Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

化かされて、愉快いな―泉鏡花「化鳥」

化ける、というのはどういうことなのだろうとふと考えた。辞書的な意味を引いておくと「本来の姿・形を変えて別のものになる」ということ。私達は「化ける」ことよりも、たぶん「化かされる」ことのほうが身近に感じられるのではないだろうか? 自分が化けても、たぶん自分はその変化に気がつかない。

泉鏡花の「化鳥」という作品は、鏡花初の口語体小説なのだそう。文語体にはない語りのやわらかさは童話のようにも感じられる。過去と現在が口語体のやわらかな語りによって自然と曲線で繋がったような作品、それが「化鳥」だ。この作品以前の鏡花作品は過去と現在が舞台の場面転換のようにくっきりしていたが、口語の地の文と台詞が自然に繋がる「化鳥」では時間の境界線がぼかされ、淡い印象の作品になっている。はじめて読んだ時の印象は「鏡花が化けた」だった。

 

化鳥

化鳥

 

 

あらすじを簡単に書くと、語り手「私」(廉という名前の少年)とその母親(母様)は橋を渡る人からとる通行料(橋銭)で暮らしを立てている。描写から考えて裕福ではないだろう。苦しいことのほうがずっと多いだろう。そんな生活の中の、ある雨の日に「私」は窓から顔を出して橋を通る人を見ている。景色を見ている語り手の目線が作品世界そのものになっていくのだが、ここが本当に面白い。「化ける」「化かされる」という視点でこの作品を見てみると作品の構造と内容が一致していることの気がつく。つまり、独断的な一人称の語りで進行していく作品なのだが、その「独断」こそが作品の世界観を立ち上げる大切な要素なのだ。

 

愉快(おもしろ)いな、愉快いな、お天気が悪くって外へ出て遊べなくなっても可いや、笠を着て、蓑を着て、雨の降るなかをびしょびしょ濡れながら、橋の上を渡って行くのは猪だ。

(「化鳥」冒頭より引用)

 

語り手の目線で、人間は様々な物に化ける(ちなみに語り手にそういう物の見方、認識を与えたのは母様である)。冒頭の橋を渡る人は猪に、釣りをする人は蕈(きのこ)に、洋服を着た男は鮟鱇(あんこう)に化ける。

鮟鱇のくだりはちょっと面白いので引用しておこう。橋を渡ってくるでっぷり太った洋服を着た男に対して母様は「あれは博士ぶりというのである」とおっしゃった。それに対して語り手は地の文でこう切り返している。

「けれども鰤(ぶり)ではたしかにない、あの腹のふくれた様子といったら、まるで鮟鱇に肖(に)ているので、私は蔭じゃあ鮟鱇博士といいますワ。」

 

川に落ちてしまった鮟鱇博士の蝙蝠傘は、連なる会話や、言葉のイメージもあってかどこか「蝙蝠」のような気もしてくるし、あくびをした「私」の赤い口がふと獣を思わせたりもする。「人があるいて行く時、片足をあげた処は一本脚の鳥のようでおもしろい。人の笑うのを見ると獣が大きな赤い口をあけたよと思っておもしろい。」(6章より引用)が、後半の「私」のあくびというなんのことはない動作に「獣」のイメージを上塗りする。そしてそのすぐ後で、「私」は自分自身の姿が鳥のように見えて驚いた、と続く(こういう描写の仕掛けは細かい所も含めてかなりたくさんあると思う)。

とにかく読んでいくと、読書はいろいろなものに化かされているらしいことに気がつく。作品世界の雰囲気を生み出す多くのものは語りの力によって化けたもので、読者はうっかり作品世界に化かされている。所々出てくる「赤」や「朱」という華やかな色調にすら化かされている。親子の生活は貧しく辛いものなのかもしれないが、そんな雰囲気はほとんど滲んでこない。あでやかに化けた世界が作品として立ち現われる。

 

かつて川に落ちた日の「私」は何者かによって助けられた。

 

もういかんとあきらめるとトタンに胸が痛かった、それから悠々と水を吸った、するとうっとりして何だか分からなくなったと思うと、ばっと糸のような真赤な光線がさして、一幅あかるくなったなかにこの身体が包まれたので、ほっといきをつくと、山の端が遠く見えて、私のからだは地(つち)を放れて、その頂より上の処に冷たいものに抱えられていたようで、大きなうつくしい目が、濡髪をかぶって私の頬ん処へくっついたから、ただ縋り着いてじっとして眼を眠った覚がある。夢ではない。

(溺れた「私」が助けられたらしい場面より引用)

 

「私」を助けた者、それが一体誰だったのか、「私」が尋ねると母様は「廉や、それはね、大きな五色の翼があって天上に遊んでいるうつくしい姉さんだよ。」と答える。「鳥じゃあないよ、翼の生えた美しい姉さんだよ」

「私」はもう一度その「うつくしい姉さん」に会いたいと思うが果たせない。もしかしたらそれは母様のことなのかもしれないし(化けた母様)、全然違う人かもしれない。

どんな存在であれ、夢のような風景描写(真赤な光線、なんて鮮やか)が「五色の翼があって天上に遊んでいるうつくしい姉さん」という存在に、神秘的でよりあでやかでうつくしい印象を与えているのに変わりはない。

 

小説を読むことの豊かさとは、語を継いでいく時に喚起されるイメージの豊かさなんじゃないかと思った。化かされて、愉快いな、愉快いな。