言葉でできた夢をみた。

海の底からわたしをみつめる眼は、きっといつか沈めてしまったわたし自身の眼なのだろう。(書きながら、勉強中。)

生きることと読むこと。アンナと読書―トルストイ『アンナ・カレーニナ』

今回は「アンナと読書のこと」と題して≪生きることと読むこと≫という視点から『アンナ・カレーニナ』について書いていきたい。

 

アンナ・カレーニナ〈下〉 (岩波文庫)

アンナ・カレーニナ〈下〉 (岩波文庫)

 

 

「本を読む女」という視点で論じられる小説作品として最も有名なのは「ボヴァリー夫人」だろうが、実はカレーニン夫人(アンナ)も本を読む姿が描かれている。彼女が読書をしている姿を紹介して、彼女の生活と読書への態度の変化を考えたい。

 

アンナが読書をする姿というのは二か所ある。前半の第一編と、後半の第六編だ。まずはそれぞれの箇所を引用しておこう。

 

「アンナは読書をつづけ、理解もしていったが、読むということは彼女には不愉快だった、つまりそれは他人の生活の姿を追っていくにすぎないからである。彼女はなによりも自分自身で生きてみたかったのだ。小説の女主人公が病人を看護しているところを読むと、彼女は自分でも病室を忍び足で歩きたくなり、国会議員が演説するのを読むと、自分もその演説がやってみたくなる。」

中村融 訳『アンナ・カレーニナ岩波文庫、上巻、第一編188頁より引用)

 

「アンナは客のいないときでも常に身だしなみは忘れず、また実によく読書し、小説でも、かたい本でも評判のものはなんでも読んだ。とっている外国の新聞や雑誌で推賞している本は残らずとりよせて、孤独なときにしかない注意力をもってそれを読破していった。」

中村融 訳『アンナ・カレーニナ岩波文庫、下巻、第六編180頁より引用)

 

こう、並べてみるだけで読書に対するアンナの変化がわかる。それぞれの状況について簡単に説明する。第一編のものはモスクワからペテルブルグへ鉄道で移動するアンナが車中で本を読む姿である。彼女はモスクワへ兄オブロンスキイ夫婦の喧嘩を仲裁しに出かけたのだった。そこで後に彼女の不倫の恋の相手となるウロンスキーに出会ってしまうのだが、この段階でアンナの心はまだ、彼女の平穏な家庭のうちにあった。ペテルブルクには夫のカレーニンや愛しい息子であるセリョージャがアンナの帰りを待っている。ちなみにこの時アンナが読んでいるのはイギリスの小説らしい。ペーパーナイフで頁を切りながら、少しずつ読んでいるような印象を受ける。読む事よりも、実生活を生きることのほうがアンナにとって重要なことだったのだ。このあたりを読んで思うのは、やはりアンナは読書に集中してはいない。周囲の物音や明暗、温度に気を取られながら頁を切っている。そして書かれている行為を実際にやってみたくなる。文字を追うというより、実際の行為に重きを置いているようだ。

 

それに対して第六編のアンナの読書姿勢は最早乱読である。読むことが目的になっている。読んでいる間、彼女からは生活や実際の行為、といったものが忘れ去られている。ただ読み続ける。なんでも読む。忘れたいがために。実はこのあたりでアンナはカレーニンと我が子セリョージャを捨て、ウロンスキーと同棲生活をしている。しかしウロンスキーとの関係もどこか冷え始めており、アンナは自分の生活に生じてきた孤独を埋めるのに読書をしているように見えるのだ。少しずつ空虚になっていく自分の「生活」というものを感じる怖さの只中にいる。その空虚さを埋めるためにアンナは麻薬(アヘンだったか)を使って眠り、貪るように本を読む。

この後半の読書シーンの少し前に、ドリィ(アンナの兄オブロンスキイの妻)がアンナに会う場面がある。そこでドリィはふとアンナの印象を思い出す。

 

「そのときふと、なぜか眼を細めるアンナの奇妙な新しい癖を思い出した。そして、アンナが眼を細めるのはいつも話が生活の内面にふれるときだったのが思い出された。≪まるであのひとは、なにも見まいとして自分の生活に対して眼を細めているみたいだ≫――とドリィは思った。」

中村融 訳『アンナ・カレーニナ岩波文庫、下巻、第六編151-152頁より引用)

 

「自分の生活に対して眼を細めている」。前半あれほど「なによりも自分自身で生きてみたかった」アンナが生きるということを直視できなくなっている。彼女をとり巻く状況の変化が、彼女の生活への意欲を変化させる。そしてそれが読書態度を変えてしまう。

 

これは単に私の雑感であるが「生活」を形作るということは「本を読むこと」に比べると遥かに煩雑で難しい。許されるなら暮らしに対して何の心配もせず、延々と本を読んでいたい。これはある意味では逃避だ。私の生活の中にも密かに逃避の願望があるらしい。

 

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