言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

すっきりした文で、コミカルで、怖い―村田沙耶香「コンビニ人間」

今回は、村田沙耶香「コンビニ人間」について。この作品は第155回芥川賞受賞作ということで色々な人が手に取り、Twitterなどで感想を述べている。色々な人がひとつの作品について様々な感想を語る、今のこの状況、私はとても楽しい。

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

 さて、「コンビニ人間」という作品について具体的に書いていこう。

この作品はコンビニを舞台に現代社会の歪みを上手く切り取って見せてくれた作品だと思う。現実を切り取ることの上手さ、的確さには思わず息を飲んだ。

作品の主人公である古倉さんは、子供の頃から周りの人とは違った感覚を持って生きてきた。たとえば公園で死んだ小鳥をみつけたら「これ、食べよう」と母親に言ってしまう。何故そんなことを言ったかと言えば「お父さん、焼き鳥好きだから」。言った本人は自分のおかしさに気がつかない。こういうキャラクターとして作者に設定された古倉さんは成長するうちに徐々に周囲と自分の間には感覚の違い(大きな隔たり)があるらしいことに気がつく。気がつきながらも根本的にはどうすることもできない。

そんな彼女は大学生の時に偶然みつけたコンビニである「スマイルマート日色町駅前店」でアルバイト店員として勤め始め、大学卒業後もそのまま残り、18年間も勤め続けることになる。コンビニで働いている間に「私は、初めて、世界の部品になることができた」と感じ、「今、自分が生まれた」と思った。世間が押し付けてくる社会人としての「イメージ」を巧みにかわしつつ、古倉さんはコンビニ人間であり続けようとするのだが、ある日バイトとして新しく入った白羽さんという異分子がコンビニ内を狂わせていく。白羽さんもちょっと「おかしい」人だ。でもコンビニによってあたかも「正常な」世界の部品として収まっているように見える古倉さんも実は「おかしな」人だ。この二人の「おかしさ」が並んだ時に読者は一体何が狂っているのかわからなくなる。

私は一読者としてこの「わからなくなる」感じを大切にしたい。

作者はこの作品世界を立ち上げるのに非常にうまく現実を切り取ったと思う。作者の企み(?)は非常に成功していると思う。だが、意図されているが故に(そしてその意図のもとに作品が制御されているが故に)この小説世界には「作り物めいた感じ」が漂っている。この部分を受け入れることができるかどうかが、作品の好き嫌いになりそうな気がする。確かに「コンビニ人間」は、現代社会の一面を切り取っているのだけれど、実際社会に出て生きていると「こんなに単純ではないよね?」と思えてしまう。もちろん、作品の意図はそこではないから、文学として論じる場合こんなことを問題にしてはいけないことは承知である。

だが、私は批評家でもなんでもないので、あくまで読書感想文という体裁に逃げて書いてしまうと、「正常」か「異常」か、というふたつ面のみにデフォルメして描かれた社会に、私は息苦しさを感じてしまった。正常とも異常とも言い切れない「グレーゾーン」的地帯が現実にはあるはずで、本作においてはそういう「グレーゾーン」が綺麗に切り捨てられてしまっている(こういう大胆な切り取り方には作品としての完成度の高さを感じる)。

この「グレーゾーン」の切り捨てが他者の価値観に対して「寛容でない社会」を匂わせているようにも思え、そこがまた私を苦しくさせるのだ。作品の「明晰さ」が私には少しきつすぎたのかもしれない。すっきりした文で、コミカルで、怖い。

 

作品の冒頭で「コンビニの音」が書かれている部分が魅力的だ。

 

コンビニエンスストアは、音で満ちている。客が入ってくるチャイムの音に、店内を流れる有線放送で新商品を宣伝するアイドルの声。店員の掛け声に、バーコードをスキャンする音。かごに物を入れる音、パンの袋が握られる音に、店内を歩き回るヒールの音。すべてが混ざり合い、「コンビニの音」になって、私の鼓膜にずっと触れている。

村田沙耶香「コンビニ人間」冒頭より引用、文芸誌版を読んだので頁番号は割愛)

 

作中でコンビニに与えられたイメージも非常に現代的かつ効果的で、切り取られデフォルメされた小説世界を現代の現実世界らしく見せている。コンビニは人工的で、よく整った清潔な場、「指紋がないように磨かれたガラス」に囲まれた「透明な水槽のよう」な場所。

「コンビニの音」という表記が作品の終わりのほうで「コンビニの声」になっている。音を声と感じてしまうほどに主人公古倉さんは「人間」から乖離してしまっているのか。こうして彼女は、一度は否定されたコンビニでのアルバイト生活に戻って行く、「コンビニ人間」として「水槽」の中に再び生まれる。そこにいれば古倉さんは世界の部品になったような安定感を得ることができる。それはそれで幸せかもしれないが結局「水槽」の中でしかない、いう所に私はぞっとしてしまった。