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Danse Macabre!

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。

素材と表現の立場、自覚的に鑑賞すること―伊福部昭『音楽入門』について

伊福部昭、という人の名前を聞いてもそれが何者なのかいまいちピンとこない、という人であっても映画「ゴジラ」の音楽を作曲した人だよ、と言ってあげるとわかってくれたりする。それが良いことなのか、悪いことなのかはわからないが、ひとまず私はよく伊福部昭という作曲家を紹介する時にこんな風に言うことにしている。しかし、それでは伊福部昭についてほとんど何も語っていないのと変わらない。

今回紹介する本は、伊福部昭が自身の音楽論について譜例ひとつ用いず文章だけで書いたもので、最初に世に出たのは1951年だそうだ。その後1985年と2003年に再販され、今年になってさらに文庫化された。私は2003年に全音楽譜出版社から刊行されたものを愛読していたのだが、度重なる引っ越しのさなか、どこかへ紛失してしまっていた。だから今回の文庫化はとても嬉しかった。

 

音楽入門 (角川ソフィア文庫)
 

 

 

本書を読んでいると著者の幅広い知識には驚いてしまう。音楽家であるから、音楽のことは勿論だが、絵画や文学についても広く言及されており、「音楽論」というにとどまらず広く「芸術論」と読めそうな箇所が多い。著者は版を重ねる度に「かなりの時代のずれを感じた」ことを跋文に残しているが、未だにこの本が読まれるのは間違いなく「芸術」というものに対する著者の感覚が時代を超える不変性を持っていたからだろう。

実は私が持っている素朴な文学観は伊福部昭に大いに影響されている。

「第三章 音楽の素材と表現」という部分では、新聞記事を例に挙げて文学というものの力を説明している。どういうことか、かいつまんで書くと以下のような感じになる。

新聞記事というものはそこに書かれた事柄に力があるのであって、表現そのものに力があるのではない。しかし「文学」であるならば、たとえ新聞で報道されているような事柄と同じような内容の事件が書かれていたとしても、「人類と共に生き続ける」ことができるという。逆に新聞記事の内容はすぐに記憶から消え去ってしまう。すぐれた文学や音楽には、「素材と表現の立場を明確に現し得た精神の勝利」があり、それが芸術の力だという。

文学に関係しそうな部分をひとつだけ引用しておこう。

 

私たちの周囲には、このような誤った単なる影響を真の教養と思い込み、私たちが私たちの語法で語ろうとすることを恥じ、そのような態度を無知無教養として受け取る風潮はないでしょうか。ゲーテがいいますように「真の教養とは、再び取り戻された純真さに他ならない」のであって、真の音楽的教養とは、学び取った知識と影響を乗り越え、再び自己の肌色に立ち戻って音楽を志向し、音楽を鑑賞し、音楽を表現することに他ならないのではないでしょうか。

(前掲書、「第十一章 音楽における民族性」152頁-153頁より引用)

 

書き出しの「このような誤った単なる影響」というのは主に音楽におけるヨーロッパの強い影響のことを指している。

私が語る場合、上に引用した言葉のうち「音楽」を「文学」に置き換えることになる。私には、人間が生み出し得たもので、まだ十分に受容したとは言い切れない作品が山のように存在する。それらを学ぶこと、そして自分の言葉で咀嚼すること、さらにそれを乗り越えることで自分の切実な言葉を見つけること、それが小説を書いている私の基本的なスタンスになっている。勿論、過去に生み出み出されたものだけでなく、今なお文学的活動は連綿と続いており、作品は脈々と書かれている。そのすべてを受け止めることはできないが、自分の感覚を信じて選び、学び続ける姿勢だけは忘れたくないと思っている。

 

この本で最も印象的な部分は人によって違うのかもしれないが、有名な部分を以下に紹介したい。

「音楽は音楽以外の何ものも表現しない」というストラヴィンスキーの有名な言葉を伊福部は自身の音楽論で補強していく。ストラヴィンスキーのこの言葉に出て来る「表現」というのは伊福部によると「音楽は言語のようにある特定のものを説明するものではない」ということになるのだが、そんな当たり前のこと……と思ってしまうくらいに素朴な考え方である。そんな素朴ささえ現代に生きる私達は、念頭に置いていないことがよくある。

別のところで伊福部は、「現代人は現代の絵画に一番親近感を覚える」と語っているのだが、どういうわけか音楽は違うらしい。音楽だけは時代的な隔たりのある古い作品でも意識せずに観賞されてしまうという。確かに現代でも「クラシック音楽」には高級なイメージがついているような気がするし、それこそが「純音楽だ」という主張が漠然とあるように感じることがある。その理由として伊福部は19世紀ロマン派音楽に良く見られる音楽に対する過剰な意味づけをあげている。エリック・サティの「ジムノペディ」とシュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語れり」を比べた場合、後者には音楽的価値はなく、ただ「哲学的な」題名を拝借して偉大な作品を装っているに過ぎないのだと。こういう間違った観賞の態度(哲学的、絵画的な装飾を音楽に付与する観賞態度)が蔓延した結果、現代人は現代の音楽に共感しにくくなってしまった。何故なら演奏回数が少ない、という基本的な問題点はさておき、現代の音楽には装飾という意味での「解説」が少なく、聴衆が作品に対して共感を持ちにくい、つまり誤った観賞態度の影響で聴衆は自分の耳で音楽を聴くことができなくなっているのではないか? と伊福部は語るのだ。

少し驚くのだが、この文脈は「文学」においても多少機能すると思う。私にとってはずっと謎なのだが、どういうわけか「文学大好き」な読書家たちの多くは何故か昔の文学についてよく語っている(実は当ブログに検索から流れてくるアクセスの大概はカフカトルストイメルヴィルについての記事、いわゆる古典と呼ばれるものや価値判断がすでに決定している「偉大な文学」についてのものばかりである、現代文学に関する記事を書いてもそれが世間的な話題になっている間しか読まれていない、恐ろしいことに)。

自分と同時代に発表された作品には「解説」が乏しく、というか、まだきっちりと価値判断が下されていない場合が多いがそこに自分なりに言葉を当てはめていくという積極的な態度は対象がなんであれ、必要なことだと思う。ただし、伊福部が言うように作品外での過剰な意味づけは時に人間の観賞眼を奪いかねない(だからこそ、そこに批評の価値があるのだと思う、私にはできないが、だからこそ私は良き読者ではない)。

素朴な思いだけれど、「他者による意味づけ」の盲信にだけは陥りたくない。学んだことを咀嚼して自分の言葉で語っていきたい。というか、極端に真面目な人間である私には、たぶんそれしかできないだろうし、そこに読書の面白さを感じてしまっている。