さて予告通り前回の続き。
実際、この本はひとつの物体として美しいのでおすすめである。
村上春樹、カット・メンシック(イラストレーション)『ねむり』(新潮社、2010年)について。
↓前回記事
■作中の「アンナ・カレーニナ」
村上春樹の『ねむり』という小説の中で、眠れなくなった主人公がまずはじめに読み始める小説が「アンナ・カレーニナ」だ。そのことを私は今年になって「アンナ・カレーニナ」を読んでいてふと思い出した(数年前に『ねむり』は何度も読んでいた本だったのだ)。ちょっと感動した本との再会だった。
「アンナ・カレーニナ」を読んだ後、改めて『ねむり』を読むと、作者がどのように自身の小説作品の中に古典を混ぜ込んでいったのか、見えてくる。
ちなみにふと思い出した時に私がtwitterで呟いた感慨がこんな感じ。
『アンナ・カレーニナ』を読み始めた。外の嵐にふと気を取られ、物語を中断して顔を上げると、本棚にあった村上春樹の『ねむり』に目が止まった。意識、恐ろしいもの。『ねむり』に登場する主人公がチョコレートを貪り食いながら読んでいた小説がたしか『アンナ・カレーニナ』だった。(@MihiroMer 、Twitter、2016年5月4日)
さて本題に入ろう。
「アンナ・カレーニナ」においても「夢」は重要なキーワードになっている。アンナがみた夢は確かこんな感じだった。
髭をぼうぼうに生やした百姓が袋の上にかがみこんで、ひどく早口にフランス語をしゃべっている、「鉄を鍛えて、砕いて、打ち直さなけりゃ……」と。
この「夢」がアンナ・カレーニナの不吉な結末を予感させるものとなっているわけだが、村上春樹の『ねむり』においても「夢」が不眠の(実は不眠ではないかもしれないが。)起点になっており、物語にとって重要なファクターになっている。
それからもう一つ。
私は以前このブログで「アンナと読書」の関係に注目した記事を書いた。
そして今回久しぶりに『ねむり』を読み返してみると、この作品の主人公「私」と読書の関係がアンナその人を彷彿とさせることに気がついた。どちらも小説というものに、入り込みがちな読書をしている。自分の側に小説の人物を引き寄せるか、あるいは自分の方が小説の登場人物に乗り移るのである。
私はヴロンスキーとともに馬に乗って障害物を跳び越え、人々の歓声を耳にした。同時に私は観客席にいて、ヴロンスキーの落馬を目にした。私は本を置いて明かりを消し、台所でコーヒーを温めて飲んだ。
(村上春樹『ねむり』41頁-42頁より引用)
小説「アンナ・カレーニナ」を読む「私」は「アンナ・カレーニナ」という作品の中に入り込み、のめりこんでいくように読んでいる。その読み方がアンナその人に似ている、と言えなくもない。特に物語の前半部分で本を読んでいるアンナその人に。
物語前半、アンナは小説の中の人物を自分の側に引き寄せるように読書をしていた。例えばこんな風に。
「小説の女主人公が病人を看護しているところを読むと、彼女は自分でも病室を忍び足で歩きたくなり、国会議員が演説するのを読むと、自分もその演説がやってみたくなる。」
(中村融『アンナ・カレーニナ』岩波文庫、上巻、第一編188頁より引用)
アンナが読んでいる小説は(たしか)イギリスの小説だったと思う。そこに登場する人物たちに自分の人生を重ねるようにして読んでいる。この時点でアンナにとっては自身の「生活」のほうが大切であるから自身の「生活」に登場人物たちを引き寄せていく。
『ねむり』の主人公はアンナやヴロンスキーに自分自身を乗り移らせている。「眠り」という行為から解放されて得た「自分の時間」を惜し気もなく「アンナ・カレーニナ」に投入する。この一種異様なハマり方が、次の項目で書く「私」の分離を暗示させているように思われてならない。
■「私」の分離
先ほどの『ねむり』の引用をもう一度注意深く読んでみると、「アンナ・カレーニナ」の登場人物に自らを乗り移らせた「私」が3人に分離しているのがわかる。
- ヴロンスキーの乗り移った「私」
- アンナに乗り移った「私」
- 以上の2人を見ている小説を読んでいる「私」
『ねむり』の主人公は3人家族であるし、ラストも3人だ(車に閉じ込められている「私」と車を揺する影(男)2人)。
「分離」という観点でこの小説を読み返してみても面白いかもしれない。作中、何度も主人公「私」の分離現象も描かれている。ルーティーンをこなす肉体と、どこか浮遊している精神と(この場合2つに分離している)。それから、こんな描写もある。小説の続きを読みたいが、習慣にしていたプール通いもしたい。そんな「私」がプールに行きたいと思う動機だ。
うまく説明できないけれど、私は思い切り体を動かすことで、体の中から何かを追い出してしまいたいように感じたのだ。追い出す。でもいったい何を追い出すのだろう? 私はそれについて少し考えてみた。
何を追い出すというのだ?
わからない。
(村上春樹『ねむり』51頁-52頁より引用)
小説「アンナ・カレーニナ」を読みふけるうちに、「私」は自分の中に何人もの得体の知れない「私」を抱え込んでしまっているのではないだろうか。「分離した私」が何人もいて、「私」を異様な感覚に陥れているのではないだろうか。
眠れなくなって一週間ほどで「私」は自分の状況に対して、一度不安に駆られるが、それは「分離」して増殖した「私」が生活に浮遊を始めていることを自覚し始めたためではないだろうか。生活に立脚していないと何だか不安になる、小説ばかり読んでいると生きることに対して弱くなったように思えてなんだか不安になる(これは私に固有の感覚かもしれないが。)
だが、不安になったその時「私」は鏡で全身を見て「不眠」を肯定的にとらえ始める。何故なら「私」の肉体は(その輪郭とも言うべきものは)以前よりも充実している。生命感にあふれ、美しくなっているように思えたからだ。「私」は「人生を拡張しているのだ」と不眠を肯定し、不安を忘れ、暮らしていこうとする。「分離」していてあやふやになっていると思っていたが、やはり自身の肉体の輪郭はくっきりとそこにある、安堵。
しかし、やはり「分離」は「分離」だったのだ。前の記事でも書いた通り、これは「不眠という覚醒」と「覚めない夢(夢のようでない夢)」の物語である。「夢の中を動き回る私」と「眠り続ける私の肉体」という「分離」も想定することが可能だ。
物語の最後には正体不明の男たち2人の影に揺さぶられ、その中心で泣いている「私」がいる。
やれやれ。
村上春樹の小説を読んでいると、ついつい無用な分析を語りたくなってしまう。
僕は誰もが読みたいように彼の作品を読めばいいと思うけどね。