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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

人生が凪ぐ時―ル・クレジオ『偶然――帆船アザールの冒険 アンゴリ・マーラ』

今回紹介する書籍にはふたつの小説が収録されている。「偶然――帆船アザールの冒険」と中篇小説の「アンゴリ・マーラ」だ。当ブログでは今回「偶然――帆船アザールの冒険」についての感想を書いていきたいと思う。

 ル・クレジオ、菅野昭正 訳『偶然――帆船アザールの冒険 アンゴリ・マーラ』(集英社、2002年)

 

偶然―帆船アザールの冒険

偶然―帆船アザールの冒険

 

 

思い出の現実性は日に日に、時々刻々に薄弱になり、ぼろぼろ崩れ、ちりぢりに消えていった。現実性とは、つまり時間割のことだった。七時に起きること、掃除、便器の汚れ落とし、床磨きなどみんなが順番にやる雑役。授業、学習、食事、授業、学習、食事。参加随意の礼拝堂での瞑想、あるいはまた井戸の底を覗きこむように画面を見つめるテレヴィの番組、動きまわる人物とか、女の歌手とか、おしゃべり好きの女たちとか、ある精神病院の日誌の抜粋をもとにして作ったショウとか。頭のまわりに輪があって締めつけられ、敷布(シーツ)に汗が貼りつき、眠れない夜々。暗がりでマスターベーションをしている娘たちの吐息。

(前掲書、155頁より引用)

 

この小説を一読した時、私は作品に描かれた「損なわれるもの」ということに注目して読んでいた。人生の中では実にたくさんのものが失われたり、忘れ去られたりしていく。「損なわれるもの」、それは破壊に直面する物体であったり、人が去って行くことによって失われる関係性であったりする。前者で最も印象的なものは帆船アザールだ。様々な偶然の中で、様々な偶然を乗せて、帆船アザールは突き進み、やがて停止し、廃船となる。「アザールは一年前からヴィルフランシュの正面埠頭に釘づけにされていて、ゆっくりと難破船の残骸に変わりつつあった。」(前掲書、151頁より引用)という帆船の運命は、その船長である映画監督の男モゲルの没落と重ね合されている。モゲルの人生の全盛期に帆船アザールは勢いよく波を切って大洋を渡っていた。それが最後は沈められ、モゲルの命も病院で尽きてしまう。帆船が損なわれる前に、その帆船に乗り込むことになった少女ナシマも多くのものを損ないながら生きている。たとえば彼女の父、ケルガスはある日突然去ってしまって行方不明だし、父親がいなくなってしまったことによってそれまでの生活にあったありとあらゆるものを手放すことになってしまった経緯が語られる。母ナディアも変わってしまった。帆船アザールに乗り込んだナシマはその冒険の中で生きていることを実感するが、やがて冒険は終わってしまい、その思い出も失われていく。同時に「過去のナシマ」も失われていく。

 

「ナシマは別の人間になってしまった。彼女はほとんどすべてのことを忘れた。」

(前掲書、14頁より引用)

 

「別の人間になる」ということは、作品内に何度か出てくる言い回しで、この小説はひとりの少女とひとりの映画監督の男(モゲル)がそれぞれの人生の中で「変わっていく」ことを描いたものだと私は思った。変わっていくことに対して、それが良いことだとか悪いことだとかという価値判断はなされていない。ただ、変わっていくものがある。それはすべて「偶然」による、ただそれだけのこと。

時々、ナシマの人生とモゲルの人生の中にある諸要素が重なり合って見える部分がある。たとえばナシマの父とモゲルその人、ナシマとモゲルの娘サリータ。それからマテという少女。決して交わることのない登場人物たちが、偶然交わることになった登場人物たちの交流の中で思い出され、重ね合される。そういう瞬間をちらつかせながら、しかし人生の時間は過ぎていく。

私達はあらゆるものを損ないながら生きている。

何も壊してはいないようでも、一秒一秒を消費し、消費されたすべての時間は偶然の中に投げ込まれていく。過去を慈しむようなル・クレジオの描写(単純ではないが回想形式のような雰囲気のもの?)であるのに、その大切な過去さえ忘れてしまう人物たちが描かれていて、読者が獲得したイメージが裂かれていく。あらゆるものが損なわれていく。現在の自分自身もやがて「過去の自分」として忘却され損なわれる。同時に周囲との関係性も変わっていく。日常生活の一挙一投足も過ぎ去って行く。

しかし、こういうことに敏感になって考え込んでしまう時というのは「人生の凪」とでも言うべき時期ではないだろうか?物事が進まなくなった時に人は立ち止まって考えざるをえなくなる。

実はナシマが乗組んだ帆船アザールが驚異的な凪の中で停止してしまう場面があるのだが、その時の静寂は乗組員(モゲル、ナシマ、アンドリアムナの三人)を不安に誘う。

 

ナシマはデッキへあがった。デッキの床板はもう熱くなっていた。船の周囲では海は滑らかで、暗い色をし、細かな震えに覆われて円滑に動いてゆく緩やかな波のうねりですこし窪みができた。どの波もやっと一息ついたというような、深い溜息をつくような音を立てて船体の下を通過し、そして船のほうはまるで痛みに苦しむかのように軋むのだった。

それは不安を誘うものだった、そういう重苦しい打撃によって中断されるその静けさは。アンドリアムナは放心したような表情を浮かべていたが、海の麻痺状態が彼の中に入りこんでしまっていた。

(前掲書、92頁より引用)

 

「一日一日が長く、日々がどんなふうにいつ始まったのかよく分からなかった。」(前掲書、84頁より引用)という感覚に過ぎ去って行く時間。モゲルはナシマに向かってこんなことを語る。

 

モゲルも太陽の広がりを前にして物思いにふけっているように見えた。「この航路以上のものはないんだよ」、と彼は言った、「これだと二つの世界のあいだを進むんで、そのどちらに属するということもないし、それに最後まで行きつけるかどうかさえ確かじゃない。これは砂漠のようなもので、名前もないし、特徴もないし、誰のものでもないし、歴史もないし、いつでも新しいんだ。」

(前掲書、85頁-86頁より引用)

 

どうやら私は「どちらに属するということもない」というどっちつかずの宙ぶらりんの状態に興味があるらしい(だからこんな風に読んでしまう、あまり良い読者ではない)。たとえ進んでいても、それが安定を保障された航路ではなく、しかもべた凪状態に陥ってまったく動けなくなってしまうという「冒険」のイメージから遠く離れた場所で、人はふと時間が過ぎていくということに思いを馳せてしまうのではないだろうか。ナシマは凪の只中で、その日がちょうどクリスマスであることを思い出すのだ。

 

私にとって人生とはだいたいこんなもので、静かに凪いだ時間の中で過ぎて行ったもの(損なわれたもの)を回想する。逆に何かを順調に進めている時に「時間」を意識することはない。回想した時間もあっという間に過去になり、そうしてまた別のどこかで回想されることになるのかもしれない。そうして、変わっているということに、変わってしまったものたちに囲まれて気がつく。別の人間になってしまって多くの物を損なって立っているのだ。たぶん、一生がこんな風に過ぎていく、それが良いとか悪いとか、そういう価値判断とは別に時間は過ぎ、そのすべてが偶然の中に流れ込んでいく。