Danse Macabre!

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名づけられた様々な魔法に放り込まれた遍歴の騎士―セルバンテス『ドン・キホーテ』後篇感想④

今回の更新で『ドン・キホーテ』後篇に関する一連の更新は終りになります。前篇も合わせれば随分とこの機知に富んだ郷士に振り回されていたような(汗)

 

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

ドン・キホーテ〈後篇1〉 (岩波文庫)

 

セルバンテス 著、牛島信明 訳『ドン・キホーテ』後篇 岩波文庫、2001年

 

彼の死を見とどけた司祭は公証人に、世間でドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャと呼びならわされていた善人アロンソ・キハーノは、天寿をまっとうしてみまかったということを、書きつけにして証明してもらいたい、と頼んだ。シデ・ハメーテ・ベネンヘーリ以外の作者が不届きにもドン・キホーテをよみがえらせ、彼の武勇伝を果てしなく書き続ける可能性を排除したいからだ、というのがその理由であった。

(前掲書、74章412頁)

 

こんなことが後篇の最後のほうに書かれているのだけれど、それというのもセルバンテスが存命中にでさえ、『ドン・キホーテ』続篇という贋作が世に出回ったからだ(この贋作の存在も後篇の物語の中に取り込まれている)。それだけでなく、この古典はその後の近代小説の成立発展に大きく寄与し、ことあるごとに見直され論じられてきた作品でもある。私がそもそも『ドン・キホーテ』を読もうと思ったのは自分の好きなラテンアメリカ文学の作家たちがみんな、多かれ少なかれ影響を受けているらしいことを知ったからだった。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの作品に「ドン・キホーテの作者、ピエール・メナール」という短篇がある(『伝奇集』収録)が、この作品は、セルバンテスの『ドン・キホーテ』を一字一句変えずに現代世界でもう一度書くというのはどういうことになるのか? まるで批評のように書かれた作品である。全く同じテクストが、背景となる時代や文化の違いによってどのように変質するのか、書くこと読むことがどういうことなのか、を書いた変な作品である。カルロス・フエンテスセルバンテスまたは読みの批判』も読むことや書くことについて、背景となる時代や文化と合わせて考えることで再検討を加えている(セルバンテス論の白眉とも評されるこの書物は、我々読者に「ドン・キホーテ」の読みの可能性を提示している)。

 

前置きがとても長くなってしまったが、それだけこの作品が後の時代に与えた影響は多く、今でも多くの人を「読む・書く」という営みの中へ引きずり込んでいるのではないだろうか。今回は以下の二点について書いていきたい。

・名づける、ということで作り上げられる世界の枠組み

・『ドン・キホーテ』にみられる魔法のしくみとその性質

 

 

■名づける、ということで作り上げられる世界の枠組み

 

ドン・キホーテは名づけるのが大好きだ。なぜなら「名づけ」という行為によって彼の大好きな物語がはじめて駆動するからである。前篇において、冒険の旅に出る前に彼は遍歴の騎士としての自分の名前、愛馬の名前、そして思い姫の名前をつけた。この名づけによって冒険(物語)が始まるが、後篇にも何度か「名づけ」のシーンがあるので紹介したい。

後篇の旅でドン・キホーテと従者サンチョ・パンサは、とある公爵夫妻の城(前篇であれほどドン・キホーテが執着をみせた本物の城である)に辿り着く。この公爵夫妻は『ドン・キホーテ前篇』の読者であり、ドン・キホーテの存在を知っていた。知っていたからこそ、城に招待し、歓待した。何故ならドン・キホーテを愚弄して楽しもうと思っていたからだ。公爵夫妻は様々な芝居を用意し、ドン・キホーテを騙していくのだが、そのひとつに「木馬クラビレーニョの冒険」がある。≪快速(アリヘロ)≫クラビレーニョとは、木材(レーニョ)でできていて額に大きな栓(クラビーハ)をつけており、しかも脚の速い(リヘーロ)ことを示しているもので、名前と実体がぴったり、「名前に関しては音に聞こえるロシナンテと十分に肩を並べることができる」(40章253-254頁)というもの。なにかといえば、公爵夫妻の悪ふざけのひとつで、ドン・キホーテを騙すために用意された木馬なのだが、この木馬は魔法の力によって空を飛び、少しも揺れることなくものすごいスピードで目的地へ辿り着くことができるという……(勿論、公爵夫妻の嘘である、本当にただの木馬)。これにまたがって目隠しをされたドン・キホーテとサンチョがしていた(と信じた)冒険が「木馬クラビレーニョの冒険」の物語である。この部分にも「クラビレーニョ」に関して立派に名づけがされてから冒険物語が始められている(ちなみに名づけたのは嘘をでっちあげた公爵夫妻だろう)。参考までに前篇第一巻よりロシナンテの名づけについて書かれた部分を引用しておこう。

 

かくして記憶をたどり、想像をはたらかせて、数多くの名前をこしらえたり、消したり、削ったり、付け足したり、こわしたり、またでっちあげたりしたあげく、ついにロシナンテと呼ぶことにした。彼の見るところでは、崇高にして響きの高いこの名はまた、この馬が以前(アンテス)は駄馬(ロシン)であったことを示すと同時に、現在は世にありとある駄馬(ロシン)の最高位にある逸物(アンテス)であることをも表しているのであった。

(『ドン・キホーテ』前篇1章、岩波文庫版51頁より引用)

 

この他にも後篇には名づけに関して面白いエピソードがある。銀月の騎士との決闘に敗れたドン・キホーテは遍歴の旅をしばらくやめることを決意するのだが、その間代りにやりたいと思ったことが牧人生活である。それをはじめるにあたってもドン・キホーテはちゃんと新しい名前を用意していた。≪牧人キホーティス≫(ドン・キホーテ)、≪牧人パンシーノ≫(サンチョ)、≪牧人サンソニーノ≫または≪牧人カラスコン≫(サンソン・カラスコ)、≪牧人ニクローソ≫(床屋のニコラス)、≪牧人クリアンブロ≫(司祭)などである。結局、牧人生活を始める前にドン・キホーテが死の床につくため、この名づけから物語がはじまることはなかったが、やはり物語に先行して名づけということが重要であったらしい、と思えてくる。

そういえば、現代日本の我々だって、子供の名づけを始めとして何かと名づけには慎重である。小説書きはじめの人によくあるのが「名前だけつけて満足する」パターンかもしれない。やはり物語に先行して名づけるという行為があるらしい。名前というものが世界観を規定する装置として機能し、また名づけという行為が物語の始まりの合図なのかもしれない。

 

 

■『ドン・キホーテ』にみられる魔法のしくみとその性質

 

前篇と後篇で、魔法の性質が異なっている。前篇の魔法の源泉は常にドン・キホーテの頭の中(つまり、ドン・キホーテの読書体験)にあった。彼の頭の中に端を発する(?)「魔法」に周囲が巻き込まれていくのが前篇だった。しかし後篇では、ドン・キホーテ自身が魔法の主導権を握ることはない。終始、周囲によって作り上げられた「魔法」の中をドン・キホーテは困惑しながら進むことになるのだ。最も多くの装置を用意し、周到にドン・キホーテを「魔法」に封じ込めたのが前述の公爵夫妻だ。「木馬クラビレーニョの冒険」の他にもドン・キホーテ主従は多くの「魔法」の中に放り込まれる。

しかし後篇において、一番はじめにドン・キホーテを後篇の「魔法」のロジックに落とし込んだのは従者のサンチョであった。

思い姫、ドゥルシネーアに会いにきたドン・キホーテの目の前には田舎娘の姿しかない。確かにドン・キホーテの目には「驢馬に乗った三人の百姓女」しか見えないのだが(そしてそれが間違いなく現実なのだが)サンチョがこう言う。

 

「まっ昼間の太陽みたいにきらきら輝きながら、そこにおいでなすった方々が姫たちだってことが分からねえとは、ひょっとしたら、お前様の目はぼんのくぼにでもくっついているのかね?」

(10章、164頁より引用)

 

ドン・キホーテにドゥシネーア姫への使いを頼まれたけれど、そんな姫が村にいるはずのないことを知っていたサンチョが苦し紛れについた嘘だ。田舎娘を「美しい姫だ」と言ってしまったのだ。しかしどう足掻いても、ドン・キホーテには田舎娘しか見えない(後篇の彼の目はわりと正しい、前篇では城に見えていた旅籠も、後篇ではちゃんと旅籠に見えている)。結局のところ、ドン・キホーテに敵対する魔法使いが、ドゥルシネーアの姿を醜い百姓娘に変えてしまった、しかしそんな悪い魔法によってドゥルシネーアの美しさを享受できないのは最も姫を想っているドン・キホーテだけなのだという解釈が生まれた。

 

まんまと悪ふざけに成功したサンチョは、ものの見事にだまされた主人のたわごとを聞いて、こみあげてくる笑いをかみ殺すのに一苦労だった。

(10章172頁-173頁)

 

はじめは自分こそがドン・キホーテを魔法にかけた(騙した)ことをはっきり理解していたサンチョであったが、公爵夫妻によってさらに嘘を上塗りされ(騙され)、本当に魔法によってドゥルシネーア姫の美しい容姿が損なわれたと信じてしまうようになる。

 

「さっきのドゥルシネーア姫の魔法の一件に話を戻しますけど、サンチョさんが御主人を愚弄して、百姓娘をドゥルシネーアだと思いこませた、つまり、御主人に姫の姿が見えなかったのは姫が魔法にかかっているせいだと思いこませたと、あなたが想像していらっしゃるあの件は、実はすべて、ドン・キホーテ様を迫害する魔法使いのうちの誰かの仕業であるってことを、わたくしは確認済みの間違いない事実だと思っているのよ。というのも、わたくしはたしかな筋から真実この上ない情報によって、驢馬の背に跳びのった田舎娘こそドゥルシネーア・デル・トボーソであったし、今でもそうであること、そして好漢サンチョは自分では騙したつもりでいても、実は騙されているのだということを知っているからです。」

(33章165頁、公爵夫人の台詞抜粋)

 

やがて姫にかけられた「魔法」を解くための条件に、サンチョが自分の意思で自分自身に三千と三百回の鞭打ちをすることが定められる。もちろん、この魔法解きも公爵夫妻によって作られた「魔法」(つまり嘘)のうちに含まれるのだが……。

 

自分の読書経験に裏打ちされていた「物語」を動き回っていたドン・キホーテが後篇になると(そして後篇のほうが本物の城や冒険にあふれている)影をひそめてしまう。読まれる存在となったドン・キホーテは単に自分が読んだ多くの騎士道物語を生きることができなくなってしまったのだった。何が本当の冒険で、何が嘘なのか、モンテシーノスの洞窟の冒険でもそうであったが、ドン・キホーテは前篇ほどに「物語」を信じることができなくなっている。

なぜ、ドストエフスキーが『ドン・キホーテ』を「最も悲しい物語」と評したのかはわからないままだが、案外こういう自由を奪われたドン・キホーテに悲しさを感じたのかもしれない、と読む者の特権として勝手に思っておこう。

 

ずいぶんと長くなってしまったが、これにて『ドン・キホーテ』前篇・後篇の感想更新はすべて終り! 2016年、この本を読んで本当に良かったと思う。

 

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