は「さぶろう」でさえない。

こういう疎外状態に置かれた人にとって、百日紅容子という人物の書いてよこす返事がどれほど心に沁みただろうと考えると胸が苦しくなる。手紙を重ねていくうちに三朗は、妻が園芸の趣味を持っていたことに気がつく。仕事人間だったため、ほとんど家庭を顧みることのなかった三朗は妻との時間を生き直すように庭いじりを始める。

 

庭は生きている。死んでいない。これほどまでに美しい庭をこれまで見過ごしてきた己の愚かしさへの腹立ちよりも、どこかで諦めていた庭がいまも生きているということの安堵が優って、三朗は、みえないものに感謝するように、我知らず、天を仰いでいた。

(前掲書108頁)

 

そうして、日常生活の中に己の心を満たすものを見出した時、三朗は「妻はいまもまだ生きている」と思えるようになるのだ。一度死んだ妻は、ここから二度目を生きることになる。三朗が妻と生き直そうと思っているのに寄り添うように、妻が生前手入れをしていた庭は甦り金木犀の花が香り立ち、ひらく。

しかし、妻の三回忌の法事で三朗の中で二度目の生を享受していた妻は決定的に「死ぬ」。というか、法事のために三朗と娘の美花は久しぶりに顔を合わせて食事をするのだが、そこで娘によって語られた母(三朗にとっては妻)の姿は想像さえしないものだったのだ……。これを妻の裏切りと自分に言い聞かせるのか、それとも自分のいたらなさを後悔する材料とするのか。

三朗は、理想を書き綴っていた百日紅容子への手紙を打ち切るように「さようなら」と書いた。妻と生き直していたような淡い生活は消え、同時に手入れをされることのなくなった庭は再び荒れ果てる。百日紅容子からの最後の手紙から墓石の展示販売に引き寄せられた三朗は、そこに集う老人たちを乾いた眼差しで見つめる。そうして「三朗は、不意に、妻は、もう生きていない、死んでいる、そう悟った」。 

 

ああ、そういうことか。三朗は思った。

なんということはない。これが人の世の常であった。

三朗の中で、これまで百日紅先生と交わした文字がひとつひとつ、植物の枯れるように色褪せていく。どこからか吹きつける冷たい風にそれらは一斉に巻き上げられ、そのようにてんでんばらばらにされて意味を失った文字たちは、そのままどこか遠く知らない場所にいともたやすく吹き飛ばされていく。そうして、三朗の庭には跡形もない。

(前掲書131頁)

 

この小説の前半に書かれているのは「精神的な弔い」であった。そこには遺された人による想像や理想、願望さえもあり、自在に大きく膨らんでいく世界であった。そこでは死者がもう一度生きていた。しかし、小説は終わりのほうへ向かうにつれて「物質的な弔い」に移行していく。三回忌の法要や墓石など、動かし難く一定の形式が定められた物質的な弔いには、どこか人の心を置き去りにする冷たさがある。誰も彼もが同じようで、個別性が切り捨てられた世界は固く閉ざされた世界であるように私には思えた。そこへ放り込まれた時、人は決定的に死ぬ。

エンディングノート」というものが人を弔うよすがになるとすれば、この作品は弔いというものをいろいろな側面から掘り下げて描いているのだと思う。

 

細かいところだけど、私はこの作品で主人公が「鍵」を探してごそごそやっているシーンの描写が面白かったし、とても好き。