Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

極端のはしっこ―泉鏡花「夜行巡査」を読んで

今年に入って、少しずつだったが、数か月間かけて泉鏡花の作品を読んでいた。先日ひと段落したので、作品をいくつか紹介しておこうと思う。

泉鏡花は、明治後期から昭和初期にかけて活躍した作家で近代における幻想文学の先駆けとしても評価されているそうだ(泉鏡花 - Wikipedia)。今年になって突然、彼の作品を読もうと思ったのは、私が大好きな中島敦がこんなことを書いたらしいというのを知ったからである。

 

私がここで大威張りで言いたいのは、日本人に生れながら、あるいは日本語を解しながら、鏡花の作品を読まないのは、折角の日本人たる特権を抛棄しているようなものだ。ということである。

中島敦泉鏡花氏の文章』(エッセイ)より

 

 

そこまで言うなら……と青空文庫から手当たり次第に鏡花作品を手に取った。文語体のキリッとした澄みわたる文と語のリズムが印象的な作品と、口語体でふわっとした後味の残る幽玄が印象的な作品があるように思った。幻想文学の先駆け、と言われるのはおそらく後者の作品のイメージではないかと無学な私は思ったのだった。

 

何度かに分けて、以下の鏡花作品について取り上げたいと思う。

「夜行巡査」(1895年、文芸倶楽部)、「照葉狂言」(1896年、読売新聞)、「化鳥」(1897年、新著月刊)、「高野聖」(1900年、新小説)、「春昼」「春昼後刻」(1906年、新小説)、「歌行燈」(1910年、新小説)

第一回目である今回は「夜行巡査」について書いていきたい。

 

■「夜行巡査」

 

 

夜行巡査

夜行巡査

 

 

この作品は、ひとつひとつが短い全6章からなる短篇小説だ。現代小説を読み慣れている人にとってこの作品はどこか小説として不自然に感じられるかもしれない。一幕一幕はっきりした物語が演じられる舞台を見ているように、小説は進んでいく。初期作品を何か取り上げようと思って書いてみるが、実は私の中ではあまり評価の高い作品ではない。さっぱりした地の文の小気味の良さは良いのだが、どうにもすっきり平坦な作品になりすぎている気がする。うろんなところがないというか、見通しが良すぎるというか。

 

小説は、職忍体の壮佼(わかもの)と車夫の老人の会話から始まる。50を過ぎ60近くにもなる年齢の老人はどうやら巡査に咎められたらしい。お咎めの理由は、みなりが悪いという些細なことだ。老人には一人息子がいたが、この秋兵隊にとられてしまった。残された嫁と子を養うために、老人は車夫として働きなんとか貧しい暮らしを立てている。老人が巡査に咎められたという話を聞いて、巡査という奴はなんて情のない奴だ、とそれを「みなりが悪い」と言って咎めるとは巡査という奴はなんて情のない奴だ、と壮佼(わかもの)は腹を立て、巡査を罵る。 この二人が話している巡査というのが八田義延という人物で、彼は「明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町の交番を発し、一時間交代の巡回の途に就」いていた。この八田巡査についての描写がとても面白いのだが、それについてはまた後程書きたいと思う。八田巡査は老車夫を咎めたのと同じくらいに非常な態度で、子供を抱いた婦人をも冷然と咎める(寝ちゃあいかん、軒下で)。八田巡査の冷淡な仕事ぶりを2章まで書き、3章からは新たな人物が登場する。「伯父さん」と呼ばれる老人と連れだって夜道を歩く年紀少き(としわかき)美人、お香(こう)である。二人は他家の婚礼に出席した帰りのようだ。実は八田巡査とお香は恋仲である。が、伯父がどうしても結婚を許さない。昔、伯父はお香の母に惚れていたが、その恋は叶うことがなかった。「恋に失望したもののその苦痛(くるしみ)というものはおよそ、どのくらいであるということを、思い知らせたいばっかりに」伯父は若い二人を想い合わせたまま、その想いが成就するのを妨げ続けているのである。そんなエゴイズムに凝り固まった内面を語る伯父、それを聞くお香、そんな二人に巡回中の八田巡査が追いついてしまう。ここから物語は一気に終わりを迎える。伯父の冷淡を振り切るように駆けだすお香、彼女を追いかけて堀端の土手から水に落ちる伯父、その叔父を助けようと水に飛び込む泳げない八田巡査……(おいおい)。二人の恋路を阻む伯父など、いっそこのまま死んでしまえばいい……とお香は思ったかもしれない。だけれど職務に忠実すぎる八田巡査はそう思えなかった。結局巡査は職務だ、職掌だ、と言って生命とともに愛を棄ててしまうのだった。世間は八田巡査を仁なりと称すが本当にそうなのだろうか、それに八田巡査が罪のない老車夫や婦人を職務に忠実に、厳しく責めたことについて讃嘆するものはどうしていないのだろうか、と物語は終わる。

 

真面目過ぎて困った巡査である。

この真面目さが何度も強調されていて、その記述がとても面白い。本当に融通の利かぬ男なのである。上にも書いた通り、八田巡査は「明治二十七年十二月十日の午後零時をもって某町の交番を発し」たのである。これは作品の日時を明らかにすると同時に八田巡査の性格の細かさを表しているように思える。この小説にここまでかっちりとした日時の設定が必要であるとは思えないし、鏡花であるなら風景の描写だけで充分十二月の真夜中を書けるはずなのである。それからこういう表現もある。伯父とお香が歩いているのにこのままだと追いついてしまう八田巡査はどうしても進路の変更ができなかった。

 

「されども渠(かれ)はその職掌を堅守するため、自家が確定せし平時における一式の法則あり。交番を出でて幾曲りの道を巡り、再び駐在所に帰るまで歩数約三万八千九百六十二と。情のために道を迂回し、あるいは疾走し、緩歩し、立停するは、職務に尽くすべき責任に対して、渠が屑(いさぎよ)しとせざりしところなり。」

 

細けぇよ!!歩数!!(思わず笑ってしまったじゃないか。)

 

実は誰の願いも叶わない物語(伯父はかつて恋に破れ、巡査とお香の恋が成就することもなかった)である。伯父も巡査も度を越えている。伯父の復讐はどう考えてもやりすぎだし、巡査の職務への態度も行き過ぎである。極端すぎた二人がその極端を最後のはしっこまで極めたところにこの物語の結末があったのかもしれない。始めにあらすじを書いてしまったが、本文を読まないとわからないほどに伯父の感情はねじれているし、巡査の態度は淡々としている。両極端ともいえる二人の間に立たされるお香について考える時、私はちょっと言葉をなくしてしまう。同時に、精読した結果、鏡花の作品として良いとは言えない作品の構造につまらないものを感じてしまった(初期の鏡花作品は平坦だな、という印象を持ってしまった)。

 

 

※次回は「照葉狂言」について感想を書く予定です。